2009年1月25日日曜日

幸福な食卓 (小松隆志監督 2007) 85点  


  
 「父さんは今日で父さんを辞めようと思う。」
 この言葉から、とある家族の崩壊と再生の物語は始まる。
 真面目な教師だった父は退職し、再び大学で勉強がしたいと言い出して予備校に通いだした。地元の進学高校でトップの成績だった兄は大学へ行かずに農業の道を選択して自家農園で汗を流す日々だった。母は、別居してパートをしながら数年前からアパートで暮らしている。高校受験を間近に控えた中学校3年の時、主人公佐和子の家族は乾いてひび割れていくばかりであった。
これは、「幸せな家庭は一様だが不幸な家庭はそれぞれである」というトルストイの有名な一文がまざまざと浮かんでくる光景だ。いつの時代でも裕福で円満な家庭だけが「幸福な家庭」に表象されてきた。しかし、「悲惨な家庭」というのは一概ではない。離婚、不和、貧困、不倫、絶縁、非行、勘当、不妊、別居、死別・・・・・・「喜び」よりも「悲しみ」の方が幾重にも複雑で、名残雪のように容易には消えてはくれないものである。
まもなく父は自殺未遂を起こしてしまう。串の歯が欠けて行く様に今、佐和子の家庭は「幸福」が次々と砕けては落ちていった。
そうした日々の中、佐和子の前に大浦勉学という転校生が突然現れる。佐和子は天真爛漫な性格の彼に徐々に心魅かれていく。また、同じ頃、兄は洋子という年上の女性と出会い、佐和子は彼女とも交流するようになる。
以前、別居中の母は佐和子に向かって「近くにいすぎると気づかないことがある」と言った。その言葉通り、「家族」ではない大浦や洋子の登場は佐和子に「家族」という存在を再発見させる重要な役割を果たす。
佐和子は「他人にしかできないことがある」と、漠然と農園で働く兄を洋子だけが良い方向へ変えてくれるはずだと感じ始める。そして自身も大浦に触発させて、兄と同じ進学高を受験することを本気で決意するようになったのだ。
しばしば「過去と他人は変えられない」という人がいる。けれども、過去はともかく「他人」はそうではないだろう。人間は社会的存在であり、常に他者との関係性の中で生きているからである。他者との触れ合いによって、自分も他人も影響されて刺激しあって変容する。その繰り返しが「人生」に他ならないと思う。
「出会いによって人は変われる」
自明かもしれないが忘れられがちな真実を、この作品は観る者へ優しく思い出させてくれる。それは、「生きること」と「人」に対する力強い肯定のメッセージである。
なかでも、大浦が主人公に話した「気づかないところでキミは守られているんだ」という言葉は自分の心に最も強く響いた。「私」は「私」一人の力だけで生きているわけではないのだ。そして、何より「家族」という存在こそ、いつも苛烈な周囲の世界から、か弱い「私」という存在をしっかりと温かく包み込んでくれる。
「家族は作ることも壊すことも難しいんだよ」
こんなセリフもあった。だからこそ、「家族」は「家族でない人々」の力も必要としている。支え合って助け合う関係、それは決して「家族」の中だけで閉じてはいないのだ。
それで、物語の最後に一家4人がそろった食卓には大浦と洋子の席もきちんと用意されていたように自分には見えた気がした。
「希望の数だけ失望は増える それでも明日に胸は震える どんなことが起こるんだろう 想像してみるんだよ♪」
エンディングをMr.Childrenの『くるみ』が縁取る。
美しいメロディに乗せて歌われたこの言葉は、柔らかな日差しの中で甲府の街を力強く歩いていく今の佐和子そのものに他ならなかった。了

2008年10月3日金曜日

大竹駿 さまぁ~ず


ttp://jp.youtube.com/watch?v=JRcz0oh4uLg
やはり、さまぁ~ず大竹はスゴイ 先日のフジ最強コントの中で一番笑えた
演技力、魔の取り方、セリフのどれもが非常に良く出来ていたと感じた。

2008年10月2日木曜日

ザ・コーポレーション(マーク・アクバー, ジェニファー・アボット監督2006)90点


 「法律が悪いせいだ」

 これは、度重なる悪質な偽装請負行為が発覚した際のキャノン会長兼経団連会長である御手洗富士夫の言葉だ。居直り強盗のようなこの言葉からは、反省や謝罪の意志は全く感じられない。しかも派遣労働者が過酷なピンハネによって手取り5,6万しか得られないにもかかわらず彼は自分たち役員の報酬を1億から2億へと引き上げたのだ。[1]

