2007年12月16日日曜日

ノー・マンズ・ランド(ダニス・ダノヴィッチ監督)

 2003年、74年の歴史にユーゴスラビアは幕を閉じた。国名はセルビア・モンテネグロに代わり、2006年にはこの両国も分離独立した。かつて、チトー時代独自の労働者自主管理型社会主義によって非同盟諸国の雄となった栄光の記憶はもはや遥か昔だ。今では「内戦に明け暮れる国」という印象ばかりである。
 1991年に勃発した民族紛争は先日ようやく終結した。しかし、建物や道路といったインフラの復興は出来ようとも隣人同士の間に生じた根深い亀裂はいまだ修復などできていない。もう、決してセルビア人もムスリム人も昔のように同じ街で暮らせない。
 だからであろう、この作品を貫くのは、悲壮に溢れたアイロニーである。それはことの顛末の救いのなさからも伺える。主人公である捕虜と2人の敵兵の間には結局、『ビルマの竪琴』[1]や『戦場のアリア』[2]のように、戦場における敵同士の「友情」や「和解」や「信頼」といった人間的感情が芽生えることもない。最後まで互いを傷つけあい、罵り合い、そして共倒れしてしまう。地雷を踏んだ兵士は救出に来たはずの国連軍からも見放され、置き去りにされる。だが、彼ら3人もまた内戦の被害者である。決して自業自得とはいえない。しかし、戦争への憤りよりも、理不尽な運命への諦観の方を自分は感じた。以前見た『アンダーグラウンド』[3]もこのような展開だったことが思い出される。こちらもユーゴが舞台の話で、第二次大戦の戦火を逃れて地下生活をしていた人々が50年後外に出ても再び内戦が繰り広げられていたという痛切なラストだった。
 「よそ者に我々の苦しみなど分かるわけがないだろう!!!」とでも言いたげな、見る側を突き放すが如きこれら2作の結末は「絶望」の後にも新しい「絶望」しか待機していないほど、バルカン半島とは傷だらけで救いのない地域なのだと思えてくる。
 ユーゴスラビアに存在する「断裂」はノーマンズランドだけではないのだろう。繰り返される紛争で生じた深い不信と憎悪は人々の心と心の間に埋めがたい溝を作ってしまった。その溝の間に「希望」という名のアーチがかかる日はいつ訪れるのだろうか。了
[1]市川崑監督『ビルマの竪琴』1956
[2] クリスチャン・カリオン監督『戦場のアリア』2005
[3]エミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』1995

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