2008年9月8日月曜日

近頃巷に流行るもの・妖怪「ダダ女」


                       序文に代えて
止むことのない物価高、昨年に引き続いての突然の首相辞任で混迷の度を一層深める政界、私たちの生活を脅かす医療崩壊、雇用不安、年金不信・・・夜明けの見えない我が国で今、はびこり始めた新種の「魔物」がいるという。
それが「妖怪・ダダ女」である。奴らは事あるごとにデートで男に理不尽かつ不可能な要求をし、僕らの身も心も財布もボロボロにする。奴らは純情な男心を弄ぶのを何よりの生き甲斐とし、振り回された男の涙を生きる糧とする獰猛な闇の種族に他ならない。
「ダダ女」、それは男女平等が説かれて久しい現代日本が作り出した鬼子なのか、はたまた世知辛い平成の世に咲いた 時代のあだ花なのか・・・
僕は、哀れにも犠牲となった幾人もの仲間たちの弔いのため、そして個人的な恨みもあり、ついに奴らの実態を告発する決意をした。

「すいませんコーヒーお代わりもらえますか」2008・8・25東千葉駅前バーガーキングにて 

ケイタイがバリ2じゃないとブチキレ、バリ3だと通話良すぎて駄目という
「電波塔女」・・・・いると思います(天津・木村風)
以下、最後に「いると思います」を付けて読んで欲しい。

植物園に行ったのに「パンダが見たい」と騒ぐ、「魚を買いに八百屋へ行く女」

公用車しか乗れないという「公金横領背任汚職女」
 
映画館では必ずM‐13席じゃないとダメという「ジンクス女」

寿限無と歴代徳川将軍全部暗記してないと帰る「記憶フェチ女」

ベイFM入らないとこには行きたがらない「周波数女」

デートの一部始終をオレだけ実名で全部ネットに書き込む「個人情報漏洩女」

「ホリデーパスって何ドル?」なんでもドル換算させる「アメリカン女」

両国で下車するのに総武線は三鷹行きじゃないと揺れが大きいから乗りたくないとダダこねて中野行きを見殺しにする「月刊鉄道ファン愛読女」
新宿駅南口で待ち合わせだとヒトが多すぎてヤだと言いアルタ前で待ち合わせにしてやっぱりヒト多すぎて見つからない、「ウォリーを探せ女」

左ハンドルにしか乗りたくないと言い左ハンドルだと右側の席はいつもは運転席だから落ち着かないとブツブツうるさい、「こだわりの車内アメニティ女」 
デパートのレストランなんか子供が行くところだと怒りスタバもサイゼもダメで「おいしいチャーハンが出る隠れた名店がイイ」と言い張る「食い道楽女」
土曜日はメレンゲの気持ち見て日曜日はサンデージャポン見るから会えないと譲らない「夏休みは毎日タッチの再放送見てました女」
千葉銀のATMが徒歩五分以内に四台あるとこしか行きたくないと騒ぐ「反みずほ銀行女」
渋谷の東急ハンズ行くときは絶対車じゃないとイヤだと言う「都内の駐車料金の高さが分からない茨城女」
円よりユーロしか信用しないと言い張る「変動為替相場女」 低気圧の日は気圧低すぎるから逢えないけど高気圧の日も気圧高すぎて逢えない「森田さんお天気コーナー」女
遊園地は貸し切りじゃないと行きたくない「マイケルジャクソン・ネバーランド」女
先祖が武士か商人以外の男とは付き合いたくない「家計図女」
中華は何でも大好きというのにチンジャオだけは大嫌いな「逆・こだわりの一品女」

週末一緒にビデオ見ようと言うのに絶対一泊でしかレンタルしようとしない「ツタヤ延滞上等女」

東京京行くときは何が何でもアクアライン使いたがる「ゼネコン女」

居酒屋で黒ウーロンないとマジ切れする「福建省女」

ちび丸子ちゃんに間に合わないからと四時に帰宅する「長沢君ち全焼の巻で号泣女」
アップルとトマト をネイティブ風に発音できないと罵倒してくる「NOVA女」
こち亀全巻おねだりする「ブックオフポイントカード3万点女」
デートのプランは雨天用・晴天用・曇り用・曇りのち晴れ用・晴れのち曇り用の五つを必ず用意させる「全てが想定の範囲内女」