 このような強欲な経営者が財界のトップに上り詰めるまでに至った背景には’80年代以降資本主義諸国に吹き荒れた「新自由主義」がある。

 政府機能を縮小し、民間部門の自由競争を促進すれば高い経済成長が約束されるとする、「市場原理主義」とも形容されるこのイデオロギーによって日米英では次々と規制緩和が進められた。そして、アメリカは自国だけでは飽き足らず、この思想を南米やアジアの途上国にまで強引に「輸出」していったのである。

 例えば、本作で描かれるボリビアのエピソードは作品中で最もセンセーショナルなものだった。アメリカの圧力によって公共部門の民営化が急激に進められた同国では水道局もアメリカ資本のベクテル社に買収された。そして同社は水道料金を以前の2倍以上に引き上げ、それどころか雨水を個人が溜めることさえ禁止する法案を作らせた。これによって多くの住民が生活の危機に瀕し、大規模な抗議活動が勃発する事態に至った。それに対して政府は容赦ない武力弾圧を行い多数の死者と負傷者が出てしまう。しかし、勇気ある住民たちは戦いを止めず、遂にベクテル社を同国から撤退させることに成功したのである。

 「水を飲みたい」という人間として当然の欲求を満たすことがなぜこうまで命がけの行為にされてしまったのだろうか。作中、ある大学教授はこのように暗い展望を語った。

「このままでは、将来的には生きるためのあらゆる権利が無条件で国家に保障されなくなり、企業を通じて買わなければならないものになるだろう」

既にその事態は新自由主義の震源地アメリカで遥か以前から発生している。マイケル・ムーアが『SICKO』で追及したように、この国には公的医療保険が無く国民は自分で民間の保険会社に入らなければならない。だが、貧困ゆえになんらの保険にも入れない人や高額な掛け金を払い続けているにもかかわらず保険請求が受理されず医療費の支払いのために自己破産に追い込まれる人が後を絶たない。あるいは政府が教育予算を渋っているために極めて高額になっている教育費の支払いのため、奨学金貸与を求めて軍隊に志願する若者が多数存在する。経済的弱者は、良質安価な公営住宅が存在しないためにサブプライムのような詐欺的な高利の住宅ローン契約を結ばざるを得ないのである。[2]

同国では「医療・教育・住宅」といった生きるための基本的な権利を何ら国家が保障していないため、国民は自己責任と自助努力でそれらを手に入れることを強いられているのだ。だが他方で、それらを専売する大企業にとってはまさにこの国はパラダイスに他ならない。

しかし、無論企業は収益を上げるために存在し、国民の人生の幸福を目的とはしない。よって、「国民の幸福を目的とする」公営事業を「利益を目的とする」民間企業に譲り渡す新自由主義の手法は根本的に誤っているといえるはずだ。

けれども私たちは今や、「民営化」という言葉に対してさほどの抵抗も感じなくなっている。それどころか「能率がいい」などと肯定的な印象すら抱いている人も多い。それは「企業(Corporation)」という存在の本質が、分厚いベールに包まれて私たちの目から巧みに隠匿されているためである。

本作では「企業」を「法人」という一人の人間と見なしてそのパーソナリティーの分析を精神科医を使って試みる。「株式会社」という制度が近代に誕生して以来、大企業が引き起こした出来事を振り返っていく。すると公害、自然破壊、奴隷労働、軍事利権、不正会計、法令違反、労組潰し等など数多の問題行為が浮き彫りになる。

それゆえ人として見た場合、企業は「他者への想像力が著しく乏しく、道徳観念が無く、平気で嘘をつく」完全な「サイコパス(精神異常者)」である、という結論が下される。とりわけ、IBMがナチスのユダヤ人虐殺に協力する管理用パンチカードを製作して莫大な利益を得ていたこと、NIKEが南米で劣悪な待遇の工場を運営して儲けていることなどは極めて興味深いエピソードであった。ちなみに「民営」とは英語では「私有」と同じ「private」と表記する。したがって「民営化」とはこうした反社会的人格者に公共財が「私有」されることを意味するのだ。こう考えればボリビアの水戦争は起こるべくして起きたと言えよう。

