2008年1月31日木曜日

スターシップ・トゥルーパーズ(ポール・バーホーベン監督1997)


 一度観たなら当分夢に出てきそうなほど、不気味で凶暴な「虫」たちだった。本作は人類と異星に住む巨大昆虫の戦争を描いた大作である。
 ジャンルはSFなのだが、R15指定にされてしまうような血みどころのバイオレンスシーンをふんだんに盛り込んでいるのが最大の特徴だ。蚊や黄金虫に良く似た象のように大きい虫たちが鋭い足で兵士を串刺しにして、あるいは首を切断し、または酸の液体を吐き出して腕を溶かす。こうした凄惨な戦闘場面がこれでもか、と続いていく。
 宇宙船や地球連邦軍が登場する未来、という一見子どもが喜びそうな舞台設定に激しい暴力をテイストしたバーホーベン監督は「残酷ファンタジー」とでも呼べるジャンルのパイオニアである。映画においてはこの種の作品はまだ珍しいが、漫画では『ベルセルク』[1]、活字では『本当は恐ろしいグリム童話』[2]など既にいくつも挙げられる。
ベネトンの広告のごとく人々の神経を逆撫でする挑発的な映画だってもっとあっていい。了
[1]三浦健太郎『ベルセルク』白泉社1989~
[2] 桐生 操『本当は恐ろしいグリム童話』KKベストセラーズ1998

2008年1月29日火曜日

グラディエーター(リドリー・スコット監督2000)


 歴史活劇映画といえば、古くは『スパルタカス』[1]、『ベンハー』[2]、昨今では『ブレイブハート』[3]が名高い。いずれも何部門もアカデミー賞を受賞した。とりわけ自分は『ブレイブハート』にはとても感動させられた。
 こうした古代・中世スペクタクル作品において成功の是非を決めるのは「質」ではなく「量」である。城や村を再現した大掛かりなオープンセット、剣や兜、鎧、貴族の衣装といった一連の装飾品への惜しみない予算の投下。そして何よりも「大量のマンパワー」が必須となる。一度に一箇所に数万人というエキストラを集めて行う合戦シーン、これがこのジャンルの最大の見せ場だからだ。
 超大作であった本作は、それゆえ制作費が1億5千万ドルにも及んだ。それは見事に作品のクオリティに反映されて、見るもの誰をも魅了する作品へと完成したのだった。従来の歴史もののように豪華絢爛なビジュアルだけでなく、最新のCG技術も駆使して主人公が虎と戦う場面など数々の名アクションシーンも作り上げている。
 名声をひがんだ皇帝によって命を狙われて妻子を殺されたローマ軍の将軍が、剣闘士になって復讐を果たすという物語は、日本の時代劇でもお馴染みの構図だが冒頭で描かれる主人公の栄光の時代と、その後の没落ぶりの落差によって観る者は強く感情移入してしまう。
 最後には、皇帝を道連れにして主人公も命を落とす。ハリウッドの定番である手放しのハッピーエンドではないのだけれども、はかなく悲しいラストシーンはいつまでも余韻を残すのだった。文句なく楽しめる大作だと断言できる。了
[1] スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』1960
[2] ウィリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』1959
[3]メル・ギブソン監督『ブレイブハート』1995

エイリアン(リドリー・スコット監督1979)


モンスター映画は多々あれども本作ほど斬新で強烈なインパクトを与えるものは少ない。
スイス人画家H・R・ギガーの手によるこの怪物「エイリアン」は、トカゲのような長い尻尾とゴキブリのような黒光りした表皮、異常に長い後頭部を持ち、口の中からはもう一つの口が出てくる。そして巨大な体躯で2足歩行をし、容赦なく人間に襲い掛かる獰猛な性格だ。いまや「ET」と対を成す宇宙人として、絶大な人気を博すようになっている。
 しかしストーリーは、従来のホラー映画のセオリーを踏襲している正統派だ。「緊張」と「緩和」、「静寂」と「喧騒」を効果的に織り交ぜ、スリルに溢れた作品へと仕上げている。光や闇を巧みに用いた映像も特徴だ。こうした優れた演出によって、稀代の怪物の魅力をフルに引き出すことに成功した。
 宇宙船の内部という、限定された密室空間の中でどこに潜むか分からないエイリアンと死闘を繰り広げる主人公たち。だが、凶暴なモンスターの前に一人また一人とクルーは犠牲になっていくのだった。
 本作が作られた1979年前後は、ケネディ大統領のアポロ計画、レーガンのSDI構想等、人類による宇宙進出が著しい速度で実現している時期だった。広い銀河系の彼方に道の生物がいるのではないか、と多くの人々が想像を膨らませていたことだろう。けれども大きな大きなこの宇宙には人類の力などでは到底太刀打ちできない怪物も存在しているのかもしれない。人類が核開発に邁進している最中に『ゴジラ』[1]が製作され、自らのエゴで水爆実験を行い、自然を破壊する我々の傲慢さを告発したように、本作も、我が物顔で月や火星に乗り込もうとする人間の驕り高ぶった態度に対する手痛い叱責をしているようにも見えた。
22世紀、資源を目当てに兵士達を月に送り込んだのならきっと「エイリアン」に返り討ちにされることだろう。了
[1] 本多猪四郎監督『ゴジラ』1954

ペット・セメタリー(メアリー・ランバード監督1989)


 高度に文明化の進んだ現代社会において、「恐怖」や「怪奇」とは主として「突如日常へ闖入してくる非合理的で不条理な存在」であろう。
 日本では前近代、非日常は「ハレ」という概念で語られていた。そして、周囲の山には「もののけ」たちが跋扈していると考えられた。丑三つ時には「百鬼夜行」があるといわれていた。また、西洋でも村を取り囲む森には魔物が住むと恐れられ、人々は近寄らなかった。そして悪魔崇拝の黒ミサも深い森の中で行われた。怪しげな女性は災いをもたらす魔女と見なされ、火あぶりにされた。
 だが時は流れ、啓蒙思想と科学の光が迷信や因習を照らし出し、打ち砕くようになった。そして人々は「理性」の勝利を信じ始めた。だが、あらゆる「闇」の正体が暴かれたと思われる現在でさえ、いまだ謎のまま置き去りにされているものも実は存在する。
 そう、それはすなわち「心にある闇」である。「嫉妬」、「猜疑」、「憎悪」、「怨恨」、「怒り」。私たちは、様々な複雑な気持ちを抱えて日々を生きている。ある一つの感情に全てを支配され、破滅へと突き進む者も数多くいるのである。本作の主人公もそうした一人であった。
 幼い息子を突然の交通事故で喪った主人公は、悲しみに暮れ何も手につかなくなってしまう。だが、そんな折に「埋葬すれば死者が甦る」と言い伝えられている裏山にある土地の存在を知る。そして、息子の亡骸を背負って山の奥深くへと入って行く。しかし、その場所は「禁断の地」と恐れられ古くからの住民達は誰一人近付かないところなのだった。
 「我が子への未練」というとても強く固い思いは、主人公を平穏な「日常」から、魔と闇に包まれた「非日常」へと導いていった。それは惨劇の幕開けに他ならなかったのである。
 スティーブン・キング原作の映画の中では本作は屈指の高い評価を受けている。自分も、緊迫感に溢れた演出と最後まで失速しない見事な脚本につくづく感心した。ゾンビやスプラッターモノとは違い、即物的で視覚に頼る手法ではなく、心理的にじわじわと怖がらせる作風だ。不気味で陰鬱な空気が画面を満たし、独特な世界を生み出すことに成功している。
 生き返った息子はしかし、生前とは別人と化していた。凶暴な人格へと変貌し、殺人を次々と重ねるのであった。そして、実の母の命まで奪ってしまった。息子だけでなく、愛する妻までをも喪った主人公は、再びあの禁断の地へと足を踏み入れていくのだった…
 「ホラー」に属する本作であるが、物語の主題は以上のように「家族愛」だと言える。最愛の息子を亡くした人間の苦しみ、痛み、悲しみ。「もし、貴方が主人公の立場ならどうするだろうか?」と問われている気がするのだ。きっと誰しも「禁断の地」へ進んで行ってしまうことだろう。
 なぜならば、「愛から成されることは全て善悪の彼岸に起こる」(ニーチェ)のだから。了

2008年1月27日日曜日

愚か者/傷だらけの天使(阪本順次監督1998)


 主役である真木蔵人の「イカれた」演技が一番印象的であった。この彼の「怪演」ぶりを本作はしかし、活かしきれていなかったというのが正直な感想である。
 コミカルタッチが基調となっているのだが、そのノリが随分空回りしていた。笑いはとても予定調和で、見る側に先読みされてしまい、興ざめであった。また、この基調も鈴木一真扮する相方がむやみに振り回すナイフがかき乱してしまっていた。小道具にナイフを重用したのも失敗だし、その必然性もよく分からない。
また、なぜいきなり彼が警官から銃を奪う必要があったのかも疑問だ。全体的に本作のストーリーは散逸で行き当たりばったりなのである。否、これこそが本作のストーリーなのだというのなら、それは「J文学」とそっくりだ。どうでもよいような日常の出来事をしまりなくダラダラと書き綴るあのスタイルは自分には何の魅力も感じさせない。本作はとりあえず「映画」という技法を採っているので、J文学とはもちろん全く同じというわけではなくところどころに「非日常」を挿入せねばならなかった。が、その目論見はまんまと失敗し、大して盛り上がりもしなかったのである。
「邦画」というものは日本人にとって「日常」の地平の延長上にある。「同じ言葉を話す同じ外見の人々」から構成されているのだから。そのため、非日常を描くアクションやホラーのジャンルといえども洋画と比べればそのインパクトは弱まらざるを得ない。それならば、本作のような「J文学もどき」の映画はそれこそ、「銀幕を使った動く日記」になってしまう。無論、小津安二郎の『秋刀魚の味』の例のように、本国人には面白く思えない邦画も海外で上映したならば、向こうの人にとってはこちらの「日常」が「非日常」であるため、高い評価を受けることもあろう。
お金を払ってまでスクリーンに「日常」を観たい人などいない。それは世界共通である。了

