2007年12月6日木曜日

バベル(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

 いくつもの「拒絶」が、ここにはある。
 モロッコで誤射されて重傷を負ったアメリカ人旅行者を、他の観光客たちは見捨てて先に帰ろうとする。通りがかった現地のドライバーも助けようとはせず走り去っていく。
 東京で暮らす聾の女子高生チエコは、繁華街で声をかけてきた若者グループに蔑視され、避けられる。思いを寄せていた刑事からも「さよなら」と告げられる。
 アメリカでベビーシッターをするメキシコ出身の女性は、母国での息子の挙式の帰路、アメリカの国境警備隊から一方的に犯罪者扱いされ、検問を通してもらえない。
 このように、並行する3つのストーリーはそのいずれもが「人が人を拒む」ものである。そして、遠く離れたこれらの物語を結び付けているのが、一丁のライフルだ。チエコの父がモロッコにハンティングに訪れたとき、ガイドを引き受けた住民に自分のウェンチェスターを友情の証として譲り渡した。やがてこれが羊飼いに転売され、彼の幼い息子たちがこの銃で遊んで、通りかかった観光バスを撃ってしまう。ここに乗っていて負傷したのが冒頭のアメリカ人女性であり、その彼女の子供のベビーシッターを勤めていたのが検問所で止められたメキシコ人の女性だ。
 「北京で趙が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」という、複雑系と呼ばれるアカデミズムでの有名な言葉がある。それは物理現象だけに留まらないのだろう。アフリカの山岳地帯で放たれた、たった一発の銃弾が日本とアメリカとメキシコにまで波紋を広げた。
突然撃たれ、必死で救助の手を求めるスーザン。この銃の所有者であった父を事情聴取するためにマンションを訪ねた刑事へ好意を覚えるチエコ。安否の分からない母のことを秘密にしたまま、彼女の子供たちをメキシコへ連れて行ったサマリア。やがて彼女たちにもたらされた、それぞれの「拒絶」。
 3つの「拒絶」の物語に共通して登場する印象的なものがあった。それは「警察」だ。権力を行使し、被疑者に弁明の余地を与えない警官という存在は、タイトルの「バベル」を「言葉が通じない、対話が出来ない」という意味だとすれば、まさにその隠喩である。彼らは他者を威圧し、威嚇し、対等に話し合う関係をことごとく拒否する。なかでもモロッコの警察は、銃撃犯の子どもとその兄と父親を見つけるや否や容赦なく集団で発砲を始めた。その攻撃によって、幼い兄は殺される。それでもなお彼らは発砲を止めない。荒涼たる山肌に銃声と悲鳴だけがこだました。それは「暴力」と呼ばれる極限の「拒絶」の光景だった。
 その日、チエコがテレビをつけると「アメリカ人観光客狙撃事件の犯人逮捕」というニュースが流れ、その後「負傷したスーザンさん無事退院」との続報も伝えられた。だが、犯人の兄が射殺されたことは全く触れられなかった。それは先進国の、途上国の境遇への「無関心」というこの世界にある最も深刻な「拒絶」の存在を暗に示していた。
 ちょうどその時サマリアは、検問を強行突破した運転手の甥によってスーザンの子供と共に国境付近に広がる無人の荒野へ置き去りにされ、途方にくれていた。
人と人のつながりについて、かつて「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。」とキルケゴールは語った。[1]
その言葉のとおり、私たちは他者との関係性の連鎖の中で生きて、そして死んでゆく。けれども現代の我々は、その連鎖を断ち切りたくて仕方がない。だから、異なる他者との「連帯」よりも「分断」を好み、「対話」よりも「対決」を支持する。そしてその選択の結果、世界には新たな「拒絶」が広がり、さらに他者との衝突が激化する。
9・11、イラク戦争、テロ、経済格差、移民排斥、宗派対立、民族紛争、愛国主義…
アメリカでは、他者への寛容と共存を志向する「リベラル」という言葉は十数年以上も前から既に「弱腰」と同義のレッテルでしかなくなってしまった。[2]
日本では、戦争ではなく話し合いのみによって他国と関わることを誓う現憲法を時代遅れと嘲り、葬ろうとする動きが今までになく加速している。
フランスでも、連帯と社会正義を訴える社会党のロワイヤルを、競争と秩序を掲げる右派のサルコジが打ち倒した。
そして、本作の公開と同じ頃、再びまた2つの深刻な「拒絶」の出来事が起きた。
一つはアメリカ・バージニア工科大学で起きた、32名もの死者を出した史上最悪の銃乱射事件だ。それは、周囲から拒絶され続けた貧しく内気なマイノリティーの青年からの、富める多数の白人たちに向けられた、「殺人」という手段による「拒絶」の報復であった。
もう一つは、皮肉にも本作そのものが引き起こした事件である。菊池凛子が聾唖の女子高生を演じたにもかかわらず日本での公開の際、当初日本語の場面には字幕が入れられなかった。それに対して聾の観客の強い抗議運動が発生し、ようやく字幕の挿入が決まったのだ。
バベルの塔を越えて「届け、心」と謳うこの作品までが「バベル」そのものと化した事実は逆説的に、いかに「拒絶」というものがこの世界に溢れているか、を浮き彫りにした。
したがって、誰かの助けを求めて灼熱の大地をあてどなく一人さまようサマリアの姿はまさに、無数の「拒絶」に囲まれて、「関係性の難民」と化した現代の私たちの姿そのものに他ならない。
その悲愴な光景を見ながら、自分は改めてこのように思った。
なぜ同じ人間と人間同士が、他の生き物のように歩み寄るのでなく突き放し、受け入れるではなく退けるのだろう。そして、なぜ私たちは言葉があるのに「黙れ」と怒鳴るのだろう、なぜ私たちは心があるのに「殺せ」と叫ぶのだろうか、と。
けれども、この物語は「拒絶」された者を最後まで拒み続けはしなかった。
撃たれたスーザンはヘリで大病院に移されて無事、回復した。サマリアと、スーザンの子供たちも、やがて警備隊に発見された。
そして、片思いの刑事に裸で迫ったものの無碍に拒否されたチエコは、帰宅してきた父に悲しげに近寄って抱きつく。都心の超高層マンションという、現代にそびえるバベルの塔で、手と手を強く握り合ってたたずむ父子のシルエットは、ベランダの下に広がる夜景の中、今宵もまた繰り返される数多の「拒絶」の上へ架けられた、小さいけれども確かな、人が人を信じることへの「希望」を表すアーチであった。
そしてその美しいラストシーンはこう語っていた。
「私たちが拒絶すべきものは、ただ『拒絶』そのものだけなのだ」と。
[1] キルケゴール『死に至る病』岩波文庫参照
[2] マイケル・ムーア『おい、ブッシュ、世界を返せ!』アーティストハウス244~5頁参照

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匿名 さんのコメント...

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