2007年12月23日日曜日

21グラム(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

 「子どもは私の魂、体そのものだった。神はもう信じない。祈るものは何も残っていない。」
2003年末に起きた震災で子ども2人を亡くしたイラン・バムの女性の言葉である。彼女は敬虔なイスラム教徒であった。[1]
本作の主人公の一人・ジョーダンもまた、熱心なクリスチャンだった。だが、宝くじが当選したことで購入したトラックによって父子三人をひき殺してしまう。そして、この女性と同じように「もう神など信じない」と叫ぶ。
なぜ、熱心に祈りを捧げる者がかくも無情に神に裏切られてしまうのか―本作が投げ掛けるのはこの問いだ。
この難題への答えの1つに、旧約聖書の『ヨブ記』がある。信仰心の厚い義人のヨブが神によって次々と理不尽な不幸に遭わされる物語だ。この話が伝えようとするのは「善行には善果が、悪行には悪行がもたらされる」とする「応報主義」の限界と、人間を苦難に陥れて試す神の存在である。家畜も、家族も、家屋もありとあらゆる財産を全て奪われた果て、それでも信仰を捨てなかったヨブは善悪の彼岸に「神の現われ」を見る。
だが、ヨブと違って死亡事故を起こしたジョーダンは神を呪ってすぐに信心を放棄した。
しかし、皮肉にも神に「救われなかった」者が起こした事故で亡くなった者は、その後ドナーとなって臓器を提供して、心臓病で死の間際にいた「救われない」患者を「救った」のである。
けれどもそれと同時に、夫も子どもも失った犠牲者の妻は新たな「救われない」者となってしまう。
その後、彼女は夫の心臓を移植されたレシピエントを探し出す。二人はやがて愛し合うようになるが、いまだ彼女の心の傷は癒えず、「救われない」ままである。どんなに時が経とうとも彼女は決して家族を奪った犯人を赦すことが出来ず、遂に犯人の殺害を彼に依頼するのだった。しかし、その願いは叶わなかった。
だが、犯人であるジョーダン自身も後悔の念に耐え切れず、殺されることを望んでいた。
また、彼も移植された心臓が不適合だと判明して、再移植を迫られる。
そして彼のそばには、永遠に帰らない夫と子どもを待ち続ける哀れな女が立ちつくしている。
「赦し」もなく、「救い」もない光景がここにはある。ただ唯一あるのは、信じた神に裏切られた後にも、愛する家族を喪った後にも、新しい心臓に自分を拒まれた後にも淡々と流れていく時間だけだ。
「それでも人生は続く」
 物語の随所で、彼らの口から語られるこの言葉が、したがって本作の主題に違いないと自分は感じる。
無常に過ぎていく時の中を、たとえ希望を奪われようとも、歩みを止めずに進んでいくこと。その道のりの彼方に、彼らはきっとヨブのように「神の現われ」を見るのかもしれない。了
[1] 朝日新聞朝刊2004/12/26付

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