八月のクリスマス(ホ・ジノ監督1998)90点


 鑑賞を終えると涙は溢れて、思いは焦がれた。平穏で凡庸な日々の暮らしの中で忘れがちな人生本来の「切なさ」、「はかなさ」という気持ちをこの作品は真正面から自分に思い起こさせたのだった。 
 残された生の時間が後わずかとなった時、「世界」と「愛」はどのように変わるのか、それを静かで優しいタッチで本作は描き出す。
 まだ若さの残る、写真店を営む男。だが、悟りきったかのように終始泰然とした穏やかな立ち居振る舞いをする。駐車違反の取締り業で働く女性タリムも彼のこうした人柄に惹かれていく。そうして街の片隅でほのぼのと育ち始める愛。けれども二人の前には余りに残酷な現実が待ち受けていた。彼は病のために、もはや余命幾ばくもなかった。
 ストーリーはシンプルな部類に入るといえるが、所々に物語を輝かせる巧みなアイデアが仕掛けられている。
 例えば、主人公がスクーターを使って行動する点だ。バイクや自動車でなくあえて「スクーター」を選んだことは彼のキャラクターに非常にマッチして見えた。小さくて速度も遅いけれど愛らしいこの乗り物は、彼の生命と性格を表す隠喩に他ならなかった。そして、アジア特有の雑多で喧騒的で人に溢れた街の中を二人を乗せたスクーターが疾走していくシーンは、どこまでもイノセントで爽やかであった。
 また、「思い出」や「記憶」の象徴である「写真」を扱う商売を主人公が営んでいるという設定も素晴らしい。観る者はどうしても、間もなく亡くなってしまう彼自身の「追憶」を思い、「最後の恋の成就」を願わずにはいられなくさせられる。
 物語の終盤、老婆が遺影用の写真を撮ってもらいに死の間際の主人公の店を訪れる、という皮肉で無情な場面があった。けれども彼はやはりいつものように朗らかな表情で何一つ取り乱すことなくシャッターを押したのだった。
 この老婆が去った後、彼はもう一度シャッターを切る準備をした。自分自身の遺影を撮るために。
 「余命わずかの者の愛」という主題の本作から強く伝わってくるのは、「世界の見え方の変化」だ。自分の生命の限界、死の時期が確定したとき、自身を取り巻く全ての存在は「未来」ではなく「過去」へ、「記憶」へと凄まじい速さで逆行し出す。『ソフィーの世界』[1]では「『死』とは『私』から『世界』が消えること」と書かれていたが同じことを指すだろう。
 今まで当然のように思えた風景や事物がまばゆく輝き始め、狂おしいほど愛おしくなる。そして、自分の周囲の全ての人々を赦し、受け入れられるようになる。だからこそ主人公はあれほど澄んだ優しい目をしていたのであろう。
 彼の死にどうにか間に合わせるように、不思議な運命の力は彼と彼女を8月に出会わせた。タイトルの「8月のクリスマス」とはだから、神様がサンタになって、少し早めのクリスマスプレゼントを特別に彼に与えた、という意味に思える。そして彼の死後、この写真店は彼女がしっかりと受け継いだ。
 彼が逝ったその日、雪が街を真っ白に染め上げた。彼の魂の美しさ、清廉さを表すかのように。それは奇跡の情景だった。了
[1] ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』日本放送出版協会1995参照

2008年1月26日土曜日

ブレードランナー(リドリー・スコット監督1982)95点


 「最高傑作」とまで評されるSF映画の代表であるが現在になって観た場合、率直に述べればインパクトはそれほどではない。
 SFXの点では今の作品の方が遥かに進歩している。ストーリーも他に優れたものは昨今多々ある。だが、それでもなお熱烈な人気を誇り、揺らぐことのない存在感を維持しているのはなぜだろうか。
 その理由は、アクション映画における『ダイハード』、推理小説における松本清張作品のように「古典」としての不動の地位を獲得しているからであろう。『ブレードランナー』の前と後ではSF映画のパラダイムは全く変わってしまった。
 哲学者ホワイトヘッドは、「ヨーロッパ哲学史は全てプラトンの注釈に過ぎない」という有名な言葉を残した。「古典」とはこのようなものなのだ。「ほこりと暗闇に包まれた都市」という独特な近未来の世界観、「自己同一性」というデカルトやヴィトゲンシュタインに通じる深遠な哲学的主題。そして圧倒的な映像センス。『ブレードランナー』を語ることなしに現代のSF映画は語ることができない。
 けれども「古典」は時代とともに解釈のされ方も変容してくる。そして、やがてその作品は換骨奪胎されて、新しい「古典」が登場する。例えば『マトリックス』は、本作の影響を受け続けていたこのジャンルに斬新な風を吹き込んだ。芸術とは「古典」の脱皮の歴史なのである。了

2008年1月25日金曜日

僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ(アニエスカ・ホランド監督1990)80点


 ユダヤ人である主人公・ソロモンは第二次大戦中、ナチスに追われ一家でドイツからポーランドへ疎開する。しかし、姉はヒトラーユーゲントの手で殺害される。そして家族はバラバラとなり、彼はその後コムソモール(共産主義教育舎)に逃げ込んだのだった。
 そこでは徹底的なスターリン賛美と宗教批判教育が実施されていた。「宗教は科学的でない」、「共産主義は科学的に正しい」と教師たちは子どもたちへ熱心に説いて回る。
 だが、遂に自身もナチスに捕えられてしまい、命は助かったものの、今度は通訳としてドイツ軍で働くことになるのだった。皮肉にもこの仕事で彼は出世して、将来のエリートのために造られたヒトラーユーゲント育成学校へと送られていく。ここでクラスメートのレニという少女にやがて淡い恋をするようになる。だが、ユダヤ人である主人公は正体を知られれば一貫の終わりのため、どうしても関係を深めることが出来ずに苦悶するばかりだった。そうこうしているうちに彼女は他の生徒に奪われて妊娠する。だから主人公はひどく傷心したのだった。
だが、それでも彼はその後も戦禍の中を全速力で駆け抜けていった。全ては「生き残る」というただ一つの目的を果たすためである。
このように主人公の青春は、戦争の時代、「全体主義」と「共産主義」という左右双方のイデオロギーに翻弄されるばかりだった。どちらの陣営も主人公と同じ純粋無垢な少年・少女たちを時の権力者の思想に染め上げて支配体制を磐石なものにしようと必死だったこともまた、本作からはよく見て取れる。
 そのため彼は「ファシスト」と「コミュニスト」という2つの分裂した自我を持たざるを得なくなってしまった。けれどもイデオロギーは所詮彼にとっては「生き残る」ための方便にしか過ぎなかったことも理解できる。まだ幼い主人公であったが、しかしどんな大人たちよりもしたたかで力強い「生きる意志」を持っていたといえよう。
 驚くべきことにこのストーリーは紛れもない実話なのである。ユダヤ人少年・ソロモンは実在の人物なのだ。したがって、この真実の物語は観る者皆に「どんな逆境であろうと決して絶望する必要などない」と熱く語りかけているように感じた。この映画は美しく高らかな、奇跡の生命賛歌に他ならないのだ。了

2008年1月23日水曜日

スプラッシュ(ロン・ハワード監督1984)90点


 幼い頃の思い出には今からすれば虚実ない交ぜの不可解なものが多い。ラグビーボール位のサイズのハチを見た、人面犬を見た、UFOを見たという話をする人もいる。そしてこの映画の主人公は「僕は人魚を見たんだ!!」と子供のとき真顔で語るのであった。
 しかし、成長するにつれてその確信は徐々に薄らいでいく。多くの人はこうして「迷信」と決別していくのだが、けれども彼はその気持ちをいつまでも捨てきれないままだった。
 彼が大切に守り続けた幼心は、やがて報われることとなる。ある日、大人になった彼の前に突如あの「人魚」が現れたのである。
 「人魚」というファンタジックで非現実的な存在をいかに「リアル」に描くか。この点、本作は非常に上手だったといえる。設定を巨大都市「ニューヨーク」に大海から迷い込んだ人魚、とすることによって「環境の激変に激しく動揺する人魚と、捕獲しようとうごめく政府やメディアから彼女を守るために孤軍奮闘する主人公」のロマンチックなドラマを生み出すことが出来た。
 また、優れた作品には必ずといっていいほど卓抜なアイデアが散見されるが、本作の場合、「人の姿に変身した人魚に水をかけると足が尾ひれに戻ってしまう」という独自の着想が物語を二転三転させるスリリングなものとして見事に機能している。その年度のアカデミー脚本賞にノミネートされたことも納得がいく。
 そして、荒唐無稽な話だけれども、主人公と人魚の軌跡はラブストーリーの王道を踏襲しているので、ベタだが手堅く観客のツボを押さえていた。
 愛し合う二人の前に立ちはだかる障壁が大きければ大きいほど、恋の成就を観る者は全力で応援したくなってしまうのが世の常だ。
 そんな障壁の中でも「愛した人が人間ではない」ケースほど困難で盛り上がるものはないだろう。
それゆえ映画の題材として、本作以外にも名作『ベルリン天使の詩』[1]など「恋愛」プラス「ファンタジー」ものは極めて相性が良いのである。
 鑑賞後、自分は小さな頃に近所の喫茶店で食べたチョコレートパフェの味を思い出したのだった。「童心」をいつまでも無くさないこと、それは世知辛い世の中とほろ苦い人生をもっと甘いものへと変えてくれるはずだ、きっと。了
[1] ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』1987

アメリカンヒストリーX(トニー・ケイ監督1998)90点  


 かの慈悲深きシュバイツァー博士は生前このように語った。
 「人類は皆兄弟である。白人は兄であり、黒人は弟である」。
 アフリカに渡り、原住民への医療奉仕とキリスト教の伝道に努め1952年にノーベル平和賞を受賞した同氏は無論、偏狭な人種差別主義者ではなかった。だが、「啓蒙」という立場からこのように考えていたと思われる。[1]
 確かに近現代史は白人が中心だった。だが、彼らを下支えしたのは欧米の植民地に暮らす黒人と黄色人種の人間たちだったのである。それゆえ、「兄弟」どころか、「非白人種」との関係を「主人と使用人」のそれだと思い込む白人は現代でも少なからず存在している。
 だからこそ、自身の不遇の理由を全て「ヒスパニックや黒人たちが職を奪ったせいだ」などと真顔で話す者まで現れるのだ。本作の主人公もこうした白人の一人であった。
 黒人の強盗に父親を殺された彼は白人至上主義団体に参加するようになる。そして他人種への激しい迫害活動を煽動して頭角を現していく。やがて彼は、自動車を盗みに来た黒人2人を射殺する事件を起こして逮捕された。
 2年の刑期を終えて彼は仲間の下へ帰ってくるのだが、しかしかつてのような燃え盛る憎悪と闘志はどこにも無くなっていたのだった。それどころか、この極右団体に加入した弟を「馬鹿げてるから止めた方がいい」と説き伏せようとするのである。
 一体、主人公の身に何が起きたというのだろう。物語は、2年間の刑務所生活での出来事を彼が回想する形で進んでいく。
 服役当初は黒人やヒスパニックの囚人達を威嚇し、他の白人達と行動を共にしていた主人公だったが、用務作業を通じて1人の陽気な黒人と意気投合するようになってしまった。そして徐々に白人グループから離れていった。しかし、そのことで白人・黒人双方から睨まれ始める。
 白人達から遂にリンチを受けるに至り、彼は深刻な窮地に陥ることとなる。だが、友人になった黒人の尽力のおかげでその後、刑期を終えるまでどうにか無事に過ごせたのだ。
 こうした一連の経緯によって主人公の氷の如く凍てついた、偏見と差別で満ちた心は大きく変わっていった。
「悪いシナ人がいて良いシナ人がいる、いい日本人がいて悪い日本人がいる。それだけだ」
 かつて魯迅はこう述べた。それは、日本人はこうであり、アメリカ人はこうである等と一般論で語ることの愚かさを非難したものである。あるいは現在、アメリカ民主党の大統領候補となっているオバマ氏も「白人のアメリカも黒人のアメリカもヒスパニックのアメリカもない、ただアメリカ合衆国があるのだ!」とスピーチをして喝采を浴びた。
 主人公もまた、彼らのように「誰もが皆同じ人間であり、人種は重要な問題ではない」と獄中で気づいたに違いない。
 しかし、この物語は悲劇的な結末で幕を下ろすのだった。対立していた黒人グループに主人公の弟は殺されてしまう。
「憎しみは憎しみしか呼ばない」、それは誰もが分かっている。けれどもいまだに、この世界では肌の色を巡って、今日も人と人が不毛な衝突を繰り返すのである。了
[1] シュヴァイツァー『シュヴァイツァー著作集』白水社1957

