2007年12月18日火曜日

ガタカ(アンドリュー・ニコル監督)

 「社会の優生学的な再編は、無制限な国家管理の名に隠れてそれがもたらす<ミクロ権力>の拡張・強化と相俟って至高の血の夢幻的高揚を伴っていた。―そして歴史の望んだところは、ヒトラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが血の神話のほうはさし当たり人間が記憶しうる最大の虐殺に変貌した、ということであった。」[1]
 哲学者フーコーはかつてこのように記した。ナチズムを極として、近代における「血の神話」は「レイシズム」として今なお根深く存在する。さらに現在ではこの差別主義に加えてDNA診断による人間の序列化まで進行しつつある。既にアメリカでは医療保険加入をDNAのデータを理由に拒否される事態も起きている。[2]
 本作の舞台である近未来の地球では、人種主義は完全に駆逐されたのだがそれに代わって「DNA至上主義」が世を席巻している。これは「医療的・科学的根拠」というバックグランドを持っているため、人種差別の場合のように「偏見」や「迷信」だと主張することも出来ず、極めて対抗しづらいものとなっている。
 この世界では、DNA診断によって当人の寿命、疾病、知能、身体能力、性格、容姿などが生まれた時点で判明する。したがって「機会の平等」という原理は非効率的としてしりぞけられ、教育や医療といった人的・物的資源を優れたDNA所有者へ「傾斜投資」することが肯定されている。DNAが本人の一生を全て決めるのだ。しかし、「下等の人間」と判断され、不遇な人生を歩むことを余儀なくされた主人公は、一部の遺伝子エリートだけにしか門戸の開かれていない宇宙飛行士になる夢を叶えるため危険を冒す。
 彼は、宇宙飛行士養成所=ガタカへ入るために優等遺伝子を持った他人に成りすます。「別人のふりをする」というストーリーはアランドロンの『太陽がいっぱい』[3]が有名だが、本作の場合、外見のみならず指紋と血液まで変えて、ゲートでのDNA照会をかいくぐる。したがって、彼にとって入所時の毎回の身元チェックが一番の恐怖であった。仮に身分詐称が発覚すれば即座に逮捕され、宇宙飛行士の夢も潰えてしまう。だが殺人事件の捜査のため、刑事の指示で照会作業は執拗なものとなっていく。
 この照会のエピソードは、昨今研究の進む「生態認証技術」と重なって見えた。このテクノロジーのルーツは19世紀後半のフランスにあるという。人類学を学んだパリ警視庁事務官ベルティヨンは、外見だけでなく光彩や顔の骨格で個人の識別を試みた。[4]本作に登場する刑事は彼をモデルにしているのではないかと思える。
 センスの良い美しい映像が惜しげもなく続く作品にもかかわらず、こうしたストーリーゆえ、未来はユートピアでなくディストピアに思え、あるいは主人公の悲愴な人生に深い胸の痛みを覚えてしまう。
だがしかし、それでも主人公は何度も迫り来る窮地を逃げ切り、遂に念願の宇宙へと飛び立っていった。鮮やかな閃光を放って遥か土星へと向かうシャトルの姿をカメラが青空に追っていく美しいラストシーンは、「運命とはDNAが決めるのでなく、自身で切り開いていくものだ」と力強く物語っているような気がした。了
[1] フーコー『知への意志』新潮社1986 188頁参照
[2] 斉藤貴男『機会不平等』「終章 優生学の復権と機会不平等」文春文庫2004参照
[3] ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』1960公開
[4] 渡辺公三『司法的同一性の誕生』言叢社2003参照

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