2007年12月25日火曜日

グッバイ、レーニン!(ヴォルフガング・ベッカー監督)

 「信じること」は勇気が要る。かつてパスカルは「信仰に賭けてみても、何も失うものはない。だから信じてみればよい」と語った。[1]しかし、その対象が「神」ではなく「思想」だとしたなら、どうだろう。未来永劫不変の真理だと思っていても歴史はいつか必ずそれを覆してしまう。けれども信じたイデオロギーの死の後にも人は人生を歩み続けていかねばならない。本作の主人公の母は、そうした苦悩を背負った者の1人であった。
 東西冷戦の時代、西独へ夫に亡命されてしまった彼女は母国・東独と「再婚」した。もてる全ての情熱を理想の社会主義を実現する活動に注いでいった。そして、何度も党から表彰されて、その献身ぶりは日に日に加速した。
 けれども物語の主人公である息子は反政府デモに参加して、警察に捕らえられる。その場面を偶然目撃したショックによって彼女は意識不明に陥ってしまう。しかも、担ぎ込まれた病院のベッドで寝込んでいる間に愛し続けた祖国は崩壊してドイツは一つに統一された。したがって、彼女にとってこれらの出来事はフロイトの言葉を借りれば「世界没落体験」に他ならなかった。
 本作の見せ場は主人公が母のために、無くなった東独を「再建」しようと奮闘するプロットである。病院で眠る母のベッドの半径2メートルだけは時間が止まったまま、「祖国」が生き残っている。信じたイデオロギーも消えてはいない。彼女の知らぬところで息子が、旧東独のモノ・ヒト・情報を必死でかき集めていたからだ。けれども、いつまでも母を騙し続けることに周囲の人々は反対する。しかし彼は、「真実などない、解釈しかない」(ニーチェ)と考えていたのだろう、決してそれを止めることはなかった。
 やがて自分自身も「世界で一番小さな国」を作る作業に夢中になっていった。デモに参加するほど反発していた祖国であったが、東西統一後の混沌と新たな暮らしの中で、次第にかつての祖国を思う気持ちは変わっていた。
 芽生え始めたノスタルジアが原動力となって、「理想の東独」を彼は心に懸命に描き出した。しかし、それでもどうあがいても、大きな穴の空いたボートみたいに汲めども汲めども「現実」という冷たい水が次から次へと、母の病室と自身の胸に流れ込んでくる。だから遂に彼は、外に広がる統一されたドイツを母に受け入れさせる決断をする。
 この時、「統一」という言葉は重層的な意味を帯びる。一つは字義通りの東西ドイツの統一を指し、一つは引き裂かれた母の内面の「統一」を示す。
 母の精神に起きたことを喩えるならば、それは体内における物質の破壊と吸収の過程である「異化」と「同化」である。
 信じたものの瓦解による、一時の自我の「断裂」は、やがて「現実」の受容から「統合」へ、そして「恢復」へと向かっていく。信じたものとの共に自身もなくなることはできないのが人生なのである。
 だが、東独を愛した人間にとっては理想的な統一の光景がラストシーンには広がっていた。その「恢復」はあまりに優しいものだった。
 「1990年、資本主義体制の崩壊した西独を東独が吸収合併した」
 この「事実」は、最愛の母への息子からの最高で最後の贈り物となった。彼女は祖国を抱きしめたまま安らかに永遠の眠りに就くことができた。了
[1] パスカル『パンセ』中央公論新社2001

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