このように、本作の基本的なスタンスは忌憚なき大企業批判である。ただし、旧来の左派が陥りがちな、トヨタの奥田やオリックスの宮内といった経営者個人を「悪徳、非情」として攻撃する手法とは一線を画している点が斬新だ。本作ではCEOもまた、労働者と同じ「人間」であり、一個人としては環境や人権について高い関心を払っている者も少なくない事実を指摘する。ようするに問題の核心は「企業」というシステムそのものにあるとする。例えばどんなに温厚な人間でも刑務所の看守になれば冷酷で高圧的にならざるを得ないように所属する組織と地位が、個人の人格を強制的に変形させてしまう。この意味では、マルクスの言う「自己疎外」は、実は現代の経営者にも生じていると言えるのだ。

また、相も変わらないウォール街とホワイトハウスの癒着ぶりも鋭く告発される。法的には企業は市場経済のプレイヤーであり、行政と議会は審判であるはずだが実際は膨大な献金や天下りによって、公平なジャッジは永遠に葬り去られている。

「中流階級は没落し、国民の大多数に健康保険は適用されない一方、超大金持ちの収入は増え続け、軍需産業は大儲けだ。有権者はもはや、国民のための国民による政府を持ちえていない。存在するのは、特権階級とネオコンのための彼らによる政府なのだ。」

この言葉は意外にも、新自由主義の旗手レーガンの元側近ロバーツ氏のものである。[3]かの国では今や、政治が企業を管理するのでなく企業が政治を管轄する状況に陥っている。だが、国家の主人となった大企業はエンロン事件以降もまた、格付け機関を取り込んで危険なサブプライムにA評価を付けて証券化し世界中にばら撒いて暴利を貪り、そして途方もない負債と失業者を残して破綻した。結局、数十年にわたって地球を席巻した新自由主義とは一体何だったのだろう。

「市場原理主義とは理論の裏付けなき政治的主張である」

経済学者スティグリッツはこのように喝破した。[4]企業はとっくの昔に経済学まで買収していたのだ。富裕層と大企業を優遇しさらに豊かにすれば経済が成長し、中流層と貧困層にまで恩恵が及ぶとする「トリクルダウン」のような彼らにのみ都合の良い、根拠なき数々の「意見」は御用学者の力によって難解な数式にまぶされて崇高な「理論」にまで昇格させられた。逆の立場から見たなら、彼らの本音はいつもこうだろう。

「どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということは誰でも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“大洪水よ、わがなきあとに来たれ!”これがすべての資本のスローガンである。それゆえ資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」[5]

だが、この後には「しかし、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである」という一文が続く。

実はマルクスも本作同様、「経営者もまた資本の犠牲者である」と考えていたことは極めて重要な事実であるといえる。

ちょうどこの文章を書いている今、アメリカではサブプライムの焦げ付きで経営危機に瀕した大企業を救済する金融安定化法案が下院で否決され、NY株価は史上最大の値下げをし、世界恐慌の恐れを真剣に危惧する声が上がり始めた。皮肉にも、貧者を食い物にしたサブプライムローンがきっかけとなって、全世界の富裕層と大企業に未曾有の激震が走ったのだ。彼らが持つ巨大な資本が「わがなき後に来たれ」と望む大洪水は、先に去ったものも後から来たものも今いるものも、金に関わるありとあらゆる全てのものを容赦なく巻き込んで飲み込んで洗い流そうとする。私たちの眼前ではまさに今、黙示録的光景が広がっているのだ。

そしてこの洪水から抜け出す「ノアの箱舟」だけはどんな大企業にも作れないのである。なぜなら、この洪水の源は飽くなきまでに利益を求める「人間の欲望」であり、企業とは「儲かるのなら自分の首を絞める縄でも売る」[6]欲望に特化したシステムに他ならないのだから。了