レストランや居酒屋で隣の客がキモいと即帰る「客層にうるさい客女」
ナスかナスビかでどこまでももめる「日本語練習帳女」

店員の方が綺麗だと即店チェンジの「嫉妬暴走女」

ドタキャンでなく急用、キャンセルでなく延期と言い張り、敗退を転進と言い換え全滅を玉砕と言い換える「大本営女」

次のデートは8ヶ月後まで無理というビルゲイツ会長ばりの「分刻みスケジュール女」
和牛以外は肉じゃないとうるさくて仕方ない「アンチオージービーフ女」

原宿のクレープを市川で食べたいとねだる「テレポーテーション女」
オレにはオマエっていうのにオマエにはオマエと言うと泣く「アネゴ女」

2月29日しか逢えない「うるう年女」

カラオケではわざと声を潰して歌ってオレに褒めさせる「長淵女」

自分のSuicaを男にチャージさせる「間接貢がせ女」
本なんか読まないのに初版の「羅生門」をねだる「プレミア女」
ネットでオレを農奴としてオークションにかける「奴隷商人女」
カレーライスとライスカレーの違いに納得のいく説明を執拗に求める「似て非なるもの女」

オレとの会話よりヤツとのメール時間の方が長い「心ここにあらず女」

「マジ自動改札とか超ウケるんですけど!」「ファミマ!!笑!!!!」「ミニバン!!!」明らかに笑いのツボが常人とおかしい「天然系不思議女」
「ラルクと私のどっちが大事なのよ!」「ふざけるなメス豚!hydeに決まってんだろ!」
「フラワー熱唱男」
いないと思います