2008年1月19日土曜日

ゲッタウェイ(サム・ペキンパー監督1972)


 紛れも無く、サム・ペキンパー監督の代表傑作である。彼の作品の中で最も興行的な成功を収めた。現在になって見ても飽きることが無い。全編どこにもソツがなく、一点のぬかりもない。ワイルドでスタイリッシュ、クールでシャープなハードボイルド作品だ。
 本作では、他のペキンパー作のようにアクションシーンが素晴らしいことは無論、それ以外にも所々に織り交ぜられる挿話の妙が光っている。
 銀行強盗を働いた主人公夫婦を追うメキシカン・マフィアの男と、巻き込まれた獣医夫婦のエピソード、駅での、大金の入った主人公のバッグが盗まれる場面、ゴミ収集車の中に隠れて彼らが警官から逃げるくだり。
 この作品はジム・トンプソンの原作[1]を映像化したものである。小説には、カットにカットを重ねてテンポを第一とする映画と異なり、「脱線と閑話休題」が存在する。ここにおいて、作者は私見やうん蓄を披瀝して物語に奥行きを与えていく。
 たとえば本作においては、駅のバーで主人公に隣の兵士がモルモン教について語りだすシーンがあった。本筋とは関係ないのだが、知的好奇心をそそり、非常に興味深かった。
 ペキンパー監督は、原作のエピソードの中でもとりわけ獣医夫妻の話を重視していたようである。丹念かつセンセーショナルに夫婦とマフィアの様子を活写していた。このパートは、「女は真面目ぶったインテリ野郎より野生的なワルの方が好きなんだ」とでも言いたげな「マッチョ賛歌」の荒々しい寓話に見えた。
 そして、原作の部分をこのように活かしつつ、ガン・アクションというペキンパー映像の真骨頂も存分に発揮されている。銀行襲撃シーン、ラストの銃撃戦は素晴らしい迫力で名場面として後世まで記憶されている。
 最後には、何度も衝突を繰り返してお互いに傷つきながらも、主人公夫婦は一緒に国境を越えたのだった。
 「アンチ・ヒーロー」に幸せな結末が待つ。勧善懲悪ではないニヒルな世界も、ペキンパーだと嫌いになれない。了
[1] ジム・トンプソン『ゲッタウェイ』角川書店1994

トイズ(バリー・レヴィンソン監督1992)85点


 自分はものを粗末に出来ない性格で、だからいまだに幼稚園や小学生時代に親しんだ玩具を大切に保管している。今になってみれば、ただのガラクタにしか見えないミニカーや超合金ロボットでも当時は虜になっていた。
 自分の幼年期には『セイント聖矢』や『ガン消し』、『ビックリマンシール』の大ブームが起きていた。また、その他にも『ネクロスの要塞』というゴム人形のコレクションに自分は夢中だった。合計100体以上集めていた。
 そもそもなぜ子供たちはこれほどにいつでも、おもちゃが大好きなのだろう。それは、自分自身は無力な存在で、大人に支配されているけれど、おもちゃと戯れるときは自分が世界の王様になった気分になれるからだと思う。
また、おもちゃは子供の想像力や独創性をどんなものより刺激してくれることも理由だろう。たとえば自分は、思いのままに様々な形を作れる『レゴ』も大好きだった。粘土遊びも毎日やっていた。
 本作はこのような誰もがかつて過ごした「おもちゃ箱の日々」をまざまざと甦らせてくれる、とても優しくて楽しいファンタジー映画である。『チョコボール』の「おもちゃの缶詰」を初めて開けた時のあの胸の興奮を、自分は再び鮮やかに思い出したのだった。
 草原にたたずむ大きなおもちゃ工場を舞台に、おもちゃと子どもたちを利用して世界制服を企む軍国主義者の将軍と、それに立ち向う御曹司の主人公、という平和と反戦の熱いメッセージが伝わるストーリーとなっている。
この作品は一見ディズニーアニメのようにほのぼのとした雰囲気だが、しかし実際は厳格なまでの様式美が徹頭徹尾貫いていることが特徴だ。
 空の色、建物、壁紙、衣装、小道具、キャラクター、画面に映る存在全てが「おもちゃ箱」のそれなのである。『シザーハンズ』[1]とよく似ている。そのこだわりは異常なほどに感じる。それゆえ、冒頭から終盤まで作品の世界観の「調律」が全くずれていない。完璧な「ネバーランド」がそこにはあった。
だからこそ、観る者はぐいぐい物語の中に引き込まれていく。かつての無邪気な童心が長く深い眠りから目を覚まし、「おとぎの国」へと大人たちを心地良く誘う。了
[1] ティム・バートン監督『シザーハンズ』1990

2008年1月17日木曜日

世にも奇妙な物語「恐竜はどこへ行ったのか?」(1994/7/7フジテレビ)90点


 地球は大きさの割に随分「軽い」らしい。だから、「実は中身は空洞でそこには地底世界があって、地底人が暮らしている」という“トンデモ説”も唱えられている。[1]あるいは、宇宙には「反物質」の割合が少ないという物理学上の大きな謎が残っている。また、アメリカの、カリフォルニア州とネバダ州の間に位置するデス・バレー国立公園では、何百キロもの石が毎年必ず同じ時期に「勝手に動く」のが知られている。
 このように現在においても科学では説明できない現象が多々存在する。そうしたものの1つに「恐竜絶滅のミステリー」が挙げられる。
 これに関しては「隕石衝突説」が最も有力だが、あくまでも仮説の域を出ていない。このドラマでは、一つの大胆な推論が提示されている。
 物語は、突如発狂して自傷行為を始めて、研究所の地下室に隔離された博士と、彼に接触を試みる若い女性大学院生を中心に進んでいく。この構図はアカデミー作品賞を受賞した『羊たちの沈黙』[2]を連想させる。また、佐野史郎と松下由紀の演技も、レクター博士とクレランス捜査官によく似ていた。彼女は博士の過去を調べだすのだった。
 博士の専攻は「大脳生理学」であった。錯乱前、彼は「恐竜はどこへ行ったのか?」という論文を執筆していた。それは以下のような内容だった。
 「は虫類の脳は、最も原始的本能を司る『R領域』という部分が発達していて、したがって地震や噴火を正確に予知して事前に安全な所へ逃れられる。人間にもこの部分はあるのだが、知性と引き換えに矮小化してしまった。しかし、たとえ危険を予知できたとしても星全体が被災するならば避けようがない。だが、「絶滅した」にしては発掘される恐竜の化石の数は極端に少ないのである。それゆえ、彼らはR領域の力によって異次元にワープしたと考えられる。」
 そして、博士はアマゾンの原生林からヒトのR領域を拡大させる効果を持つ植物を発見し、ここから「R領域拡大薬」を生成する。マウスにそれを注射して水槽に閉じ込めるとマウスはこの世界から消失してしまった。博士はこの実験を見て自分自身にも薬を注射する。すると、元来ヒトはR領域が小さかったために完全には異次元へ行けず、双方の世界の「狭間」に入ったのである。
 彼が異次元にいる恐竜に襲われてもこちらの人間にはそれが見えず、「発狂して自傷している」ようにしか思われない。それで彼は拘禁され隔離された、というのが真相であった。
 博士は彼女に向かって、「深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ」というニーチェの言葉を叫ぶ。「真実」を究めた者の恐怖と狂気がそこにはあった。だが彼女もまた、「深淵を覗こうとする」誘惑に負けて、自らの腕にこの薬を注射する。そして博士と同じ「次元の狭間」に陥ったところで本作は幕を閉じる。
 この作品は、サイエンス・フィクション=「SF」の王道を行く傑作だといえる。科学と創作、事実と空想を巧みな割合で調合した、マイケル・クライトン[3]を彷彿とさせる見事な脚本だ。絶妙な虚実皮膜の物語が、自分をいつまでも太古のロマンの余韻に酔わせた。了
[1] と学会『トンデモ本の世界S』太田出版2004参照
[2] ジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』1990
[3] マイケル・クライトン『ジュラシック・パーク』早川書房1993参照

クルーレス(エイミー・ヘッカリング監督1995)80点


 俳優のプロモーションビデオのような映画は確かに邪道かもしれない。それでも、ニーズがあるから製作されるのであってそれなりの価値や役割は明らかに存在する。例えばトムクルーズの『カクテル』[1]もこうした作品である。本作も大半の人はストーリーよりも「アリシア・シルバーストーン」をとくと眺めたくて見たに違いない。自分もその1人で、数年前に雑誌『スクリーン』[2]で彼女の写真を見て以来、すっかりファンになってしまった。
 アリシアは本当にキュートでクールだ。無垢で可憐だ。だからファンがたくさんいる。
 それゆえ、本作は自分や彼らの需要に応えて、「アリシアのプロモ」となっている。主演の彼女を「ビバリーヒルズに住むセレブのお嬢様」という設定にして、ありあまるほどのブランド服を持っているということにした。だから、「ワンシーンごとに衣装が違う」のだ。恐らく制作費のうち衣装代がダントツだったに違いない。そしてどんな姿もよく似合うのだった。まさに「彼女とファンのための」映画だといえる。
 ストーリーはありがちな学園ラブコメであり、特筆すべき点は無い。だが、何よりの見所は「アリシア」自身なのだ。観る者はただ、彼女の美貌に酔えばいいだけである。了
[1] ロジャー・ドナルドソン監督『カクテル』1988
[2] 『スクリーン』近代映画社