[1] Wikipedia参照

[2] 堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書2008参照

[3] 「レーガン政権の元高官が危機的状況に警告を発する」週刊金曜日2008/09/05号 8頁

[4] 週刊ダイヤモンド2008/08/30号参照

[5] マルクス『資本論』新日本新書 第2分冊、464

[6] マイケル・ムーア 本編最後でのコメント

宇多田ヒカル 歌姫の変貌 



 一体なぜこんなに変わってしまったのだろうか・・・・芸能界は謎ばかりだ・・・・・・

2008年9月8日月曜日

近頃巷に流行るもの・妖怪「ダダ女」


                       序文に代えて
止むことのない物価高、昨年に引き続いての突然の首相辞任で混迷の度を一層深める政界、私たちの生活を脅かす医療崩壊、雇用不安、年金不信・・・夜明けの見えない我が国で今、はびこり始めた新種の「魔物」がいるという。
それが「妖怪・ダダ女」である。奴らは事あるごとにデートで男に理不尽かつ不可能な要求をし、僕らの身も心も財布もボロボロにする。奴らは純情な男心を弄ぶのを何よりの生き甲斐とし、振り回された男の涙を生きる糧とする獰猛な闇の種族に他ならない。
「ダダ女」、それは男女平等が説かれて久しい現代日本が作り出した鬼子なのか、はたまた世知辛い平成の世に咲いた 時代のあだ花なのか・・・
僕は、哀れにも犠牲となった幾人もの仲間たちの弔いのため、そして個人的な恨みもあり、ついに奴らの実態を告発する決意をした。

「すいませんコーヒーお代わりもらえますか」2008・8・25東千葉駅前バーガーキングにて 

ケイタイがバリ2じゃないとブチキレ、バリ3だと通話良すぎて駄目という
「電波塔女」・・・・いると思います(天津・木村風)
以下、最後に「いると思います」を付けて読んで欲しい。

植物園に行ったのに「パンダが見たい」と騒ぐ、「魚を買いに八百屋へ行く女」

公用車しか乗れないという「公金横領背任汚職女」
 
映画館では必ずM‐13席じゃないとダメという「ジンクス女」

寿限無と歴代徳川将軍全部暗記してないと帰る「記憶フェチ女」

ベイFM入らないとこには行きたがらない「周波数女」

デートの一部始終をオレだけ実名で全部ネットに書き込む「個人情報漏洩女」

「ホリデーパスって何ドル?」なんでもドル換算させる「アメリカン女」

両国で下車するのに総武線は三鷹行きじゃないと揺れが大きいから乗りたくないとダダこねて中野行きを見殺しにする「月刊鉄道ファン愛読女」
新宿駅南口で待ち合わせだとヒトが多すぎてヤだと言いアルタ前で待ち合わせにしてやっぱりヒト多すぎて見つからない、「ウォリーを探せ女」

左ハンドルにしか乗りたくないと言い左ハンドルだと右側の席はいつもは運転席だから落ち着かないとブツブツうるさい、「こだわりの車内アメニティ女」 
デパートのレストランなんか子供が行くところだと怒りスタバもサイゼもダメで「おいしいチャーハンが出る隠れた名店がイイ」と言い張る「食い道楽女」
土曜日はメレンゲの気持ち見て日曜日はサンデージャポン見るから会えないと譲らない「夏休みは毎日タッチの再放送見てました女」
千葉銀のATMが徒歩五分以内に四台あるとこしか行きたくないと騒ぐ「反みずほ銀行女」
渋谷の東急ハンズ行くときは絶対車じゃないとイヤだと言う「都内の駐車料金の高さが分からない茨城女」
円よりユーロしか信用しないと言い張る「変動為替相場女」 低気圧の日は気圧低すぎるから逢えないけど高気圧の日も気圧高すぎて逢えない「森田さんお天気コーナー」女
遊園地は貸し切りじゃないと行きたくない「マイケルジャクソン・ネバーランド」女
先祖が武士か商人以外の男とは付き合いたくない「家計図女」
中華は何でも大好きというのにチンジャオだけは大嫌いな「逆・こだわりの一品女」

週末一緒にビデオ見ようと言うのに絶対一泊でしかレンタルしようとしない「ツタヤ延滞上等女」

東京京行くときは何が何でもアクアライン使いたがる「ゼネコン女」

居酒屋で黒ウーロンないとマジ切れする「福建省女」

ちび丸子ちゃんに間に合わないからと四時に帰宅する「長沢君ち全焼の巻で号泣女」
アップルとトマト をネイティブ風に発音できないと罵倒してくる「NOVA女」
こち亀全巻おねだりする「ブックオフポイントカード3万点女」
デートのプランは雨天用・晴天用・曇り用・曇りのち晴れ用・晴れのち曇り用の五つを必ず用意させる「全てが想定の範囲内女」