サブプライムローンについて十文字以内で説明を求める「NHK週間子どもニュース女」
普通の会話でオレにファルセット(裏声)を多用させる「ボイトレ女」

「リンゴ、台湾、炊飯器、共通するものは?」難解なクイズばかり出す「ヘキサゴン女」

「寄せ書きしながら生ガキ食べる稲垣食後に歯磨き。首都高尾行、母校は廃校」何でも韻を踏ませて話させる「UKラップ女」

河原でデート中、カメラ映りが悪いから川の流れを逆にしろとせびる「黒澤明女」

「ペットボトルは燃えるゴミ!」と主張して譲らない「名古屋式分別回収女」

「私がオバサンになっても~してくれる?」とイチイチ聞いてくる「森高千里女」

「サンシャインビル消してよ!!!」とねだる「マスクマジシャン女」
                         みんなみんないると思います 続

2008年9月2日火曜日

ダークナイト(クリストファー・ノーラン監督2008)95点


 ハリウッドエンターテイメント大作において、本作は間違いなく近年の最高傑作である。映像技術、脚本、編集、演出、演技どれもが比類なき完成度を誇る。最大の見せ場のアクションシーンは、もはや『マトリックス』を凌ぐクオリティは有り得ないと考えられている現在でも同作に並ぶとも劣らないスタイリッシュでエキサイティングなものに仕上がっている。
 本作を、娯楽作品に否定的な批評家の面々までも称賛せざるを得ない稀代の傑作足らしめたものは、『スパイダーマン』、『マトリックス』、『ハリーポッター』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』等の他のメガヒット作品とは明白に異なるスタンスのためであろう。
 それは、この物語を貫く「リアリズム」と「ペシミズム」だ。他のアメコミヒーローと違い、正体は生身の人間にすぎないバットマンは街を脅かす悪と戦う中で日々、人並みに体は傷つき、心も苦悶する。血を流す二の腕を見ながら「バットマンを続けることで本当にゴッサムシティからいつか悪を根絶できるのだろうか」と。その一方では叶わぬ恋にも苦闘している。
 そんな思い通りにいかないばかりの日常の中、最大最強の敵が彼の前に出現する。それが「ジョーカー」だ。
「世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・名誉をえようと思って悪をなす。」[1]ある名高い思想家はこのように「悪」を分析した。しかし、ジョーカーにはそんな目的はどこにもない。仲間や手下でさえ平気で殺害し、病院を爆破し、街中の銀行から強奪して積み上げた巨大な札束の山にはガソリンをまいて躊躇無く火をつける。彼はまさに「悪のためにのみ悪をなす」常軌を逸した存在に他ならない。
 ジョーカーが持つ猟奇と狂気は実在した殺人鬼の姿を強く連想させる。ゾディアック、都井睦雄、宮崎勤、ウ・ポムゴンetc。彼らは突然、幾人もの人々を次々に殺し始めた。その動機はいまだにはっきりと分からない。
かつてキリストは「心の貧しきものは幸いである」と語り、親鸞は「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と述べて、自ら犯した罪を悔い改める人間こそが天国に行けるのであると説いた。だが、21世紀の現在、こうした悪人像はもはやあまりに牧歌的なのかもしれない。『羅生門』[2]の主人公の下人は平安時代、貧困ゆえ、生きるために盗賊になる決意をした。しかし、現在の凶悪犯にはそういった合理的な理由は見当たらないのだ。ジョーカーはしたがって、間違いなく現代を象徴する「悪」の姿だと言えよう。
ジョーカーは「正義」のシンボルであるバットマンを心底憎悪している。彼に対する恨みだけが、ジョーカーの生きる糧となり、彼に次々と悪事を働かせるのだ。
「バットマンがいるから私がいる」
この言葉が、2人の関係を端的に示す。古代中国の「陰陽思想」によれば、世界は陰と陽の2つの要素から構成されているという。その中には、陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つとする「陰陽互根」という考えがある。この世における「正義」と「悪」の関係はまさに大極図のように深く絡み合ったものであり、相互依存的であり共依存的であるのだ。
だからこそ、例えばアンパンマンもウルトラマンも決して「悪」に対して止めを差すことはいつであれ出来ないし、「世界の警察」を標榜するかの国アメリカも常に新しい「脅威」を探し続けているのだろう。「敵こそ、わが友」という皮肉でやり切れない真実がここにはある。余談だが現在上映中の同名ドキュメンタリー映画では、ナチスの超大物高官であったクラウス・バルビーを戦後、アメリカがファシストの戦犯として裁く代わりに新たな敵である共産主義勢力との戦いに利用した事実が丹念に暴かれている。
バットマンの「落とし子」であるジョーカーは、「正義」ゆえに決して法を犯すことができないというバットマンの弱点を容赦なく突いてくるのであった。ジョーカーはバットマンが正体を明かさない限り毎日1人ずつ罪の無い一般市民を殺害すると宣言し、街を恐怖に陥れた。そして実際に犠牲者が出てしまう。もはやジョーカーの蛮行を止めるにはジョーカーを殺してしまう以外に方法はなかった。ジョーカーは狂人のため、逮捕したところで精神病院送致にされるだけですぐに釈放されてしまうからだ。「法で裁けぬ悪」に対して「法に基づいて」立ち向かうことは勝ち目のない戦いでしかないことはバットマン自身も無論十分に承知していた。バットマンはジョーカーの前に完全な敗北を喫したかに見えた。
「フェアプレーを守るつもりのない者に臨む時はこちらもまた、フェアプレーを守る必要はないのである。さもなければ道理と正義のある側が常に負けることになる。」という文章を文豪・魯迅が生前残していたことを自分は思い出した。[3]無法を当然とするナチスの台頭に対して自由と民主主義を旨とする憲法と法律の範囲内であくまで対処しようとしたワイマール共和国が無残に粉砕され、ヒトラーやバルビーたちに乗っ取られてしまったという歴史上の逸話は彼の警句が極めて現実的であることを表していたといえる。
だが、バットマンは「正義のバットマン」であるがゆえ「フェアプレー」を投げ捨てることが決してできないのだ。彼は、自分もまた法を犯してしまうようになればそれは「悪」と同義であり、ジョーカーの前に屈することになると考えていた。だが一方、バットマンと共にジョーカーと果敢に戦ってきた熱血漢の検事は彼の挑発に乗ってしまう。
最凶の悪の前に激しく葛藤し、それぞれの異なる「決断」を行う主人公2人の姿が描かれることで、本作は単純な娯楽作とは一線を隔てた奥行きある作品に成立している。
最後にもう一度述べよう。バットマンは二重の意味でジョーカーを倒せない。
1つは「正義と悪はコインの裏表である」がゆえに。もう1つは「正義はアンフェアに対してもフェアプレーでしか臨むことができない」ゆえに。
本作のタイトルである「ダークナイト」という言葉はこのジレンマを解くヒントだったことに観る者は最後に気づく。それは、光り輝くヒーローから「暗黒の騎士」(dark knight)へと変わることであり、闇夜を照らす光から己自身が闇夜(dark night)へ成ることである。
ゴッサムシティの唯一の希望は、これからどこへ向かうのだろうか。それは誰にも分からない。物語は明けない夜のまま幕を閉じる。けれども私たちはまた、誰もがある1つの疑いなき真実を知っている。
「夜明け前が一番暗い」ということを。了
[1] フランシス・ベーコン『ベーコン随筆集』一穂社2005参照
[2] 芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫2000
[3] 佐高信『魯迅烈読』2007岩波書店「フェアプレーはまだ時期尚早である」参照