2007年12月20日木曜日

幼なじみ(ロベール・ゲディギャン監督)

 童心が感じた仄かな恋の感情は今となっては淡い愛の原体験となって記憶の奥へとしまわれている。そう、多くの人の場合。けれども本作の主人公である幼なじみのカップルは、幼少期の友情が思春期に恋心へと移り、互いに成人となった今、それは愛と呼ばれる感情へと変わった。そして、やがて娘は妊娠する。だから2人は結婚を決意した。幼い恋の芽吹きは摘まれることなく育まれて、ついに花開いたのである。恋にまつわるこの稀有なエピソードは、その2人が黒人の男と白人の女だったということにより、いっそう稀有なものになる。
 彼らに対して、周囲には差別や偏見の視線を投げ掛ける者も多かった。だが当の2人の間には「肌の色」を意識させる言葉も所作もどこにもない。そこには初々しくてイノセントな「普通の愛」だけが広がる。
 マルセイユの潮風に吹かれながら寄り添い歩く彼と彼女のシルエットは、どこにでもいる仲むつまじいカップルそのものだ。ただ唯一違いがあるとすればそれは肌の色だけである。
 この物語の主題はまさにここにあるのだが、数多ある同じテーマの作品とは異なり、大きな声で人種差別を告発するという手法は採らない。とても静謐なタッチでストーリーは紡がれて、糾弾の拳を高く振り上げることをしない。一見「小さな世界を小さく描く」作風のように思われたが、しかし物語は、主人公の黒人が人種差別に凝り固まった警官によって不当逮捕されたところから急速に転調する。
 2人の両親達は彼らの愛を守るため、全力で立ち上がる。彼は彼女の両親にも家族そのものとして受け入れられていた。だから彼女の父は弁護士費用の工面に奔走し、彼女の母は無実を証明するために証人を探してサラエボへと向かう。こうした献身ぶりはしかし、彼が虐げられているマイノリティーであることへの哀れみの感情ではなく、愛娘の夫である人物に対する全幅の信頼の思いに由来している。それははっきりとスクリーンから伝わってくる。
 彼女と、彼女の両親にとって彼は「黒人」としてではなく自分達と何も変わらない1人の「人間」として存在していたということ、この作品が最も描きたかったことはそこにあるのだろう。
 したがって、この映画は間接的に私たちにこう問うているのである。
「なぜ貴方たちは彼らのように人種にとらわれない生き方ができないのですか」と。
終盤、彼らは遂に裁判の勝利を手に入れた。家族の愛と、何よりも2人の紡ぐ純な愛が苛烈な現実を打ち砕くことが出来たのだ。
彼女はもうすぐ出産のときを迎える。母体の中では、2人の白い肌も黒い肌も溶け合って、「人種」などという瑣末なものはもはやどこにも無くなっていることだろう。了

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