レストランや居酒屋で隣の客がキモいと即帰る「客層にうるさい客女」
ナスかナスビかでどこまでももめる「日本語練習帳女」

店員の方が綺麗だと即店チェンジの「嫉妬暴走女」

ドタキャンでなく急用、キャンセルでなく延期と言い張り、敗退を転進と言い換え全滅を玉砕と言い換える「大本営女」

次のデートは8ヶ月後まで無理というビルゲイツ会長ばりの「分刻みスケジュール女」
和牛以外は肉じゃないとうるさくて仕方ない「アンチオージービーフ女」

原宿のクレープを市川で食べたいとねだる「テレポーテーション女」
オレにはオマエっていうのにオマエにはオマエと言うと泣く「アネゴ女」

2月29日しか逢えない「うるう年女」

カラオケではわざと声を潰して歌ってオレに褒めさせる「長淵女」

自分のSuicaを男にチャージさせる「間接貢がせ女」
本なんか読まないのに初版の「羅生門」をねだる「プレミア女」
ネットでオレを農奴としてオークションにかける「奴隷商人女」
カレーライスとライスカレーの違いに納得のいく説明を執拗に求める「似て非なるもの女」

オレとの会話よりヤツとのメール時間の方が長い「心ここにあらず女」

「マジ自動改札とか超ウケるんですけど!」「ファミマ!!笑!!!!」「ミニバン!!!」明らかに笑いのツボが常人とおかしい「天然系不思議女」
「ラルクと私のどっちが大事なのよ!」「ふざけるなメス豚!hydeに決まってんだろ!」
「フラワー熱唱男」
いないと思います