2008年1月16日水曜日

紅いコーリャン(張芸謀監督1983)90点


 ハリウッドに属さないアジア映画ということで、「楽しむ」よりも「味わう」ものであり、「文芸作品」であるという先入観を持って本作を見始めたのだが、それはすぐに裏切られることとなった。
 冒頭のシークエンスでの神輿担ぎたちの合唱が、自分を心地良く酔わせて優しく作品の世界へと誘っていった。
 美しく広がる緑色のコーリャン畑は『天国の日々』[1]の麦畑を連想させた。そして、映像、ストーリーともに本作は他の「非ハリウッド作」とは大きく異なっていることに気づいた。
 確かにハリウッド以外にも素晴らしい映画は多いが、娯楽要素のふんだんなアメリカの作品ばかり見てきた我々には、非ハリウッド作にしばしば見受けられる「視覚的地味さ」、「テンポの遅さ」、「メッセージ性の強さ」などの特色があまり水に合わない。この前に鑑賞した『アンダーグラウンド』[2]でも、自分は途中で寝てしまった。
 しかし、本作はこうした「弱点」とは無縁だった。まず感心したのは「編集の巧みさ」である。通常は長くなりがちの伝記モノを正味90分に収めている。やや説明不足に思えるほど削り込んでいるのだ。それは、カメラがコーリャン畑と隣の酒造場から全くといっていいほど離れないために可能となった。視点を一箇所に固定してしまうことによって、冗漫になりがちな、当時の世相や時代背景の描写を極力捨象できるのだ。
 「歴史の中のコーリャン畑」ではなく、「コーリャン畑の歴史」を描くというスタンスである。したがって観る者の目は酒と畑に留まり続ける。まるでこの場所は、俗世からかけ離れた浮世か極楽に思えるような倒錯感を次第に自分は覚え始めた。「紅」を基調とした本作の映像は、コーリャン畑をとても耽美的で幻想的なものに見せていた。
 非ハリウッド系の映画は、「よく知らないところの人々のよく知らない生活と文化」を詳しく学べるという側面もある。この要素が強いと、見る側は知的好奇心を大いに刺激され、飽きることなく最後まで鑑賞することができる。本作ではこうした「生活情報」に加えて前述したような「独創的な視覚表現」も駆使されているため、非常に大きな牽引力を持っている。
 また、「紅いコーリャン酒」を用いた伏線と隠喩も素晴らしかった。
 嫁いですぐに、嫌いな主人が死に本当に愛していた使用人の男と結ばれた若き女性チアウル。コーリャン畑も酒造場も手に入り、何不自由の無い幸福な生活を送っていた。だが、第二次世界大戦が勃発し、侵略してきた日本軍によって畑は踏み潰され、住民達も処刑される。そして自身もまた、最愛の息子を残して殺されてしまったのだった。
 当初は「幸福と繁栄」の象徴だった「紅いコーリャン酒」が今や「悲劇と没落」の証と化した。もはや、大地を伝う赤い液体は日本軍に殺された人々から流れ出た血液なのか、コーリャンの酒なのか見分けがつかなくなっていた。
 戦争は、人間の生命だけでなく、長い時を隔てて連綿と受け継がれてきた美酒までを殺したのである。もう、二度と桃源郷の日々は帰ってこない。涙と血の浸み込んだ大地からは、コーリャンはもう育たないのだから。了
[1] テレンス・マリック監督『天国の日々』1978
[2]エミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』1995

天国の日々(テレンス・マリック監督1978)90点


 「映画」という表現技法が持つ一つの可能性を頂点まで極めたのが本作品だと感じた。
 「カメラはどこまで美を映せるか」、その問いに対して正面からこの作品は答えを提示して見せたのである。どのシーン、どのカットもそのまま一つの絵や写真にしても十分に通用するほどの芸術性を持つ。採光、色彩、構図、いづれも完璧に近いと思う。中でも冒頭の、青空の下、汽車が黒煙を上げながら鉄橋を渡っていく場面には目を奪われるばかりだった。また、主人公とその恋人が雪の降る中、積まれた麦わらの下で二人寄り添い寝そべって、寒さに耐えているシーンにも心を揺さぶられた。
 この映画の耽美的、陶酔的なまでの映像美を作り上げている「もう一つの主人公」は、「空と夕日と麦畑」である。この3つの存在なしには本作品は成立しなかったといえる。
 どこまでも広がる麦畑は、春が来れば緑へ、秋になれば茶色へと見事に染まる。その中を多くの農民達が行き交う。フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』、『種をまく人』等の絵画のように、こうした「麦畑の農民」の姿は、高い芸術性を帯びている。映像において、この「麦畑の美」を引き立てるのが、「空」なのだろう。本作で見られる、雲ひとつ無い青空と地平線まで広がる一面の麦畑は、どこまでも美しいコントラストを奏でていたのだった。
 また、昼は「空」なら、夜には「夕日」が麦畑に鮮やかな化粧を施す。あるいは時折挿入される生物のカットも見事な出来映えであった。しかし、「映像美」を前面に押し出しつつも本作は、それに呑まれないだけの骨太のストーリーも用意している。
 「貧困からの脱出と引き換えに最愛の恋人を他の男と結婚させる」というのが主題となる。主人公が受ける身を裂くような苦しみと痛みが、見る者へも容赦なく迫る。
 物語の最後には、この美しい麦畑は全焼してしまう。そして、主人公は恋人の夫となった地主を殺し、自身も警官に射殺された。
 だが、「燃え上がる麦畑」という悲壮な情景もまた、真っ赤な炎に包まれて幻惑的で、あまりに美しいものだった。
 今はもう、繁栄を極めた麦畑も若き生命も喪われた。しかし、『桜の木の下には死体が埋まっている』[1]と言われるように、春の訪れと共に新たに蒔かれた麦の種は、大地に眠る主人公の亡骸を糧にして大きく育ち、再びかつての栄華を取り戻していくことだろう。
 「美」とはどこまでも貪欲なものなのだから。了
[1] 梶井基次郎『檸檬』集英社文庫1991参照

2008年1月15日火曜日

キッズ・リターン(北野武監督1996)95点


 自身のバイク事故の後作られた本作は、北野映画の中で極めて異彩を放っている。他の作品と比べ、大きな違いがいくつもあるのだ。
 主役が大人でなく高校生である点、銃と暴力と死を前面に出していない点等である。本作以前の『その男、凶暴につき』、『ソナチネ』、以降の『HANABI』、『ブラザーズ』には共通してヤクザと刑事、流血とバイオレンスが登場する。基調となる世界観がとても殺伐としているのだ。それゆえ、『HANABI』はベネチア映画祭を受賞したのだが、自分はどうしても良いとは感じられなかった。反面、本作からは多大な感銘を与えられたのである。
 「北野武の青春映画」と聞けば、決してハッピーエンドでなく、従来の定石を踏んでいないに違いないと大よその予想がつく。彼はやはり本作においても、他の作品同様に独自の個性的手法を駆使していた。
 それは一つは、長いお笑い芸人時代に培われた独特の「間のセンス」の活用、あるいは俳優陣の極めて抑制された演技、時たま聴こえる静かなBGM、そして、「北野ブルー」と呼ばれて有名になった、全体に薄暗い映像のことである。こうした「北野節」によって、全く過去にはなかったような斬新な青春映画が完成した。
 「青春」と言われて想像する色彩はきっと多くの人は、情熱とエネルギーを連想させる「赤」だと思う。だが、本作の場合、「陰鬱」を想起させる「ブルー」が物語を染め上げている。
 若いにもかかわらず、何の目標も打ち込むものも見つけられず、ただダラダラと毎日を過ごすだけの主人公達。そんな彼らにもたらされるほんの一瞬の栄光と悲劇。そこには、太陽がまぶしく照らす「青春」などどこにも無かった。
 「映し出される校庭が、いつでも無人である」という演出がこうした本作の世界観を象徴している。
 そして、カメラが捉える空がいつでも真っ青に澄んでいたことも、極めて印象的であった。「北野の空はいつも青い」、これもまた、彼の映像の特徴である。
 本作は、主人公2人が誰もいない校庭で、自転車で二人乗りしながら、「俺ら終わっちゃったのかな?」、「バカ野郎!始まっちゃいねえよ」と言葉を交わすシーンで幕を閉じる。それは、降り懸かった苦い挫折を、彼ら自身が力強く乗り越えて未来へと歩みだそうとしていることを示唆していた。
二人の頭上に広がる雲ひとつ無い青空には、夢のかけらが星になって輝いていたように見えた。了

2008年1月13日日曜日

U・ボート(ウォルフガング・ペーターゼン監督1981)80点


  映画界には様々なジンクスがある。いわく「パート2は駄作になる」、「スティーブン・キング原作の作品は成功、失敗がはっきり分かれる」、「法廷映画はアメリカでは手堅くヒットする」等等。
 その中の一つに「潜水艦モノは外れない」というものがある。『レッドオクトーバーを追え』[1]、『クリムゾンダイド』[2]や本作等、傑作ばかりが生まれるようだ。先日日本でも人間魚雷「回天」をテーマとした『出口のない海』[3]が公開され、高い評価を受けたところだ。
 潜水艦作品において、物語を貫くのは「深海の中を走る密室の緊迫感」である。本作では特に、視覚ではなく我々の聴覚に極限状況を体験させたのだった。「耐圧深度ギリギリまで潜った際に艦体がきしむ音」、「敵艦を探知した時のソナーの音」、「魚雷が海中を進む音」等、暗い海の底で展開される出来事を様々なサウンドによって見事に描写している。
 また、敵艦から攻撃を受けた際の船内の混乱と恐怖も、狭い艦内を引きつった表情で駆け回る、船員達の緊張感溢れる様子から余すところ無くこちらに伝わってきた。
 「本当は一刻も早く誰もが地上に戻りたいのだ」、このように自分は強く察した。大海原をたった一隻で、死と隣り合わせで進んでいくことの耐え難い心細さ、孤独、悲愴…
 しかし、主人公達の潜水艦はそうした感情を抱えながらも勇猛に敵の駆逐艦を次々と撃沈させていく。その姿はさながら「海のスナイパー」であった。
終盤、任務を果たして無事に戦艦は母港に戻ることができた。だが、一同がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、突如空爆に襲われ、艦長は負傷し、戦艦は破壊されて海の藻くずと消えていった。
「海軍が陸で死ぬ」、皮肉な結末は「戦争は死に場所など選ばせてくれない」という無情な真実を、否応にも我々の眼前に見せつけたのだった。了
[1]ジョン・マクティアナン監督 『レッド・オクトーバーを追え!』1990
[2] トニー・スコット監督『クリムゾン・タイド』1995
[3] 佐々部清監督『出口のない海』2006

