2008年4月27日日曜日

ディパーテッド(マーティン・スコセッシ監督2007)90点


 DEPARTED=「死者」というタイトルが象徴するようにこの作品は、死線を越えるギリギリのところで命を賭けて戦う2つの組織の男達の姿を描いた物語である。第79回アカデミー作品賞・監督賞を受賞した話題作だ。
 警察とマフィアの抗争をテーマとした映画は多々あるが本作の特徴は、「警察に潜入したマフィア」・サリバンと「マフィアに潜入した警官」・ビリーの二人を主人公にすえていることだ。香港の『インファナル・アフェア』をリメイクしたものだが、オリジナルに比べると「仁義」や「人情」といった人間くさい部分はことごとく排除されていて、どこまでも乾いたタッチで決死の騙し合いが展開されている。
 スパイである彼ら二人が組織の信頼を勝ち取っていけばいくほど当然、機密はますます筒抜けになり、組織の中には逆に猜疑と不信が蔓延していく。そうして「裏切り者」探しが激化する。彼ら二人も互いの正体を突き止めようと血まなこになる。相手より先に自分の素顔を知られてしまえば、それはすなわち「死」と同義である。
 このような極限状況の二重生活を余儀なくされた彼らは皮肉にも同じ精神科医を愛してしまう。彼女の前でだけは彼らは覆面を脱ぎ捨て、素顔をさらけ出すことが出来た。けれども、全てが無情に破滅する瞬間は刻一刻と近づいていたのである。
 おとり捜査が進展する中で、マフィアのボス・コステロが実はFBIと癒着していたことをビリーは突き止める。それを知ったサリバンは「自分はボスに都合よく利用されていただけではないか」と疑心暗鬼に駆られ始めるのだった。
 やがて、ボスの最期の時が訪れる。麻薬取引の現場へ、ビリーの情報を元に乗り込んだ
サリバン率いる捜査班は壮絶な銃撃戦の末、コステロを追い詰めた。サリバンは逃走する彼と対峙して、自らの手で遂に射殺したのである。
 この場面を含めてラストの一連の展開はオリジナルとは大きく違っている。オリジナルの方では「改心し、正義の道を歩んで成功する」ことを決意したために、主人公のマフィアはボスを殺すのだが、本作ではそうではなく「不信と憎悪」のみが動機となって引き金が引かれるのである。その後、サリバンの正体を見破ったビリーが彼と遂に一対一で出会うのだが他にも警察に潜り込んでいたマフィアによってその場でビリーは殺されてしまうのだ。オリジナルでは彼の葬儀のシーンで物語は幕を閉じていくのだが、こちらではそうではなく、ビリーの直属の上司が彼の敵を討つために、サリバンを射殺する場面で終演となる。
 かくもこのように、この作品はオリジナルと比較した際、数段殺伐として、ドライなものとなっている。ここにあるのは、組織のために生きた男達の折り重なった亡き骸だけだ。銃声と流血と死のみがどこまでも繰り返される光景は、まさにオリジナル冒頭で紹介される仏教の「無間地獄」そのものに他ならない。ビリーとサリバン亡き後も警察とマフィアは再び新たな部下を互いの組織に潜入させて、「ディパーテッド」の山が積み上げられていくのである。了

2008年4月17日木曜日

クローバーフィールド/HAKAISYA(マット・リーブス監督2008)95点


 友人のパーティーを撮影していた主人公が大きな爆発を聞いて路上に駆け出し、ハンディカムを向けた先には、轟音を上げて吹き飛んでくる自由の女神の巨大な頭部があった。近くで見ると顔は爪のようなものでえぐられて、ひどく傷ついていた。その直後、地鳴りと共に周囲のビルが粉々に破壊されていった。人々はただ、瓦礫と煙の中を叫びながら逃げ惑うしか術はなかった。一体、今ニューヨークに何が起きているというのだろうか。
 本作は制作者たちの言葉によれば「新感覚のアトラクションムービー」である。喩えて言うなら、遊園地のジェットコースターのスリルとお化け屋敷の恐怖を掛け合わせたような趣向の斬新な作品だ。
 『ゴジラ』や『グエムル』、『キングコング』など都会に出現した怪獣を主役にしたパニック映画を、ホラー作品『ブレアウィッチプロジェクト』や『ノロイ』のようなハンディカム撮影による一人称の擬似ドキュメントタッチで描き出す。こうした試みは本邦初めてであり、1億ドルを超える大ヒットはこのアイデアが見事な成功を収めたことを物語る。
 何よりも特筆すべきは、迫力に満ちた音響効果と、臨場感溢れる手持ちカメラの映像と最新のVFXの巧みな融合である。それによって、巨大な「何か」の存在がどこまでもリアルになって、観客に激しい恐怖を呼び起こす。また、「手持ちカメラ」という制約のために、化け物の全容が露わになるのは、ヘリで主人公たちが空から脱出する終盤だけである。一向に正体が判明しないことが、観る者の緊張感を高いまま最後まで保ち続ける。そしていよいよ姿を見た際に我々が受ける衝撃を、そのおぞましい造形も相まって絶大なものとするのだ。
 あるいは、化け物から産み落とされた小さな怪物たちが真っ暗なトンネルの中で主人公たちに襲い掛かるシーンもあったが、それは『バイオハザード』を彷彿とさせ作品を一層恐ろしいものへと仕上げた。
「大きな化け物」と「小さな怪物」の2つを設定することによって、「もうどこにも安全な逃げ場はないのだ」と観る者を絶望的な心境にさせる。そして、主人公たちがドアを開けるたびに「奴らが来るのでは」とひどく不安がらせるのである。
ただ、このように独創性に富んだ映画ではあるけれども、あえて苦言を呈するとすれば本編85分という長さにも関わらず、冒頭のパーティーの場面が長すぎてテンポが悪くなってしまっていたこと、映像の手振れが激しすぎて気持ち悪くなってしまったことを指摘しておきたい。
しかし、それでもやはり本作には太鼓判を押したいと思う。映画館の大スクリーンでこそ、一見の価値がある。映像は無論のこと、音響をこそぜひ体感してほしい。
「化け物」がNYを進んでいく時の「ズシリ、ズシリ」という身震いするような地響き、軍隊が機関銃や大砲を使って「化け物」と戦う際の激しい発砲音、事態を全く飲み込めないまま一心不乱に逃げ惑う人々が上げる凄まじいばかりの喧騒、ビルや橋が破壊される折に生じるけたたましい轟音…「HAKAISYA」の真髄はこうした「音」の中に間違いなく存在するといえる。
マンネリ化とネタ切れの感が久しいハリウッドにおいて本作はエポックメイキングとなる快心の一作であった。
映画において「発想」がいかに大切かということを改めて思い知らされた。了

