2007年12月18日火曜日

ドニー・ダーコ(リチャード・ケリー監督)

 あと28日6時間42分12秒―、1988年10月2日、夢遊病に侵された高校生ドニー・ダーコはこう銀色のウサギに告げられる。そして、指示されるままに破壊行為を繰り返していく。一体、28日後に何が起こるのというのだろう。
 「終末」を題材とした作品は多々あるがとりわけ本作は異色だ。「世界の終わり」の予兆はこの世のどこにも見つからない。ただ変わったことといえば、銀色のウサギが現れた日彼の部屋に正体不明の航空機のエンジンが落下してきただけだ。けれどもこの出来事さえ主人公以外の者にとっては変わりなき日常の中で時折起こる少しばかりのハプニングでしかない。この「わたし」と「あなた」の間に広がる大きな落差、これが本作の核心である。
 主人公の身にだけ起こる「日常でない事態」と、いつもと何も変わらないままの他の者達。互いの心理のコントラストは終盤に鮮明となる。両者の溝は臨界点に到達し、ついに「世界」にヒビが生じ始める。しかし、その「亀裂」もまたドニーにしか見えない。
 このように本作は極めて心象描写を重視している。いたる所に内省的な場面が散らばる。そもそも物語の鍵を握る「銀色のウサギ」というもの自体、欧米で泥酔者が見るといわれる「ピンクの象」を想起させる。あるいは高校での「愛と恐怖」というテーマの、恐怖を克服する授業、自己啓発家の講演、父による母への暴力が原因で転校してきたガールフレンドとのシーンなどに多くの時間が割かれている。そして、「地下室の扉」を主人公が開けに行くクライマックスもまた、ユングが幼少期に見て生涯忘れられなかったという「地下室の夢」[1]のアナロジーであろう。
 破綻へと突き進むドニーの姿には、岡崎京子の漫画『リバーズ・エッジ』[2]の言葉が頭をよぎった。
 「惨劇はとつぜん起きる訳ではない。そんなことがある訳がない。それはゆっくりと徐々に用意されている。/進行しているアホな日常/退屈な毎日の/さなかに」
 そして日常という平坦な戦場での「戦死者」を作者はギブスンの詩を引用して追悼する。
「ごらん窓の外を。全てのことが起こりうるのを。」
彼もまた、「終わりなき日常」[3]の「死者」となる。
したがって、世界は物語の終わりに確かに「滅亡」したのである。なぜならば、「死とはその人間にとって、世界が消滅すること」[4]に他ならないのだから。
ドニーが死んだ日も、昨日と何一つ変わらない今日があり、その後には今日と同じ明日が連綿と控えている。電車は何事もなかったかのようにダイヤ通りに走り、若者達はいつもと同じ表情で足しげく学校へと向かう。
私たちの日常というのは余りに無常で、残酷である。改めてこの作品を観てそう感じた。たとえ誰が死のうとも、この巨大な存在はリズムを乱すことなく、正確に歩みを続けていく。悲しみに暮れて立ち止まることも決してない。中央線で人身事故が起きようと誰一人黙祷など捧げないように。人間の世界は余りに非人間的なものへと変貌を遂げていた。了
[1] 福島哲夫『図解雑学 ユング心理学』ナツメ社2002参照
[2] 岡崎京子『リバーズ・エッジ』宝島社2002
[3] 宮台真司『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫1998
[4] ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』日本放送協会出版1995参照

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