2008年1月10日木曜日

ロボコップ(ポール・バーホベン監督1987)95点 


成人した現在見ても、十分鑑賞に堪え得る作品だ。味わいが深くなったようにも思う。
「凶悪犯罪者集団によって惨殺された警官がロボとなって蘇り悪に立ち向う」という筋立ては、一見日曜日の朝に放送している『ジバン』[1]等のヒーローものを思い浮かべる。しかし、かつてファンタジー・サイコスリラーの傑作に贈られるアボリアッツ映画祭賞を受賞したバーホーベン監督の手にかかれば一癖も二癖もある作品へと仕上がるのだ。最近でも『スターシップトルーパーズ』[2]や『インビジブル』[3]など、SFアクションや透明人間など、子供が好きそうな題材を映画化している。
だが、この監督は、ココアのメーカーと同じ名前をしているのに実は「子供に見せたらいけない」PG12作品の名手なのだ。ふたを開ければ、血みどころの残虐描写が次から次へと展開される。彼はつくづくスプラッターが大好きのようだ。どの作品も、ストーリーとはほとんど無関係な、「暴力のための暴力」といえるシーンが多々見受けられる。
たとえば本作においては「マーフィー警官の惨殺」、「戦闘ロボED209による丸腰の人間の虐殺」、「毒液でどろどろに溶けた敵を車で跳ね飛ばす」等のシーンである。生理的嫌悪感を催すこうした映像は『悪魔のいけにえ』[4]を連想した。「観客を不快にさせる」ことを両作は共通して重視する。
その他に本作で印象に残るのは所々で流れるTVニュースとCMだ。解雇に反対するストライキやデモの報道、防犯グッズの宣伝など、現実の世相を反映するようなものばかりだった。
そして、この映画を単なる低予算B級バイオレンス作にとどめないのは、よく練られた舞台設定によるだろう。
近未来のデトロイトは、警察も市役所も全て、街全体がオムニ社という巨大企業の傘下となっていた。治安維持まで同社はビジネスとして請け負い、そのために強力なパワーを持った警官を作ろうとロボコップ計画を進めていたのである。この実験に、殺された主人公が選ばれた。
営利を第一とする企業の性格上、犯罪行為をしようとも同社重役に対してはロボコップは実力行使することが許されていなかった。また、出世競争に勝つため、彼を開発したグループとは別の派閥も「ED209」という犯罪取締り用武装ロボを製造していた。終盤、重役の不正を知り摘発に乗り出したロボコップの前には、このロボが立ちはだかる。
荒唐無稽に感じられるストーリーかもしれない。だが、実際現在のアメリカでは刑務所を民営化し企業が運営したり、イラク戦争においても民間軍事会社が米軍と協力して戦っている。高級住宅街も、そこの金持ちに雇われた警備会社のガードマンが常に厳重なパトロールを行っている。従って決して、「来るはずのない未来」の話とは言えないのだ。
このように、「企業に侵食される社会」というアメリカの深刻な問題をこの映画は「近未来のロボット警官」を用いて寓話仕立てで告発しているようにも見える。
SF+スプラッター+社会派、この監督はやはり一筋縄ではいかず、目が離せない。了
[1] 八手三郎原作『機動刑事ジバン』1989~1990テレビ朝日系列
[2] ポール・バーホーベン監督『スターシップトゥルーパーズ』1997
[3]同『インビジブル』2000
[4] トビー・フーパー監督『悪魔のいけにえ』1974

ハロウィン(ジョン・カーペンター監督1978)90点


ハロウィンの晩、男友達と戯れていた姉を刺し殺した少年マイケル・マイヤーズは精神病院に収容された。しかし、数年後のハロウィンの日に脱走を果たして再び街へ帰ってきたのだった。こうして惨劇の夜の幕が開いた。
 『13日の金曜日』[1]や本作を見て気づいたのだが、なぜかアメリカのホラー映画では犠牲になるのが10代の若者ばかりである。また、殺される若者達は皆、やかましく騒ぎ、マリファナをやり、頭にあるのはセックスのことばかりというステレオタイプなイメージが定着している。主人公もティーンズのケースが多い。
 日本ではよく老人が、悪さをさせないために子供たちへ怪談や昔話を話す。ハリウッドのホラー映画がティーンズを中心にすえるのは、これと同じ理由な気がする。血気盛んな若者達へ「メメント・モリ」というメッセージを送っているのではないか。
 本作は、若いヒロインの凄まじい絶叫によって、身震いするような恐怖を観る者に体感させる。また、BGMも優れていて、一度聞いたら耳に焼き付いてしまう。このテーマは「HALLOWEEN THE ME」と呼ばれる、ジョン・カーペンター監督自身による曲だ。
 映像面では、「闇夜に浮び上がる白い家と白いマスク」のシーンは白と黒のコントラストを見事に用いて、異様な不気味さを放っている。あるいは、「振向いた時、後ろに立っている」という「背後の恐怖」も、ホラー映画の定石だが、非常に巧みに表現している。
 流血シーンや襲われる人数に関しては、『13日の金曜日』等に比べればずっと少ない。しかし、作品を終始貫く緊迫感では全く他の作品に引けを取らない。本作は紛れも無い、ホラー映画の「古典」であるといえる。了
[1] ショーン・S・カニンガム監督『13日の金曜日』1980

2008年1月9日水曜日

トレスパス(ウォルター・ヒル監督1992)85点


  消防士の二人が火事の現場から偶然、宝の地図を入手する。そして、この地図に従って廃墟の工場で金塊探しを始めたら不運にもギャングの殺人を目撃してしまい、彼らと命がけの対決をする羽目になる。これが本作の粗筋だ。
 ギャングVS一般人、という図式はとても惹き付けるものがある。例えば『ジャッジメントナイト』[1]に自分はとても興奮した。
 なぜこうしたストーリーが盛り上がるのかといえば、「逃げるために仕方なく戦う」という逆説的で現実的な状況がそこに広がるからだろう。
 本作の主人公もギャングから逃げ切りながら、ついでに金塊も手に入れようと必死であがく。命の危険に晒されながらも欲深さを捨てきれない彼の姿は、滑稽だが応援したくなってしまう。
 演出面において感心したのが、ギャングの一人がビデオをいつも手に持って終始辺りを撮影している、という形で、しばしば映像がモノクロのVTRに変わり、小刻みに動く点だ。「ハンドカメラ」というテクニックが効果的に使われた作品としては、古くは『仁義なき戦い』[2]、現在なら『プライベートライアン』[3]、『ブレアウィッチプロジェクト』[4]が挙げられる。
 もちろん、これら傑作と同列には論じられないが本作の場合、この技法によって臨場感やスピード感を高めることに成功している。それに、カメラに向かってビシッとキメた黒人が早口でまくし立てるのは、スタイリッシュなラッパーのPVのようで非常に格好良かった。この作品は、主演の二人の白人よりも敵役の黒人達の方が存在感があり、魅力的だった。主役が脇役に食われていたようだ。
 最後にはギャングは仲間割れを起こして自滅し、主人公の一人も非業の死を遂げる。生き残ったもう一人は、ほうほうの体で逃げ出した。結局、老人だけが漁夫の利を得て金塊をまるまる独り占めにしたのだった。
 このような、ひねったシニカルなラストはハリウッドのB級アクションらしくないように感じる。この作品が気に入った人には船戸与一の『夜のオデッセイア』[5]がお勧めだ。了
[1] スティーブン・ホプキンス監督『ジャッジメントナイト』1993
[2] 深作欣二監督『仁義なき戦い』1973
[3] スティーブン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』1998
[4]エドゥアルド・サンチェス、ダニエル・マイリック監督『ブレアウィッチプロジェクト』 1999
[5] 船戸与一『夜のオデッセイア』徳間書店1985

2008年1月8日火曜日

ゼイリブ(ジョン・カーペンター監督1988)90点


この作品はやはり大好きである。年を隔てて何回見ても新たな面白さを発見できる。
そもそも作品に対する自分の「評価・感想」というものはその時々の心理状態、境遇によって変化するものだ。例えば幼い頃は夢中で読んだのに今になって読み返してみたら良さが理解できない漫画も多々ある。あるいは子供のときに見ても退屈でしかなかったのに、大人になって見てみたら感動する映画も数多い。こうした変化を哲学者ハイデガーは「時熟」と名づけている。[1]
B級SFの王道を行く本作だが、秀逸なアイデアを採用して物語のテンションを大いに盛り上げている。それは「異星人判別サングラス」だ。主人公が偶然手に入れたこのサングラスをかけた途端、周囲の光景は一変する。
そこにはモノトーンの世界が広がり、人間に成りすました醜い顔の宇宙人を見破れる。また、店の看板や本、雑誌などに彼らが隠したメッセージも読み取れるのだ。こんな命令が執拗に発せられている。「買え」、「産め・増やせ」、「考えるな」、「黙れ」、「従え」etc
主人公はこの秘密道具によって、「この星は宇宙人に侵略されていた」という驚愕の真実を知ってしまったのである。彼らは人間そっくりの姿にカムフラージュし、警察・メディアなど国家の中枢部に食い込んでいた。そして、人間達を自分たちの奴隷として働かせようと画策していた。
「人と見分けのつかない異星人」という恐怖を描く点は名作コミック『寄生獣』[2]に通じる。だが、そうした発想を漫画ではなく大規模に実写で表現するのがハリウッドならではだ。
また、ある社会学者は「アメリカ人は実は“外”の脅威より“内側に潜む”脅威への不安の方が強く、国家的な潔癖症である」と以前述べていた。確かにかの国の歴史を見れば、魔女狩りから赤狩り、そして現在の中東系移民への不当弾圧などその証左にいとまがない。
したがって、この映画は社会風刺の側面も感じられる。前述した「買え」、「産め・増やせ」などのサブリミナル広告も、現代の資本主義経済では実際に存在しそうに思える。このように「エンタテイメント」へ「社会性」をバランス織り交ぜるのもハリウッドの特徴だろう。
主人公はついに単身で彼らに立ち向う決意をする。しかし、警察も軍隊も彼らの一味と化している今、勝ち目はほとんどなかった。そこで親友に「真実」を伝え仲間にしようとするが彼は「厄介ごとには関わりたくない」と頑なに協力を拒んだ。しまいには二人は殴り合いを始め、ようやく彼は説得を受け入れる。だが、ゲリラのアジトに行けばすぐ警察に強襲されて多くの同士が殺される。内通者がいたためだ。
このあたりの人間ドラマも巧みである。「権力」に向き合った時の各人の対し方がリアルに描かれている。媚びへつらう者、怯えて縮こまる者、逡巡する者、毅然と立ち向う者…
最後に彼ら二人はどうにか「大衆洗脳」の本拠地であるTV局に乗り込み、機動隊と銃撃戦を繰り広げながらアンテナを目指す。
傷だらけになりながらもようやく屋上にたどり着き、そして宇宙人を人間の姿にカモフラージュする電波を流すアンテナに向けて発砲する。すると見事にこの装置は破壊され、宇宙人の正体が全世界の人々に明らかにされた。だが主人公たちは既にこの瞬間、全身を撃たれて息絶えていた。もの悲しいハッピーエンドでこの作品は幕を閉じる。
見終わった後ふと思った。現実に目を向ければ、庶民を奴隷のように見なして、騙し、働きづめにし、上前を平気ではねる政治家・企業経営者たちのなんと多いことかと。
まるでどこかの映画に出てきた宇宙人そっくりだ。このように見ても本作は、制作費はB級でも内容は奥が深く、第1級だと言える。了
[1] ハイデガー『存在と時間』ちくま学芸文庫1996参照
[2] 岩明均『寄生獣』講談社1990~1995

