2007年12月27日木曜日

ニーズ・オブ・ストレンジャーズ(マイケル イグナティエフ著 風行社1999)

 「愛のニーズは満たされない」
 著者が『リア王』を引用するなどして主張したこのテーゼこそが本書の核心である。
 福祉国家においてさえ、生活保護を受ける人、介護サービスをされる老人は「尊厳」のニーズが常に満たされていないという事実を著者は暴露する。「冷めたリベラリスト」というスタンスから「財を完全に分配しても満たしえないものがある」という政治の限界、リベラリズムの臨界について考察を進めていく。その筆致は含蓄に富み説得力を持つがしかし、自分はさらに「市場経済の過酷さ」という観点から独自に思索を試みたい。
 公共政策論においては「市場の失敗」ということを取り上げる。そして市場メカニズムに任せては分配不可能な財が存在するという事実から、政府の機能に注目していく。サミュエルソンの公共財概念では私財とは分配不可能なものであり、公共財とは全員享受可能で非競合性と非排除性という大きな特質をもつとされている。[1]
 では本書がテーマとする「愛」や「尊厳」というものはこの両者のどちらに属するのだろうか。どちらでもないならば、分配の主体はどこにもないのだろうか。
 仮に存在するとすればそれは、公共政策論において「第三の道」と呼ばれる、市場・
政府ではなく、NGO・NPOによるヒト・モノの分配が該当するかもしれない。
 各種ボランティア団体は食料や生活物資の支援、あるいは子どもや老人への人的アービスなど様々な活動を実施しているが、なかでも自分が注目するのは「地域通貨」の取り組みである。この発明は慈善事業においてエポックメイキングなことだったと感じられる。  なぜならば従来ボランティアをしてもらう側は常に「受け身」でありもっぱら「施される」立場であったのに対し、被奉仕者が地域通貨を「謝礼」として奉仕者に渡すことにより、両者の立場は「対等」で、「互酬的」なものへと変わることが可能になったからである。この時双方をつなげる感情は「憐憫」、「同情」から「共感」、「連帯」へと移るだろう。
 したがって、この通貨は「奉仕される側」が求める「尊厳」や「自尊心」といった心のニーズを満たしうるのかもしれない。
 円やドルといった支配的な通貨が築くネットワークがマックス・ウェバーの言うところの「ゲゼルシャフト」であるなら、地域通貨が紡ぎ完成を目指すのは「ゲマインシャフト」だと言えるはずだ。
 だがユートピアはまた、ディストピアでもある。ボランティアに潜む「危うさ」も見失ってはならないだろう。
 先日、阪神地震での救援活動熱の高まりに対して「動員されたボランティア論」が指摘されたり、政府によって「中学生の奉仕活動義務化案」が提唱されたことは周知の事実である。だが、「強いられた善意」とは語義矛盾でしかない。また、社会や共同体からの有形無形の圧力により促される「自発性」は虚構に他ならない。
地域通貨はそれを助長する手段に利用される恐れがあるのだ。多くこれを保持する人ほど地域や学校、職場でプライオリティを与えられるようになったら、ボランティアは事実上「義務」となってしまう。しかし、それは未来のことではなく、「使役としての優しさ」という問題は既に市場経済の中では顕著になってきているのである。
 それはすなわち、「感情労働」という新しい労働形態の発生だ。たとえばマクドナルドの「スマイル0円」やビッグカメラの「笑顔一番接客」のように、過当競争化した現代のマーケットでは商品そのものでなく、付随するサービスによって差別化を図る流れが加速している。しかしそれは、現場の労働者へさらなる「自己疎外」を強いることになる。時給800円足らずで常に「へりくだった態度」と「愛想笑い」を求められるのだ。
 とりわけ深刻なのは介護や看護といった、「他者の体に触れる労働」の現場である。赤の他人である老人や患者を裸にして入浴させる、体を拭く、オムツを替える等の作業は望まずして擬似的親密さを呈し、利用者の性の問題にまで労働者は直面してしまう。こうした性質の労働をある学者は「魂の労働」と呼ぶ。[2]
 「感情労働」、「魂の労働」はポスト工業化の時代に生まれた「新たなサービス業」であろう。成熟した経済の中で売る商品に困った企業は「感情」までをも市場に供給し始めたのである。
 前述したように、著者イグナティエフは「愛のニーズ」の分配不可能性を本書で主張しているが、だが熾烈な競争と淘汰の止まない市場経済では遂に「優しさ」「愛」までもが売りに出されるに至った。無論、それは偽製のFriendlyであり、擬製のIntimacyに他ならなのだが。
とはいえ、たとえ嘘偽りで束の間のものであろうとも「愛のニーズ」は満たされないよりはわずかでも応答されることを、幸せに成りたい者なら誰もが望むのである。
その卑近な証左を挙げるとすれば、例えばキャバクラやホストクラブの活況だ。これらの店では毎晩のように金銭を代価として、うたかたの「愛のゲーム」が繰り広げられている。ホストやキャバクラ嬢は己の心を確信犯的に使役することによって高い報酬を得るのだ。この点が前述した介護士や看護師の「魂の労働」とは対照的である。つまり、彼らが行っているのは「逆手に取った感情労働」だと言えよう。
こうした労働が隆盛になったのは新自由主義の潮流が強まって以降だといわれる。イグナティエフと『魂の労働』を記した渋谷の両者が共に大きな関心を示すのも「ネオリベラリズム下の感情労働」であった。
したがって、本書を補助線として展開した自分の考察は、「リベラリズムと福祉国家が最後まで満たし得なかった『愛のニーズ』を、最も『愛』や『慈悲』を嫌悪するネオリベラリズムが『満たそう』としている極めてアイロニカルな現実が私たちの前に広がっている」という、あまりに暗い結論に至った。
この台頭は止まらないのかもしれない。なぜならば、偽ブランドやコピー食品への需要が恒常的に高いように、私たちは高嶺の花のRealityよりも手の届くFakeの方が大好きなのだから。たとえそれが「笑顔」や「愛」だろうと同じなのだ。了
[1] サミュエルソン『厚生および公共経済学』勁草書房1991参照
[2] 渋谷望『魂の労働』青土社2003参照

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