サブプライムローンについて十文字以内で説明を求める「NHK週間子どもニュース女」
普通の会話でオレにファルセット(裏声)を多用させる「ボイトレ女」

「リンゴ、台湾、炊飯器、共通するものは?」難解なクイズばかり出す「ヘキサゴン女」

「寄せ書きしながら生ガキ食べる稲垣食後に歯磨き。首都高尾行、母校は廃校」何でも韻を踏ませて話させる「UKラップ女」

河原でデート中、カメラ映りが悪いから川の流れを逆にしろとせびる「黒澤明女」

「ペットボトルは燃えるゴミ!」と主張して譲らない「名古屋式分別回収女」

「私がオバサンになっても~してくれる?」とイチイチ聞いてくる「森高千里女」

「サンシャインビル消してよ!!!」とねだる「マスクマジシャン女」
                         みんなみんないると思います 続

2008年9月2日火曜日

ダークナイト(クリストファー・ノーラン監督2008)95点


 ハリウッドエンターテイメント大作において、本作は間違いなく近年の最高傑作である。映像技術、脚本、編集、演出、演技どれもが比類なき完成度を誇る。最大の見せ場のアクションシーンは、もはや『マトリックス』を凌ぐクオリティは有り得ないと考えられている現在でも同作に並ぶとも劣らないスタイリッシュでエキサイティングなものに仕上がっている。
 本作を、娯楽作品に否定的な批評家の面々までも称賛せざるを得ない稀代の傑作足らしめたものは、『スパイダーマン』、『マトリックス』、『ハリーポッター』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』等の他のメガヒット作品とは明白に異なるスタンスのためであろう。
 それは、この物語を貫く「リアリズム」と「ペシミズム」だ。他のアメコミヒーローと違い、正体は生身の人間にすぎないバットマンは街を脅かす悪と戦う中で日々、人並みに体は傷つき、心も苦悶する。血を流す二の腕を見ながら「バットマンを続けることで本当にゴッサムシティからいつか悪を根絶できるのだろうか」と。その一方では叶わぬ恋にも苦闘している。
 そんな思い通りにいかないばかりの日常の中、最大最強の敵が彼の前に出現する。それが「ジョーカー」だ。
「世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・名誉をえようと思って悪をなす。」[1]ある名高い思想家はこのように「悪」を分析した。しかし、ジョーカーにはそんな目的はどこにもない。仲間や手下でさえ平気で殺害し、病院を爆破し、街中の銀行から強奪して積み上げた巨大な札束の山にはガソリンをまいて躊躇無く火をつける。彼はまさに「悪のためにのみ悪をなす」常軌を逸した存在に他ならない。
 ジョーカーが持つ猟奇と狂気は実在した殺人鬼の姿を強く連想させる。ゾディアック、都井睦雄、宮崎勤、ウ・ポムゴンetc。彼らは突然、幾人もの人々を次々に殺し始めた。その動機はいまだにはっきりと分からない。
かつてキリストは「心の貧しきものは幸いである」と語り、親鸞は「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と述べて、自ら犯した罪を悔い改める人間こそが天国に行けるのであると説いた。だが、21世紀の現在、こうした悪人像はもはやあまりに牧歌的なのかもしれない。『羅生門』[2]の主人公の下人は平安時代、貧困ゆえ、生きるために盗賊になる決意をした。しかし、現在の凶悪犯にはそういった合理的な理由は見当たらないのだ。ジョーカーはしたがって、間違いなく現代を象徴する「悪」の姿だと言えよう。
ジョーカーは「正義」のシンボルであるバットマンを心底憎悪している。彼に対する恨みだけが、ジョーカーの生きる糧となり、彼に次々と悪事を働かせるのだ。
「バットマンがいるから私がいる」
この言葉が、2人の関係を端的に示す。古代中国の「陰陽思想」によれば、世界は陰と陽の2つの要素から構成されているという。その中には、陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つとする「陰陽互根」という考えがある。この世における「正義」と「悪」の関係はまさに大極図のように深く絡み合ったものであり、相互依存的であり共依存的であるのだ。
だからこそ、例えばアンパンマンもウルトラマンも決して「悪」に対して止めを差すことはいつであれ出来ないし、「世界の警察」を標榜するかの国アメリカも常に新しい「脅威」を探し続けているのだろう。「敵こそ、わが友」という皮肉でやり切れない真実がここにはある。余談だが現在上映中の同名ドキュメンタリー映画では、ナチスの超大物高官であったクラウス・バルビーを戦後、アメリカがファシストの戦犯として裁く代わりに新たな敵である共産主義勢力との戦いに利用した事実が丹念に暴かれている。
バットマンの「落とし子」であるジョーカーは、「正義」ゆえに決して法を犯すことができないというバットマンの弱点を容赦なく突いてくるのであった。ジョーカーはバットマンが正体を明かさない限り毎日1人ずつ罪の無い一般市民を殺害すると宣言し、街を恐怖に陥れた。そして実際に犠牲者が出てしまう。もはやジョーカーの蛮行を止めるにはジョーカーを殺してしまう以外に方法はなかった。ジョーカーは狂人のため、逮捕したところで精神病院送致にされるだけですぐに釈放されてしまうからだ。「法で裁けぬ悪」に対して「法に基づいて」立ち向かうことは勝ち目のない戦いでしかないことはバットマン自身も無論十分に承知していた。バットマンはジョーカーの前に完全な敗北を喫したかに見えた。
「フェアプレーを守るつもりのない者に臨む時はこちらもまた、フェアプレーを守る必要はないのである。さもなければ道理と正義のある側が常に負けることになる。」という文章を文豪・魯迅が生前残していたことを自分は思い出した。[3]無法を当然とするナチスの台頭に対して自由と民主主義を旨とする憲法と法律の範囲内であくまで対処しようとしたワイマール共和国が無残に粉砕され、ヒトラーやバルビーたちに乗っ取られてしまったという歴史上の逸話は彼の警句が極めて現実的であることを表していたといえる。
だが、バットマンは「正義のバットマン」であるがゆえ「フェアプレー」を投げ捨てることが決してできないのだ。彼は、自分もまた法を犯してしまうようになればそれは「悪」と同義であり、ジョーカーの前に屈することになると考えていた。だが一方、バットマンと共にジョーカーと果敢に戦ってきた熱血漢の検事は彼の挑発に乗ってしまう。
最凶の悪の前に激しく葛藤し、それぞれの異なる「決断」を行う主人公2人の姿が描かれることで、本作は単純な娯楽作とは一線を隔てた奥行きある作品に成立している。
最後にもう一度述べよう。バットマンは二重の意味でジョーカーを倒せない。
1つは「正義と悪はコインの裏表である」がゆえに。もう1つは「正義はアンフェアに対してもフェアプレーでしか臨むことができない」ゆえに。
本作のタイトルである「ダークナイト」という言葉はこのジレンマを解くヒントだったことに観る者は最後に気づく。それは、光り輝くヒーローから「暗黒の騎士」(dark knight)へと変わることであり、闇夜を照らす光から己自身が闇夜(dark night)へ成ることである。
ゴッサムシティの唯一の希望は、これからどこへ向かうのだろうか。それは誰にも分からない。物語は明けない夜のまま幕を閉じる。けれども私たちはまた、誰もがある1つの疑いなき真実を知っている。
「夜明け前が一番暗い」ということを。了
[1] フランシス・ベーコン『ベーコン随筆集』一穂社2005参照
[2] 芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫2000
[3] 佐高信『魯迅烈読』2007岩波書店「フェアプレーはまだ時期尚早である」参照

