2007年12月15日土曜日

フェアリーテイル (チャールズ・スターリッジ監督)

今日こそは、と思い空を見上げてみる。また、今回も駄目だった。やはりUFOなんて見られる訳がなかった。『二十億光年の孤独』[1]を著した谷川俊太郎のように自分も同じ宇宙の彼方にきっと宇宙人がいるだろうと思って、幼い頃は夜空を見るたび想像を広げていた。でも結局一度として、何か不思議なものを見つけたことはなかった。宇宙人だけではなく、火の玉もお化けも妖怪もそうだった。だからこの悔しさからか、今でも非科学的な事象への興味は消えない。
だが本作の主人公の少女2人は、羨ましいことに何度も森の中で妖精に遭遇する。それはやがて周囲の大人たちやメディアを巻き込んだ一大騒動へとなっていく。
何度も何度も探しに行ったのに実在を信じていた妖精に一度も会えずにいた少女の母は感激の涙を流す。また、『シャーロック・ホームズ』で時の人だった作家コナン・ドイルも彼女達の元を訪れる。そして『「妖精は実在した!!」という本まで出してしまう。第一次世界大戦中の暗い世相で、英国の人々にとって「妖精事件」(1917年のコティングリー事件[2])はまさに天から降り注いだ一滴の「希望」だった。ユングもかつて「神話に象徴されるヌミヌス(神秘)なものは人生を豊かにする」と語った。[3]この事件に出てくる妖精たちもルーツはケルト神話にあるという。私たちは非合理的な想像に夢を大きく膨らますのだろう。
「2人の少女」という主人公は『乙女の祈り』[4]とも重なるが、こちらが「思春期の少女の純情がいかにして残酷さへと転化していくか」を描くならば、本作は「幼い少女の純真がいかに夢と希望を与えるか」を柔らかな筆致で描いている。風がそよぎ、川がせせらぐ美しい森の中で無邪気に少女が踊り、妖精たちが空を舞う。そんな情景は、見る者誰もの童心を蘇らせてくれる。
『星の王子様』[5]は、「本当に大切なものは目には見えないんだよ」と言うけれど、たまには見えることもあるのかもしれない。ただし無垢な心を持った子供にだけ。でも、日本ではこうした目撃事件を聞いたことがない。なぜだろうか。欧州の大人たちは18世紀に「子供」を「発見」したのに、この国はいまだに「発見」出来ていないからではないかと思う。子供に備わる固有の権利[6]は、どれほどの大人たち・親たちに理解されているだろうか。子供たちの囁きをどの位真剣に私たちは受け止めているだろうか。イギリスでは、「発見」された子供たちが今度は「妖精」を発見して、戦争で身も心も傷ついた多くの大人たちを救ってくれた。だから、きっと「子供」を大切にするということは、ひいては社会全体を明るく、優しくするということなのだろう。
だから、「ねえ、なんか不思議なものを今日見たんだよ」と子供が寝る前にベッドで呟いたのなら、「何言ってるの!早く寝なさい」と無碍にしないで、「どんな風だったのかな?話してごらん」と今晩からはゆっくりと耳を傾けることにしよう。純真という名の心のレンズを通した時にだけ映し出されるものがあるのだから。それは「希望」というものかもしれない。妖精は今日もまた、コティングリーの深い森から人々に夢を与えてくれている。了
[1] 谷川俊太郎『二十億光年の孤独』日本図書センター 2000
[2] ビアトリス・フィルポッツ『ヴィジュアル版 妖精たちの物語』原書房2000参照
[3] 福島哲夫『図解雑学 ユング心理学』ナツメ社2002参照
[4] ピーター・ジャクソン『乙女の祈り』1994公開
[5]サン=テグジュペリ『星の王子さま』新潮社2006
[6] ルソー『エミール』岩波文庫1962参照

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