2008年1月7日月曜日

アイ・アム・レジェンド(フランシス・ローレンス監督2007)90点


摩天楼が天高くそびえるニューヨーク。日本のテレビでもお馴染みの光景である。あの9・11のテロの傷もようやく克服し、今再び世界経済の中心地へ返り咲いている。
そのはずなのに、なにかが違う。どこかが変だ。澄んだ青空が広がる昼間にもかかわらず、ビジネスマンがコーヒー片手に闊歩する喧騒も、ホットドックの屋台も、黄色のタクシーもマウンテンバイクで駆け抜けるメッセンジャーの姿も、どこにも無いのである。
NYは完全な無人地帯へ変貌を遂げていた。まるでチェルノブイリ原発事故によって住民たちが強制避難させられ、ゴーストタウンと化したウクライナの都市のようであった。
一体、何が起きたというのか。静寂の中を主人公と犬が乗ったスポーツカーが爆音を上げて駆け抜けていく。突如現れた鹿の群れを彼は猟銃を手に追いかける。だが、狙いを定めているところに次にはライオンの親子が出てきて獲物を横取りしていった。
夜になると主人公は自宅の玄関から裏口まで厳重に施錠を行う。窓にも鉄製の雨戸を下ろす。そして明かりも全て消して、ライフルを握ったまま愛犬とバスタブの中で眠りにつく。外からは獣のような獰猛な雄叫びが一晩中聞こえてくるのだった。
狩り以外に主人公は昼間、誰もいないビデオレンタル店でDVDを借りたり、NY港に停泊した戦艦の上でゴルフの練習をしたりと一見自由気ままに生活している。だが自宅の地下室では白衣に着替え、マウスを使った得体の知れないワクチンの研究を続けている。
本作冒頭で描かれるこのような主人公の現在の暮らしぶりは大変興味深く、観客を飽きさせない。「つかみ」は非常にうまかった。
そしてNYと主人公の謎は、物語が進むに連れて展開される彼の回想シーンで次第に明らかとなっていく。
彼は以前、軍に所属する科学者だった。またその頃巷では「ガンを撲滅するワクチンが開発された」という画期的なニュースが連日流れていた。しかし、数年後NYは突如警察と軍によって封鎖され、あるウイルスに感染していない住民だけが避難を許されたのだった。主人公も家族を軍用ヘリに乗せて急いで逃した。
転じて現在のNY。主人公が狩りの最中、廃墟のビルに入った愛犬を探しに行くと、闇の中からゾンビのような化け物が彼に襲い掛かってきた。こうして物語の「謎」の一端が遂に露わになる。ガン撲滅ワクチンは、凶暴なウイルスに変異して多くの人類の命を奪い、あるいはゾンビ化させて世界を滅ぼしたのである。特殊な免疫を持ち感染を免れた主人公は人類を救うために、たった一人大都会でサバイバル生活をしながらワクチンの研究に奔走していたのだということが判明する。
しかし、本作では「ナイトウォーカー」と呼ばれるゾンビが登場して以降、緊張感あるサスペンス風の雰囲気は一変、「バイオハザード」と似た激しいホラーアクションとなる。
毎度お馴染みのハリウッド製銃撃戦・乱闘映像はやや食傷気味に感じて興ざめだった。
しかし、『アルマゲドン』の主人公のように自己を犠牲にして最後に人類を救う展開はやはり感動的だった。なにより、毎夜飢えたゾンビが徘徊する街で諦めずにウイルスを無効化するワクチンの製造に日々明け暮れる姿は、「明日世界が滅ぶとしても私はリンゴの種をまくだろう」というルターの言葉を連想させ、昨今冷笑されてばかりの「努力と希望」の大切さを私たちに感じさせた。実際に大規模な人払いをして撮影した「誰もいないNY」の圧巻の映像だけでも本作には一見の価値があるだろう。了

狼たちの午後(シドニー・ルメット監督1975)85点


  「銀行強盗」、「立てこもり」というのは映画の世界では定番中の定番だ。数々の西部劇やギャング映画での銀行襲撃シーン、『交渉人』[1]や『ジョンQ最後の戦い』[2]等の籠城モノの名作がすぐに思い浮かぶ。
 古くは強盗カップル・ボニー&クライドを描いた名作『俺たちに明日はない』が挙げられる。この種の作品は大半が周知のようにアメリカ発なのだが実は日本にも『遊びの時間は終わらない』[3]という隠れた名作が存在する。
 本作は「立てこもった銀行強盗」をテーマにした、実話に基づいた作品だ。ところで昨今「実話」ものと言えば『ファーゴ』[4]や『スリーパーズ』[5]など「現実離れ」した物語ばかりに思う。「ご都合主義」も「奇跡」も「偶然」も、「事実」の名の下に濫用しすぎなのだ。「実話作の方がフィクションに見える」、逆説的な作風が流行になりつつあるように見える。
 しかし、アメリカンニューシネマ黎明期の1970年代に作られた本作は、最近のこうした過剰な脚色とは無縁で、BGMや派手な演出は極力使用せず、抑制した色調でドキュメンタリータッチで全編を描いている。
 「愛着がわく犯人」という役をアル・パチーノが見事に演じる。本策の撮影のほとんどは俳優のアドリブで進められたという。彼が警官と狙撃兵に包囲されている表口に出てきて、怒り狂って警察批判をしてギャラリーの喝采を浴びる場面は、極めて痛快で鮮烈な印象を自分に与えた。
こうした「銀行強盗プラス立てこもり」という舞台設定が大変面白く感じられるのは、そこに「支配者対被支配者」、「集団対個人」、「公対私」などの普遍的対立構図が如実に表れているからだろう。また、「要求・取引」などの知的な駆け引きもあり、さらに話を盛り上げていく。あるいは「勝ち目のない戦い」であるという高い悲劇性は、見る者のカタルシスを強く誘う。
 この作品も実際の事件の多分に漏れず、犯人側の破滅に終わった。彼らは警察との交渉の末、空港へと逃げたものの飛行機まで後一歩のところで相棒は射殺され、主人公も捕まってしまう。そして、その後懲役20年の判決を下される。
 どこか間抜けで憎めない犯人達にすっかり肩入れしていた自分にとって、この無惨なラストシーンはひどく胸を締め付けたのだった。
 誰一人傷付けず、殺すこともしなかった彼らへ権力から向けられた容赦のない銃弾と処罰。ここには、犯人と人質たちの間に生まれた交感や共感のごとき人間くさい何かは一切ない。ただ、無機質でシステマチックな判断だけがあった。
 私たちが生きる現代、「国家」と「国民」の関係は主人公達が襲撃したマンハッタン銀行の大理石の床よりも遥かに冷たくなっているのかもしれない。了
[1] F・ゲイリー・グレイ監督『交渉人』1998
[2] ニック・カサヴェテス監督『ジョンQ最後の決断』2002
[3]萩庭貞明監督『遊びの時間は終わらない』1991
[4] ジョエル・コーエン監督『ファーゴ』1996
[5] バリー・レヴィンソン監督『スリーパーズ』1996

2008年1月5日土曜日

愚か者の伝説―大仁田厚という男(高山文彦著 講談社2000)85点


 自分がこの“カリスマ”へ初めて強い関心を持ったのは、1999年1月4日東京ドームでの新日本プロレス興業における佐々木健介との一戦をテレビで見た時である。
 この戦いは今でも語り草となるほど衝撃的なものだった。くわえ煙草でパイプ椅子を片手に入場する大仁田。数万の観客達はよそ者の彼に向かって一斉に「帰れコール」を浴びせる。リングの上には彼を鬼の形相でにらみつける佐々木健介。それでも動じない大仁田は健介の前におもむくといきなりパイプ椅子を彼の頭上へ思いっきり振り下ろした。だが、まるで不動明王のように彼は全く動じず泰然と立ち続ける。この光景が彼ら2人の実力の差を全て物語っていた。
 結末はゴングが鳴る前から既に誰もが分かっていたのである。マットで繰り広げられたのは「試合」というより「公開処刑」に近かった。健介が圧倒的なパワーで大仁田に襲い掛かる。ラリアットを喰らって血反吐を吹く大仁田。だが、最後に大仁田は火炎攻撃という反則技を繰り出し、健介を悶絶させる。そしてマイクを取って新日本プロレスを罵倒しまくりながら花道を去っていった。その背中は惨めな負け犬でしかないが、孤高な男気もまた、見る者に感じさせた。
 爾来、自分は「大仁田」という人物に夢中になり、テレビ朝日で毎週土曜深夜「ワールドプロレスリング」を必ず見るようになった。
 健介との一戦以来同番組では毎回、新日本の選手ではないにもかかわらず大仁田を取り上げ始めていた。そして彼の取材を担当したのが真鍋由アナウンサーだった。自身の生き様を「邪道」と卑下しつつ夢を語る大仁田に、時には理不尽にビンタされながらも真鍋アナは密着インタビューを続けた。二人の掛け合いは絶妙で後に多くの人に知られるところとなった。
 そして大仁田はこの番組を利用して、今度は蝶野選手と戦おうと画策する。彼は全国放送で多くのファンを巻き込んで煽りに煽って、遂に蝶野との決戦を実現させてしまった。
 運命の日は4月7日に決まった。その日が近づくにつれ、彼は話題を次から次へと振りまいた。「すいか爆破実験」、「定時制高校入学」、「蝶野襲撃事件」等等…
 もはや、新日本プロレスは部外者大仁田を中心に回っていたのである。皮肉にも大仁田の参戦によってテレビの視聴率も上がり、観客動員も増えた。
 ついに多くのプロレスファンが待ちに待った4・7が来た。いざ蓋を開けてみると驚くような意外な決着がついてしまった。
 「両者(プラス海野レフリー)爆死、ダブルKO」
 「邪の華」対「悪の華」と形容された両スターの世紀の一戦はどちらもそのブランドに傷をつけない痛み分けに終わったのである。それはいかにも「プロレスならでは」の光景だった。
 しばしば「プロレス」は「やらせだ!」という非難がつきまとう。だが、それは間違っている。たとえ百歩譲ってそうだとしても、いずれにしろあのような人智を超えたバトルは普通の身体、精神の持ち主では絶対に真似できない代物である。したがって、それは金を払って見る価値が十二分にあるだろう。
 前述した大仁田の話題づくりのように、プロレスというのは野球やボクシングと異なり、戦いそれだけでなく、そこに至るまでのレスラー同士の確執、愛憎、派閥抗争、世代闘争など様々に仕掛けられた伏線の中に「人間ドラマ」が存在する。単純に試合の勝ち負けだけに注目すべきスポーツではないのだ。その点を踏まえた上で改めてプロレスというものを見つめればきっと食わず嫌いの人々もファンになることだろう。
 そんなドラマの一つ「大仁田劇場」はとどまるところを知らなかった。その後蝶野と彼はなんと手を組む。そして次には武藤選手をそそのかす。そして「グレートニタ」を復活させる。ついに8月には「ニタ対ムタ」のマッチメイクが実現する運びとなった。
 だがこの戦いの後、大仁田は新日本側に「封印」されてしまう。「毒」に喩えられる彼をこれ以上使うのは「正統派プロレス」を自負する同団体には危険すぎると判断されたようだ。しかし、それでも彼はあきらめず、今度は長州力に挑戦状を叩きつけたのだった。
 本書はこのような「大仁田厚」という暑苦しくて、アクの強い男の半生をシャープに端的に描いた作品である。
 ページを開いていくごとに彼のつくづく反乱万丈な人生が臨場感をもって頭に浮かんでくる。本文中で紹介される、彼が小学生時代に書いたという「人道」という詩はそんな自身の将来を見越したような感動的な作品で、いつまでも記憶に残った。
 レスラーを志して上京し、ジャイアント馬場の付き人を経て全日本プロレスの選手となったものの膝の故障で選手生命を絶たれた悲運の下積み時代。その後、コーチ、タレント、事業経営者などを転々とするがうまくいかず、自身でプロレス団体『FMW』を旗揚げして再起を賭ける。話題を集めるために普通の試合ではなく「有刺鉄線電流爆破デスマッチ」という斬新な演出を取り入れたことで、一躍彼はスターダムに躍り出た。
 『FMW』は大仁田の人生そのものであった。マットの上で「俺は弱い、無様だ」と泣き叫び、のた打ち回る。あるいは額や肩からおびただしい血を流しながら一心不乱に相手に向かっていく。自身の生き様全てを彼はリングでファンにさらけ出したのだ。
 こうした時代遅れの泥臭くて汗臭い大仁田という男のファイトスタイルは何かを求める若者たちの心をわしづかみにすることに成功した。興行を重ねるうち、いつの間にか彼は「若者のカリスマ」と呼ばれるようになる。
 やがて彼は引退を表明するが、またすぐに復帰を果たす。数回の引退・復帰を繰り返した後、FMWを出て冒頭に述べたようにメジャー団体・新日本プロレスに参戦していった。
 「若者のカリスマ」と言えば、大仁田がブレイクしているのと同時期、「尾崎豊」という早熟の才能が日本中の青年を熱狂させていたことが想起される。だが、二人の大きな違いは尾崎は栄光と喝采のなかで惜しまれながら夭折したが、大仁田は栄光が挫折に変わり、声援がブーイングに変わってもいまだマットに上がり続けていることである。
 自分はこうした「殺しても死なない」不様で不細工な彼の体当たりの生き方に人生というものを深く考えさせられた。だから彼を敬愛してもいた。
 しかし、悲しいことに大仁田は晩節をひどく汚してしまう。「アウトロー」のはずが2001年、自民党から参議院選に出馬し「タレント議員」として薄っぺらな言動を繰り返した挙句、昨年2006年、自身が引き起こした破廉恥事件が週刊誌に報道されたのをきっかけに政界を引退した。かつての輝いた大仁田厚の姿は見る影もなかった。
 この本は2000年までの大仁田の半生を収めたドキュメンタリーである。奇しくもこの年を境に彼は前述したように没落の一途を辿っていった。だからもう続編が出ることもないだろう。「大仁田厚」の輝きは、今はもうこの本の中にしかないのである。了

