2007年12月19日水曜日

ボウリング・フォー・コロンバイン(マイケル・ムーア監督)

 「銃社会アメリカ」、この言葉は自分が小さな頃から毎日テレビで聞かされてきた。いつまで経ってもアフリカのイメージが「飢餓と内戦と貧困」であるように、アメリカといえば「銃と暴力と犯罪」に表象され続けている。それはなぜなのだろう。答えはいつも決まってこうだ。「インディアンを虐殺して築いた国だから」、「貧富の格差が激しいから」、「人種差別がひどいから」、「NRA(全米ライフル協会)が銃規制に反対しているから」
 いずれもそれなりに説得力を持つがしかし、マイケル・ムーア監督は納得せず、自分なりの答えを探しにカメラを背負って全米を駆け回る。
 たとえば、南部の民兵組織を訪れて「草の根ミリタリズム」の根深さを肌で感じる。次いで、コロンバイン高校のある町へ赴き銃乱射事件の被害者に会う。あるいは自身の故郷で起きた、6才の子供同士が銃の被害者と加害者になった事件を考察する。こうして取材を重ねていく中で彼は1つの「答え」を見出すのである。
 銃犯罪と暴力を助長してやまないもの、それは人々の心に宿る「不安」と「恐怖心」だと彼は言う。ひっきりなしに殺人事件のニュースを流すマスメディア、強迫的に消費を促すTVCM…アメリカの社会と経済を回転させる原動力は人々に蔓延する「安心・安全への強迫観念」に違いないと語る。
 そしてこの考えを検証するため、今度は隣国カナダへと足を運ぶ。こちらの人々は外出の際に施錠をしないという事実にムーアは驚く。また、人種差別もほとんどなく、福祉も充実していて、殺人事件もアメリカより遥かに少ないということも彼は指摘する。母国の問題を外国と比較して浮き彫りにするこのパートは、本作の中でも非常に見ごたえがある。
 だが、ムーアの真骨頂が発揮されるのはここからだ。かつてマルクスは「社会とは解釈するためでなく変えるためにある」と述べたように、彼は単に銃社会の現状を分析して嘆いてみせるだけではなく、行動することによって一歩でも「改善」しようと奮闘するのだ。
 ムーアはコロンバイン事件の被害者達を引き連れてKマート本部に乗り込んで、弾丸の販売を全廃させる確約を取り付ける。次には銃規制反対派の牙城である全米ライフル協会の会長・ヘストン宅をアポなしで訪ねて彼と激しい論争を繰り広げる。そして帰り際に、銃で殺された6才の少女の写真を残していく。
 マイケル・ムーアという人物が激しいひんしゅくを買う理由はこのスタイルにあると自分は強く感じる。彼はまるで子供がそのまま大人になったかのように、純粋すぎる正義感と優しさの持ち主なのだ。だから「世の中なんて変わらない」と諦めている大多数の人々からすれば、うっとうしくて暑苦しいだけの存在に写るのだろう。けれども、そんな彼の作品は「皆で力を合わせて行動を起こせば必ず世の中は良くなる」という希望を観る者に与えてくれる。「あれはドキュメンタリーじゃない、プロバカンダだ」などという批判も受けるが、彼の主張はどれも極めて常識的なことばかりだ。「差別や貧困をなくそう」、「戦争をやめよう」、「福祉を充実させよう」、「雇用を安定させよう」、「銃をなくそう」
 だから、ムーアの映画が奇異で不快で、夢物語に見えるとしたら、それは今の世の中がいかに病んでいるか、ということの裏返しである。
 したがって、巨体に野球帽に眼鏡というトリッキーな出で立ちとアポなし突撃という奇抜な取材方法ばかりが目立つが、実は彼はあくなきまでに「社会正義」を追求する正統派のジャーナリストに他ならない。イマジンの歌がよく似合うムーアが自分は大好きだ。了

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