2008年7月3日木曜日

パフューム(トム・ティクヴァ監督2006)80点 


 僕は余りに「匂い」を侮っていた。鑑賞後つくづくそう思ったのだった。
 ジェンダー医学論などでしばしば指摘されることだが、女性は男性よりも嗅覚が発達していて、俗に言う「ビビッときた」や「一目惚れ」も、匂いの一種であるフェロモンの要素によるところが大きいと聞く。[1]先日公表された世論調査でも「異性の身だしなみ」で気になる部分について男性は「メイクの濃さ」をトップに挙げたのに対し女性は「口臭や体臭」を選んでいた。[2] また、クレオパトラもナポレオンも匂いの持つ魔性を十二分に知っていたという。[3]色恋沙汰から世界史に至るまで「匂い」は影の主役といえるほど実は重要な存在なのかもしれないのだ。にもかかわらず、本作冒頭でも語られるように「匂い」は人々の関心の薄い分野であり、歴史書にも残らない地味なものであり、軽視され続けたものである。
 このテーマに関して、マレービアンの法則と呼ばれるコミュニケーションにまつわる有名な話を僕はぜひ紹介したい。
 アメリカのマレービアン博士の実験によると、人がある言葉を話す際に相手に与える印象、「好感の総計」の内訳は「言語7%+声などの周辺言語38%+顔の表情55%」なのだという。[4]意思疎通における非言語情報の大切さ、とりわけ顔の表情の重みを知らしめた名高い研究だが、ここからもやはり、体や衣服から発する「匂い」が他人に対して大きな影響力を本当は持っているのではないかと類推できよう。
 物語の舞台は18世紀、フランスはパリ。しばしば江戸は世界一清潔でエコロジーの進んだ社会だったと評価されるが、当時のかの国はその対極に位置していた。街は糞尿や生ゴミに溢れ、耐え難い悪臭に満ちていた。主人公グルヌイユは、その中でも最もひどい臭いが漂う生魚市場の一角で産み落とされた。彼は生まれつき体臭を全く持たなかったのだが、同時に人智を超えた嗅覚を天から与えられていた。彼の鼻は万物の香りを嗅ぎ分け、体臭を追うことで遥か遠くにいる女性の居場所まで突き止めることが出来た。
 彼は皮なめし職人としてこき使われる日々の中、訪れた街で偶然、絶世の「香り」を持つ若い娘を見つける。そして彼女を殺めてその体臭を嗅ぐという行為に及んでしまう。その後、天賦の嗅覚を買われて彼は街で著名な調香師の下で働くこととなった。だが、ありとあらゆる高貴で優雅な香りに包まれても、あの娘の香りがどうしても彼は忘れられなかった。そして「幻の匂い」を再現し保存しようと遂に禁断の凶行に走ってしまうのである。
それはまさに「何も香水をつけていない女性が一番いい匂いがする。」(プラウトウス)という格言を地で行くものであった。
こうして、悪魔に魂を売った代わりに絶世の香りを手にした主人公は最後にはその匂いの力によってナポレオンのような偉大で神聖な存在へと化けてしまうのである。
もちろんこの物語は虚構であるので誇張や脚色が大いに施されていて一見、荒唐無稽だ。けれども「香り」が持つ神秘性はこの作品を寓話のようにも感じさせる。
この作品を見た翌日、僕は生まれて初めて爽やかな香水の匂いをまとって外に出た。そして、道に迷った時、近くを通りかかった若い女性に場所を尋ねてみた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべながら僕と一緒に目的地まで歩いてくれた。帰りの電車の中でも隣のOLが僕の方に何度もチラチラ目配せしてきた。こんな経験は今までになかったことだ。
この日、僕は間違いなく「王」になったのである。涼しいシトラスの香りによって。了
[1]レイチェル・ハーツ『あなたはなぜあの人の「におい」に魅かれるのか』原書房2008
[2] しんぶん赤旗2008/6/30付参照
[3] 高田明和『人もフェロモンで恋をする―匂いは性のシグナル』講談社1993参照
[4] 佐藤綾子『自分をどう表現するか』講談社現代新書1995 37頁参照