2007年12月31日月曜日

クラウゼヴィッツの暗号文(広瀬隆著 新潮社1984)90点


 平和と平和の間に「戦争」があるのでなく、戦争と戦争の間に束の間の「休戦としての平和」がある、という方が本当なのではないか。本書を読むと、このように思えて仕方なかった。
 周知の通り、有史以来人間は互いの殺戮を繰り返してきた。それは21世紀に突入した現在でさえ変わっていない。それどころか、ますます殺し合いの手段と方法は冷酷なものとなりつつある。無差別の自爆テロ、市民を巻き添えにするクラスター爆弾、放射能をばら撒く劣化ウラン弾、数々の細菌兵器etc…例を挙げればきりがない。 
 だが、だからといって「戦争は人間の、治らない悲しい性だ」等としたり顔で語る者には自分は常に激しい憤りを覚える。これほど無責任なエクスキューズはないだろう。
 自分は小さな頃、「戦場に行って戦う相手は見ず知らずの外国人たち」だと知って「なんで直接なんの恨みもない人を殺さなくちゃならないの?そんなことできるわけないよ」と素朴な疑問を大人に尋ねたことがある。それに対して「それが戦争なんだよ」という答えにならない答えばかりを聞かされてきた。
 そもそも「戦争は人間の本能である」というテーゼ自体単なる迷信でしかないのだ。
 1986年、ユネスコは「暴力についてのセビリア声明」という後に有名となった、とある声明を発表した。その内容は「人類にとって戦争は生物学的必然性のあるものではなく、1つの社会的発明に過ぎない。したがって平和は可能なのである」と明言する。[1]これは、本書の中で紹介されたクラウゼヴィッツの「戦争は政治の継続である、他の手段をもってする政治の継続以外のなにものでもない」という言葉ともほぼ重なる。しかし、彼という人物は決して平和を愛していたわけではないことも著者は記す。
 本書によればトルストイは彼を尊敬するどころか「勝利のためには民衆の流血など惜しまないただの鬼畜」と見ていたという。軍人からすれば彼はまさに最大の教師に違いないのだがしかし、文民にとっては彼は無慈悲で冷徹な「戦争職人」でしかないのであろう。
「流血をいとう者は、これをいとわない者によって必ず征服される。戦争は厳しいものであり、博愛主義のごとき婦女子の情が介入する余地などない」
 『戦争論』において彼はこのように断言する。(本書302頁)
 それゆえ、常に“敵”を作り出し、残虐な戦いを繰り広げずにはいられない人々を著者は「クラウゼヴィッツ人」と呼び、我々でなく彼らこそが本当は戦争を引き起こすのだとする。この分析は証左にいとまがないだろう。古今東西、国内で民衆の不満が高まると必ず権力者達は外国をスケープゴートにして攻撃し、求心力の維持を図ってきた。あるいは「自衛の戦い」と称しては利権のための「侵略」戦争を繰り返してきた。歴史上ほぼ全ての戦いはこれらの理由から生じている。それは本書からもよく理解できることだ。 
したがって、人間そのものは「戦争」など好まないのである。戦争をせずにはいられないのは、流血をためらわない「クラウゼヴィッツ人」だけなのだ。だから、我々に「宿命的な悲しき性」があるとすればそれは「戦争をする」ことではなく、「彼らにぬけぬけと権力を与えてしまう」無知と蒙昧に他ならない。だがしかしその愚かさは理性による学習によって、必ずや克服できるはずだ。クラウゼヴィッツを反面教師とすることによって。了
[1] デービッド アダムズ『暴力についてのセビリア声明』平和文化社1996参照

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