2008年1月4日金曜日

蜘蛛女(ピーター・メダック監督1994)85点


  うだつの上がらない一刑事が悪女にそそのかされて自滅への道をひた走る作品である。全体に漂うどうしようもない気だるい雰囲気、主人公を惑わす妖艶な女、砂漠から始まる映像。それは『ホットスポット』をほうふつとさせる。だが、俗悪な模倣作というわけではなく、あえて言うならば「都会版」のリメイク作のように見える。
「回想」という手法によるストーリーテリングは見る側に冷静さとアンニュイさを与えていく。主人公の生き様を突き放して見つめることができる。もともと感情移入しにくい人物のため、こうした手法は功を奏している。
また、主人公がたびたび口にする、人生を達観したようなニヒルなセリフも冴える。
彼曰く「25セントを電話に入れるだけで5万ドルが出てくるトリック」、「愛は支配されるだけ、支配できないから厄介なんだ」
自身が汚職に走る心境や人生経験から学んだことをさらりと吐露するのだ。
他の登場人物もキャラが立っていて作品を盛り上げている。主人公と好対照にとてもパワフルな女殺し屋。彼はこの女を手玉にとっているつもりなのだが、実は逆なのだった。見ている側、特に男性ならばすっかり主人公と同じく「女を利用する男」という構図を物語の終盤まで思い浮かべていくに違いない。しかし、この作品はそこを鋭く突いてどんでん返しを用意していたのだ。
本当にしたたかだったのは、主人公を魅了した女殺し屋の方である。彼女の行動は型破りで主人公は翻弄されるだけだった。自分の命を狙うマフィアのボスを殺しただけでなく、自分の死を偽造するために左の腕を切り落とすことまで躊躇しない。彼女の狂気をはらんだ生命力の前には、寂びれた刑事など相手にならなかった。
この映画の成功はひとえにヒラリー・ヘンキンの優れた脚本によるといえる。刑事と殺し屋役のゲイリー・オールドマン、レナ・オリンの熱演も、それによって花開くことができたのだ。
また、「女性の強さ・怖さ」を前面に描き出す本作はさながら「フェミニズム・ノワール」とでも呼称できる新たなジャンルのパイオニアとも位置づけられよう。了

ファングルフ(アンソニー・ウォラー監督1997)75点


 本作はカルト的人気を誇る『狼男アメリカン』の続編だ。この監督はデビュー作『ミュート・ウィットネス』[1]が出色の出来で、一躍注目されたクリエイターである。自分もこの作品を見たが非常に良く練られた脚本と凝った演出で、本当に面白かった。
 そのため、彼の新作を待望していたのだが、ふたを開けてみると残念だが「駄作」の評価に尽きる。
 そもそもなぜ今になって「狼人間」を題材にしたのか疑問だ。処女作で見せた彼の才気をさらに発揮できるテーマは他にいくらでもあったに違いない。人を喰って生きる狼女と彼女を愛してしまった男。そして狼への変身を食い止める血清の存在。このシナリオはバンパイアものとそっくりであり、何の新鮮味もない。
 映像に関しても、狼への変身とその後の姿を表現するCGもどこか不自然で迫力がない。また、鏡を見直したらそこに幽霊がいる、などという画はもはや余りにベタ過ぎる。
 他にも幽霊が主人公の手助けをするという構図も『ペットセメタリー』[2]の模倣にしか見えなかった。クライマックスも、盛り上げるつもりがただのテンポが悪いドタバタ劇に終始していた。唯一の救いを挙げるとすれば、ハッピーエンドで物語が終わったことである。
 それにしても本当になぜあの監督がこんな作品を撮ってしまったのか鑑賞後不思議でならなかった。残念ながらこの後も彼は作品に恵まれず、処女作では「ヒッチコックの再来」とさえ賞賛の声が上がっていたのに現在では既に「過去の人」になりつつある。映画の世界もやはりショービス界の一つなのでかなり水物なのだろう。「時の運」や「人の縁」という不確実な要素に大きく左右され、たとえ才能があろうと、花開く前に散ってしまう者も数え切れないほどいる。だが、パリからハリウッドに進出したものの『エイリアン4』を造って酷評されたジャン=ピエール・ジュネ監督が再びフランスで『アメリ』を撮って見事に復活したようにウォラー監督にも、あきらめずにもう一度華々しい活躍をしてくれることを自分は期待したい。そう言いたくなるほどデビュー作は傑作だったのだから。了
[1] アンソニー・ウォラー監督『ミュート・ウィットネス』1995
[2]メアリー・ランバート監督『ペットセメタリー』1989

ホット・スポット(デニス・ホッパー監督1990)95点


 砂漠に囲まれた小さな街に流れてきた1人のダンディーな男。彼はそこで車のセールスの仕事に就き、美しい若い娘と出会う。彼は端正なルックスだけでなく、謎めいたキャラクターを持ち、たちまち彼女だけでなく、社長の妻まで惹きつけていくようになる。
 この「妻」というのがまだ30代の若さでこちらもとても美しい。そして主人公は彼女達と二股状態になってしまい、それを知った人妻はどうにか彼を自分のものにしようと画策する。
娘にゴロツキからゆすられているのを打ち明けられた主人公はそいつを殴り倒すのだが、密かに計画・実行した銀行強盗の件をなぜか知られていて、逆に脅される。そいつは娘だけでなく自分にまで付け込んできたので結局撃ち殺してしまったのだった。
そして娘と二人でカリフォルニアへ逃げようとするが執念深い人妻は、社長を殺して二人を呼び出して、彼を脅して娘から略奪する。こうして、彼女からすれば最高に幸せな結末を迎えてこの物語は幕を閉じる。
 自分はこの作品を民放で見たのだが、そのため最も印象的だったのは「吹き替え」である。いつもは自分も多くの人と同じように「字幕派」なのだが、今回ばかりは吹き替えで見る方を絶対にお勧めする。
 なぜなら、後日改めて本作品の字幕版をビデオレンタル店で借りて鑑賞したのだが、全く雰囲気が違っていたからだ。吹き替え版の方が遥かに扇情的でセクシーでスタイリッシュな作品に仕上がっていた。
 字幕版だと俳優たちの地の声を聞けるが、断然声優の方が妖艶で魅力的だったのである。主役の男の低い声、娘の若々しい声、人妻の色気の溢れる声、そしてそれぞれの喋り方まで、声優たちは見事な演技を披瀝している。
 確かに声優と俳優では大きな違いが存在するわけであり比較するのは誤りかもしれない。声優は「声だけ」の芝居なのでどうしても全てを声で表現しようとするため、誇張したり派手に演じる傾向は否めない。仕草やたたずまいなど非言語的演技もできない。
 映画ファンが吹き替えに批判的なのもこの点にあるはずだ。特にアニメの盛んな我が国では、ルパンとダーティーハリーを担当する声優が同じであるようにアニメの声優が映画の吹き替えも掛け持ちしている。
 だから「そんなに分かりやすくハキハキと喋らないぞこのスターは!」などと私たちは反発を覚えてしまう。
 ただ、本作のように登場するキャラの人物造形がわりと類型的な場合は、たとえ実写映画であろうと、声優によるややオーバーな演技が見事に噛み合って作品をさらに魅力的なものにするのである。
 「ダンディーな中年男」、「清楚で可憐な若い女」、「魔性の人妻」。いずれもとても分かりやすい。だから、ステレオタイプな声の演技でも見る側は違和感を抱きにくい。
 次に言及すべき本作の見どころは主演の二人の女の好対照を成す美貌である。娘を演じるジェニファー・コネリーの水着シーンは中でも本作の見せ場だ。豊かな胸と細く長い肢体が露わにされ、非の打ち所のない素晴らしいプロポーションを見せ付ける。
 一方、人妻役のバージニア・マドセンも全く引けを取らない。大きな美しい瞳にまばゆいブロンドヘア。真っ赤なルージュも白い肌によく映える。
 少女と熟女という二人の美女の中から主人公は少女を選択したのだった。だが、人妻は諦めない。老練な女ならではの周到な策を張り巡らしてついには主人公の略奪に成功した。
 どんな世界にも必ず若手とベテランの「世代闘争」が存在する。恋愛に関してもそれは変わらない。まるで雑誌『二キータ』[1]を地で行くような年上女の「小娘に勝つ!!」豊富なキャリアとテクニックを人妻は見せ付ける。残念ながらこの雑誌は今年3月号で休刊するらしいが。
 この映画はだから、『ニキータ』世代の女性からすればとても痛快で、エールを送られている作品に映るだろう。したがって、女性が見たなら男性とは別の面白さがあるのだ。
 人妻は「私は欲しいものは必ず手に入れてきたのよ」と主人公に向かって言い放つ。そこからは、砂漠の真ん中に住んでいようが若い美女が現れようが年増になろうが、臆することなく貪欲に生きようとする力強さ、ポジティブさを感じさせて止まない。
 映画はしばしば、ストーリーよりも役者自身の美しさにばかり注目してしまう場合がある。映画が役者に食われてしまうケースだ。だがこの作品は監督である鬼才デニス・ホッパーの手腕によって、役者の美貌自体を物語の側に完璧に組み込むことに成功している。脚本も二転三転し、最後まで飽きさせない。
 舞台設定も目の付け所が良い。「流れ者」とか「砂漠の中の街」などはアメリカならではだ。どこかからふらっと来た者が何かをしでかしてまたよそへと行く。広大な国土を持つかの国が得意とするストーリーだ。
 「プレイボーイの風来坊」とそれを愛した女たち。どこまでも自由で奔放な彼らの生き様に、小さな島国のとても狭い街に住む自分はつくづく憧れるのだった。了
[1] 『ニキータ』主婦と生活社2004/09創刊

