2007年12月8日土曜日

時代を撃て・多喜二(池田博穂監督)

「厳密に、大胆に、自由に『今日』を研究して、そこに我々自身にとっての『明日』の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である」。と石川啄木は記した。[1]
小林多喜二にとって、その「必要」とは、困窮と不正に満ちたこの暗黒の世界を変えるために誕生したプロレタリア文学に他ならなかった。
戦前、多喜二が現れるまでは、日本での反戦・反軍国主義の文学は北村透谷や与謝野晶子など日清・日露戦争以来流派や思想を超えた伝統を形作ってはいたが、文壇の主流は、政治の問題を取り上げない、作者の日常生活を描いた、「社会」のなき私小説であった。
多喜二はこのような現状に抗い、正面から「社会」をテーマとして扱い、また、彼が確立したプロレタリア文学は、初めて反戦・反軍国主義文学の組織的運動として追求された。
「自分の文学は、ただ小説を書くことじゃない。働いている大勢の人たちの世の中のために役に立つ小説を書くことだ。そのために一生を捧げるつもりだ」。と決意を述べる。[2]
「大勢の人たち」は当時、安い賃金で長時間働かされ、人間としての権利も認められず、貧困にあえいでいた。そしてたびたび政府が起こす戦争によって、兵隊にも採られた。
「おい、地獄さ行ぐんだで!」で始まる、漁夫達の奴隷労働を描いた代表作『蟹工船』の中で多喜二は、天皇へ献上する蟹缶詰に「石ころでも入れておけ!――かまうもんか!」と書き生活の問題と政治の問題を巧みに結びつけた。工船は当時の日本の縮小図だった。
だが無論、このような多喜二の作品を権力が許すはずがない。削除、伏せ字、発禁…、あらゆる弾圧が彼のペンには加えられた。それだけでなく、徐々に彼そのものが官憲に付け狙われ始めた。幾度にわたる逮捕・拷問・投獄…、がしかし、多喜二は決して信念を曲げることをしなかった。それどころか1931年には共産党に入り、地下に潜伏するに至る。
虐げられている多くの人々の為に命を賭ける日々。彼の心は、こんな一篇の歌だった。
「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど―」[3]
圧制を告発し、人民を鼓舞して勇気を与える多喜二の作品は、この国だけに収まらなかった。スターリンの大量弾圧が猛威を振るった30年代のソ連においても、自国での専制への隠れた抗議の思いを込めて翻訳され、読者の反権力的な自覚を促したという。[4]
だが、1933年2月2日、遂に多喜二は赤坂でスパイの手引きにより逮捕される。そして築地署において、畳用の太い針や鉄棒などを用いた容赦ない拷問を受け、惨殺される。
本作はこの多喜二最期の場面を克明に再現する。彼はどんな激痛を加えられても決して何も語らず、ただ「早く殺せ!!」とだけ叫んだ。それはチェ・ゲバラの死に際と重なる。
従って普通の人にとっては、彼は非凡な意志と才能をもった、自分達とはかけ離れた特別な人間にしか見えないのかもしれない。だが、彼はこう固く信じていた。
「国民が団結すれば勝つといふ事、多数は力なり」[5]
だから多喜二は『蟹工船』をこんな言葉で締めくくるのだ。
「俺たちの味方は俺たちしかいない」。「そして、彼等は立ち上がった―もう一度!」了
[1] 石川啄木『時代閉塞の現状』1910
[2] 米倉斉加年「多喜二を考えることは今を考えること」しんぶん赤旗 2004/12/04参照
[3] 石川啄木「悲しき玩具」『一握の砂・悲しき玩具』新潮文庫
[4] 「小林多喜二国際シンポ・下」しんぶん赤旗2004/09/10参照
[5] 石川啄木 1911年1月3日付日記 (片山潜指導の市電ストの勝利を受けて)

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