2008年4月11日金曜日

改憲幻想論―壊れていない車は修理するな(佐柄木俊郎著 朝日新聞社2001) 


 本書は、昨今かまびすしくメディアや政界で議論されている憲法改正論について、その実態を批判的に分析し、そして現行憲法の可能性を探求したものである。
 まず始めに、「環境権」などの新しい人権や「伝統、公共心の尊重」等の条文を付加するといった類の、現在我が国を覆う閉塞感の打破を狙った憲法改正論の非現実性、無意味さを指摘する。著者のこの意見には全くもって自分も同感であった。かねてから「なぜ憲法の言葉を変えれば世の中が全てバラ色になるというのだろう」と疑問を抱いていたからだ。
 「今の日本人に個人主義が蔓延しているのは、憲法に愛国心の記述がないからだ」等というナンセンスな意見が未だ一部に根強いことに対して著者は、「日本人の中に“十七条の憲法観”という、憲法を道徳や倫理を唱えるものとして捉える見方が強いためである」と解説する。また、自分は日本特有の「言霊信仰」もそれに関係していると思っているので、この点についても書いてもらいたかった。
 そして、著者は現憲法を重々しい聖典としてではなく、実用的な社会のルールブックとして考え、闊達に論議しながらフレキシブルに用いろうと主張する。しかし、今まで実際の政治はこの憲法の理念を活かすどころか全くその逆を歩んできたといえる。さらに「憲法の番人」であるはずの最高裁判所も司法消極主義の立場を頑なに変えず、憲法に反するような立法の成立を許し続けてきた。したがって改憲よりもまず第一に必要なことは、現憲法の理念を実社会に徹底的に体現する努力に違いないだろう。
 また具体的に見た場合、憲法を実際に改正することがいかに困難であるかにも本書は触れる。「国会の3分の2、国民の過半数」を得られるような高いコンセンサスを集められるテーマが本当に存在するのか、と指摘をする。憲法に関して現在かろうじて多くの国民の同意を得られそうなものは「改正に賛成である」という意見だろう。しかし憲法改正の国民投票の題が「貴方は改正に賛成ですか反対ですか」なんてことは100%有り得ない。必ず「どの条項を変えるか」と問われる。けれども国民の過半数が「変えるべき」だと考えている条項が今はどこを探しても見当たらないのだ。この話題に関して、著者はオーストラリアの事例を紹介していた。それは非常に示唆に富むものであった。
 「護憲・改憲」の立場の対立が旧来は左派リベラル対保守・タカ派だったが現在ではこの二分法が成立しなくなっているとも記す。リベラル派の中にも改憲論者が増えているのは「それだけ憲法の価値観が広まり、空気のようになったため」と分析する。護憲勢力の台頭が逆にその衰退をもたらしてしまったというのは皮肉なことだ。一方、改憲派の側には「日本版ネオコン」や「靖国派」といった急進的な勢力が増長していることも自分は忘れてはならないと思う。
 そして何よりも日本国憲法といえば「第9条」がそのシンボルである。本書も最後にこの第9条への考察が展開されている。「自衛のための軍隊も否定する」という解釈に対し、66条「文民条項」追加の件から「自衛力を認めているからこそ、この条項があるのだろう」とし、この解釈を「頑な」と批判するのには強い説得力があった。そして「集団的自衛権」は軍事同盟の思想であり9条の立場からは認められないとする。また、「集団安全保障」は国連の目指す「全ての国の協力で平和の破壊を防止し、抑えるための軍事行動を行う」というもので、前者とは正反対であるとし、PKO活動への参加は合憲であるとする。そして9条の力によって国防も一般行政と同等に扱われ、軍部の暴走が防がれていると述べる。
したがって、9条の理念は「一国平和主義」ではなく、これによって「国際平和への貢献」ができるのだと自分は思う。
先日、マスコミにおける改憲の旗振り役である読売新聞が実施した憲法世論調査においても、15年ぶりに「改憲反対」が賛成を上回り、なかでも9条については改定反対の意見が圧倒的であった。[1]現憲法、とりわけ第9条に対する国民の期待と信頼は今に至って一段と高まってきたといえよう。
著者は「壊れていない車は修理するな!」と訴えるのだ。自分も「修理するのではなくどんどん世界へ向かって走らせるべきだ」と強く感じる。
なぜならば、「永遠平和は空虚な理念ではなく我々に課せられた使命である」[2]のだから。了
[1] 読売新聞2008/04/08参照
[2] カント『永遠平和のために』綜合社2007参照