2008年1月2日水曜日

スパルタカス(スタンリー・キューブリック監督1960)90点


  本作は紀元前古代ローマ帝国において後世に名を残す反乱を起こしたスパルタカスを描いた一大叙情詩である。
奴隷という最底辺の身分で生きることを強いられながら、彼は屈強な戦士であった。劣悪な環境に我慢できず、ついに彼は仲間と共に剣闘士養成所から脱走を果たし、討伐に来たローマ軍をたやすく粉砕する。そして次々と仲間を増やして大軍勢を築き上げ、ローマ帝国を震撼させるに至る。
この映画でも描かれるように、積年の恨みと怒りを爆発させた奴隷達の強さは尋常ではなく、イタリア各地でローマ軍を蹴散らして回った。しかし、ローマ帝国の威信をかけた巨大な軍団が最終的には送り込まれ、祖国に帰って自由を手に入れることなく彼らは殲滅されてしまった。
「自由」や「解放」の理念は圧倒的な現実の物量の前に無惨にも踏みにじられたのだ。
だが終盤での、捕虜となった奴隷達が皆「私がスパルタカスだ」と名乗り出て主人公の代わりに自身が磔にされようとする場面はあまりに感動的であった。奴隷にとって彼はまさに英雄であり、希望に他ならなかった。
世界史の教科書を開くと世界各地で様々な「反乱」と「革命」が繰り返されていることがよく分かる。前者と後者の違いは端的に言えば時の体制の側の「勝利」と「敗北」だ。スパルタカスの場合、結局鎮圧されたために「反乱」と名づけれ、歴史に伝えられている。しかし、この出来事は決して無意味なことではなかった。史実によればこの後、ローマは奴隷の待遇を改善したという。
また、約2000年の時を隔ててフランスでは人民の革命によって王政が打破され、「自由」が花開くことになった。こうして見ると、スパルタカスの遺志が長い長いバトンリレーで連綿と人々に受け継がれていたように思える。一人ひとりの人間がこの世界に存在する期間はわずか100年にも満たない。だが、その「精神」は他の人間の中でいつまでも生き続けることが出来る。そしてそれはやがて「自由の精神史」のような壮大なクロニクルを紡いでいく。自分はここに、どこまでも広がる果てしないロマンを感じてやまない。了

突撃(スタンリー・キューブリック監督1957)85点


  洋の東西を問わず、ゴミにも劣る愚かな上司というのはいつでも存在するようだ。現代の日本の企業でも自身のミスを全て部下のせいにして保身を図る者、パワハラに明け暮れる者などが後を絶たない。
 本作に出てくる、第一次大戦での仏軍将軍も己の出世欲しかもっていない無能な人物だった。彼は武勲を挙げて昇進することしか頭にないため、到底不可能な突撃作戦を兵士に強制する。そして、案の定膨大な死者を出してしまう。しかし彼は全く反省もせず、責任逃れに走り、命がけで戦った部下に「敵前逃亡」の冤罪を着せてスケープゴートにする。
 理不尽なことにその後の軍事裁判もずさんであり、兵士達の必死の弁明空しく非情にも「銃殺刑」の判決が下される。
 本作に登場する上官たちは、将軍以外も誰も皆ろくでもない奴らばかりなのである。己の保身と出世にしか関心がなく、現場の部下の命など何とも思っていない。
 また、忘れてはならないのはこの話は決して誇張でもフィクションでもないことだ。どこの国の戦場でもこうした不条理な部下の処遇は常に横行していた。第2次大戦下の日本においても「上官の命令は天皇陛下の命令のある」とされ、『私は貝になりたい』[1]のような悲劇が繰り返された。あるいは、本作の将軍の作戦より遥かに無謀で無意味な「インパール作戦」や「ノモンハン事件」を現場の声を無視して軍上層部は引き起こし、数え切れない兵士の屍の山を築き上げてしまった。また、武器・弾薬・食糧がつきようとも「死して虜囚の辱めを受けず」という軍令によって「投降」は厳禁されていたため、万歳突撃による不毛な玉砕が各地で行われた。戦死した兵士たちの死因も、戦地にいない上層部が補給を軽視していたために大半が餓死だったのである。[2]
 近代の我が国の戦史を紐解くと、このように本作の将軍など小さく見えてしまうほど、本当に無知で愚かで冷酷な上官が多かったことが痛感できる。
 戦後に入っても、軍部と結託して国民の生命・財産を奪い続けた官僚組織は解体されずに存続した。そして薬害エイズ・C型肝炎、年金問題、贈収賄、汚職と各種官庁がそれぞれ国民の生活を破壊し、納めた税金をよってたかって食い物にしている。
 先日大ヒットしたある映画は「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!!」[3]の決めセリフが広い共感を呼んだ。そのことが示唆するのはいかに現在の組織が「現場」というものを軽視あるいは無視して意思決定を行っているかという事実である。
 そうした最たる存在がいつでも「軍隊」なのだ。したがって、本作は実は『踊る大捜査線』のような、近代社会の組織制度のおかしさを告発したパロディ作品なのかもしれない。了
[1] 加藤哲太郎『私は貝になりたい』春秋社1995参照
[2] 藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店2001参照
[3] 本広克行監督『踊る大捜査線』1998公開

2008年1月1日火曜日

スクリーマーズ(クリスチャン・デュゲイ監督1996)80点


 凡作ではないが傑作でもない。これが素直な感想である。
 原作が名作『ブレードランナー』[1]のP・K・デリックと聞いて多少期待をしたのだが、鑑賞後やや不満が残った。
『ブレードランナー』では人間そっくりの「レプリンカント」と呼ばれる人造人間が登場し、我々に「人の自己同一性」という哲学的で深遠な問いを投げ掛けてきた。本作においても、人間と見分けがつかない「スクリーマーズ」という殺人機械が現れる。
「誰が味方で誰が敵か見分けがつかない」という恐怖は、『遊星からの物体X』[2]とも重なるが、本作の方が公開時期は後である。
1人また1人と「本物の人間」の側が「そっくりな機械」たちに殺されていくくだりはホラー映画にも勝る恐怖と緊迫感を覚えさせる。スリリングで緊張を保った演出は見事であった。
しかし、やはりわずか120分弱の映画ではSF小説の世界観を描ききるのはかなり難儀なのだろう、どうしてもよく理解出来なかったり、展開に無理を感じた箇所がいくつもあった。また、舞台が荒涼とした砂漠の広がる惑星であるためか、画面がどこかチープに見えてしまう。主人公達が使用する銃もレーザーではなく銃弾を発射するし、建造物のデザインもなにか古臭かった。それゆえ「本当に未来の話なのか」と疑問に思ってしまう。
したがって自分としてはもっともっとビジュアル面で細部にまで凝って欲しかった。そうした「こだわり」がこの作品にはなかったように見えた。脚本においても、終盤の「どんでん返し」は分かる人にはすぐ見抜ける展開だった。そしてヒロインが残す最期の言葉も『ブレードランナー』とほとんど同じであり、「二番煎じ」に感じられた。
けれどもやはり彼女のセリフは胸を打つ切なさがあった。この種のテーマは我が国ではアニメ『妖怪人間』[3]が著名だが、「限りなく人間に近いのだけれども人間ではない」という人造人間の悲しき運命は、時代や世代を超えて常に私たちに「貴方は誰ですか」という根源的な問いを尋ねて止まない。
「私が私であること」の自明性にもし疑問を覚え始めたなら、実は貴方はもしかして高性能の人型ロボットなのかもしれない。了
[1] リドリー・スコット監督『ブレードランナー』1982
[2] ジョン・カーペンター監督『遊星からの物体X』1982
[3] アサツー ディ・ケイ原作『妖怪人間』1968~1969フジテレビ系列放送 

太陽を盗んだ男(長谷川和彦監督1979)95点


はっきり言って面白かった。古い作品にもかかわらず昨今のハリウッドものにさえ引けを取らぬクオリティである。
まず特筆すべきはテンポの良さだ。冗長な演出を排して、細かなカット割りと盛り上げる音楽でフィルムを造り上げている。
なぜ主人公はプルトニウムを原子力施設から盗み出して原爆を造って国を脅迫したのか。その動機をこの映画は一切語らない。それは傑作脱獄劇『アルカトラズからの脱出』[1]と似る。「主人公の内省描写をほとんどしない」という手法は見る側へ主人公に対する好き嫌いの気持ちや過度な感情移入をしづらくさせ、主人公の「行動」のみに注目を集中させる。
次いで評価できるのは主人公の描き方だ。セクシーでたくましいイメージを持たせて、とても魅力的な人物に仕上げている。序盤の1人でトレーニングに耽るシーンは『タクシードライバー』[2]のデニーロを彷彿とさせる。あるいは単身でプルトニウム強奪に乗り込む場面は大藪春彦の小説に登場する主役を連想させる。
また、表の顔は平凡な理科教師である点も「単なる一市民が途方もない大事件を仕出かす」という大きな痛快感を私たちに与えてくれる。だが、彼の正体は「頭脳明晰、身体屈強」な完全無欠のクールな男なのだ。
本作は制作時期を鑑みると、ハードボイルド作家・大藪春彦の影響をかなり受けているように思う。敵役であるタフな刑事が終盤、逆探知で主人公の居場所を突き止め、彼を追い詰めていくところはスリリングであり、大藪小説の醍醐味を味わっているようだ。その後の彼らのカーチェイス、クライマックスでの決闘も大迫力であった。きっと当時の観客は拍手喝采を送ったことだろう。
大勢のエキストラ、市街地でのロケ、妖艶なヒロインの登場などハリウッド大作の技法を取り入れながら国会議事堂や皇居での撮影といった日本独自のテイストも欠かさず織り交ぜる。制作から20年以上経過した現在でもいまだ本作は色あせない。ただ、残念ながら公開当初は興行面では成功しなかったという。それは「ヒット作がすなわち傑作である」という図式が虚構であることを改めて私たちに知らしめている。了
[1] ドン・シーゲル監督『アルカトラズからの脱出』1979公開
[2]マーティン・スコセッシ監督 『タクシードライバー』1976公開