2007年12月26日水曜日

セキュリティと寛容を巡って

 先日夜7時過ぎのことだ。自分が乗り換えのために千葉駅構内を歩いていたら、混雑する改札付近で警官が集まっているのを目撃した。気になって近づいてみると彼らに囲まれて中東系の外国人が職務質問を受けていた。彼は持っていた大きなバッグを開いて中身を一つずつ取り出し、必死で自分は不審者ではないと訴えているようだった。自分はこの光景に衝撃を受けた。これはまるでアメリカやイスラエルと全く同じだと感じた。そして不快感も覚えた。人通りの多い改札のそばで大勢の警官が1人の外国人を高圧的に取り調べるやり方は明らかに人権意識に欠け、本人に多大な苦痛を与えているはずだからだ。
 最近駅では「只今テロに備えて警察と協力し特別警戒態勢をとっております」というアナウンスを頻繁に聞くが、それは外国人をテロリスト扱いする態勢のようである。しかし、警察庁の統計によれば重要犯罪検挙人数のうち来日外国人の占める割合は全体の2.9%に過ぎないし検挙人数の4割は入管法関連の違反者である。外国人イコール潜在的犯罪者だとする石原慎太郎ら右派の政治家・メディアの表象は余りに一方的なものだろう。しかし、残念ながら彼らに賛同する国民は増えている。
 東浩紀は「セキュリティの強化を望むとき私たちが念頭に置くのは社会全体の利益や福祉ではなく自分あるいは家族、友人何人かの安楽な生活だ。それには異物は排除したほうがいい。」と言う。[1]「安全」を渇望する人々にとって外国人は危険な他者に過ぎないのだろう。これはイラク戦争を支持したアメリカ人を見ても理解できる。テロを恐れる彼らにとってイラク人は、空爆によって排除すべき異物に過ぎなかった。
 また、最近我が国の法務省はウェブサイトで不法滞在の外国人についての情報を一般市民から募り始めた。これに対してアムネスティが「人種差別撤廃条約に抵触する差別行為だ」と批判する声明を発表し、問題となっている。
 自分もこのサイトを見たのだが、誹謗中傷や偏見に満ちたネット上の掲示板と何ら変わらない印象を受けた。そして、社会全体が非寛容になってきている、排除の論理に支配されつつあるという強い危惧を抱いた。
 しかしそもそも、自由と民主主義を原理とする社会は「非寛容」(原理主義や民族主義)に対してさえ「寛容」で望まなくてはならないはずだ。「寛容」こそ、この社会を維持する根源的理念であろう。
 それに関してオウム真理教を扱ったドキュメント映画『A』では信者に対する警察と地域住民の圧倒的非寛容が克明に映されていて非常に興味深い。本作を見ると、オウム信者より、排除の論理にとり付かれた我々の社会の方が恐ろしく思えてくるのである。
今や排除の論理は膨張の一途を辿る。多少なりとも我々の安全を脅かす存在へそれは仮借なく速やかに行使される。たとえばビルの回転ドア、公園の回転遊具は子どもの事故を受けて、全国で使用が禁止され、点検作業が行われたことは記憶に新しい。
 しかし、重要なことは「事故は以前から起きていた」ということだ。それが今になってセンセーショナルなトピックに浮上してきたのである。「事故の事件化」といえる。このまま、子どもの危険をどこまでも回避したいという要求がエスカレートすれば、学校からは柔道やマラソン、水泳などわずかでも事故の恐れのあるものは全て消滅するように思える。
 ここからうかがえるのは「生のリスクはゼロにできる」という強い思い込みである。『ボーリングフォーコロンバイン』の中でも、英国では殺人事件は減少しているにもかかわらず、殺人ニュースの時間が増え続け、人々は不安を高めているとリポートしていた。
 したがって「止まない不安」と「安全への固執」は先進国共通の病理であろう。これが社会を「非寛容」なものにしている。だが、多元性を一元性に、多様性を画一性へ強引に収斂させ、リスクファクターを排除しようとする戦略はさしたる効果がないといえる。
 歴史を振り返れば分かるように、戦後ドイツがナチスを非合法化してもナチズムは無くなっておらず、江戸幕府がキリシタンを弾圧しても、信仰は抑えられなかった。
 また、ブッシュが「テロとの戦い」を開始して以来、スペインやイギリスで爆弾テロが起きたように世界は現在、逆にますます危険になった。
 したがって、「非寛容は必ずしも我々の安全を保障し得ない」と、はっきりと断言できるのである。了
[1] 東浩紀「情報自由論」第4回 『中央公論』2002年10月号 中央公論新社参照

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