2007年12月20日木曜日

A、A2(森達也監督)

  「痛い、痛い!!」路上に倒れた公安刑事が叫ぶ。近くには頭を打って横になったままのオウム信者。どちらが何をしたのであろう。一見するとよく分からない。そばにいた別の刑事が無線で「職質を振り切って逃げようとし、刑事を突き飛ばした公務執行妨害容疑で検挙」と話している。だが事の真相は本作のカメラが克明に捉えていた。実際は公安自らオウム信者を投げ飛ばしていたのだ。したがって明らかな不当逮捕である。いわゆる「転び公妨」と言われる捜査手法だ。
 地下鉄サリン事件以降、破防法適用は免れた代わりにオウム教団は公安当局の厳重な監視下に置かれることになった。そして、関係者の強引な摘発が始まった。
 アパートにビラを巻いただけで住居不法侵入罪、カッターを持っていたら銃刀法違反、銀行で受付に怒鳴ったら脅迫罪、といったように微罪による信者の検挙が相次いだ。冒頭の不当逮捕もその一例である。
 権力側によるこうした強硬な措置に対しては従来ならば市民社会の側から厳しい非難の声が沸き起こるはずだが、オウム真理教のケースではそうではなかったことが本作は鮮明に描いている。
 むしろ、普段は市民社会の「敵」である「公安」や「右翼」とも、教団施設のそばの住民たちは積極的に「共闘」しているに見えるのだ。「オウムを地域から徹底的に排除したい」という恐怖に駆られた感情が、常識や分別といったものをいとも容易に凌駕してしまったように感じる。
 ここに見られる現実は、あるラディカルな問いを私たちの前に提示している。
 「自由と民主主義を原理とする社会は非寛容(対立する者の存在を許さないオウム教団のような勢力)に対してどれほど寛容であるべきか」という問いである。
 これに対し、9・11のテロ以降、現在日本だけでなく世界中を席巻するのは「圧倒的な非寛容」ばかりだ。多元性を一元性に、多様性を画一性へ「セキュリティ」の名において強引に収れんさせようとする激しい排除と同一化の圧力が、我々市民社会の側から急速に発生しているといえる。
 あるいはたとえ憲法において高々に自由と民主主義の保障を掲げる国でさえも、たとえばドイツではナチスを擁護する言論・行動は法的に認められていない。
 しかし、国家権力をもってしてもいまだネオナチを壊滅させることには成功していない。
 この事実が物語るように、たとえ「オウム」を根絶やしにしたとしてもカルト宗教は決して無くなることはなく、「アルカイダ」を撲滅したとしてもテロは今後も絶対に発生し続けるのである。
 すなわち、「非寛容」は必ずしも私たちの安全を保障しえないということだ。オウムもテロリストもその発生には理由があり、出現の偶然性を必然性にまで高めた張本人こそ、彼らの声を無視し続けた「われわれ」の社会に他ならないだろう。
 しかし、今日もまた「原因」は置き去りにされたまま「現象」だけを我々は追い続け、何一つ問題は根本的に解決されていない。最近でも、「テロ対策」の名の下、空港では全ての入国する外国人に対して指紋と顔写真の採取が開始されるようになった。これには効果と人権の面で重大な疑問が指摘されている。また、ある大臣は「友人の友人がアルカイダでした」と漏らして波紋を広げた。こうしたどこか滑稽で的を射ない「テロとの戦い」がこの国では日々、官民総がかりで熱心に繰り広げられている。
けれども「ところでアルカイダとは何ですか?」と問われたら「凶悪なテロリスト」という単純なワンフレーズ以外、皆何一つ語ることが出来ない。誰一人「敵」を知らない。了

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