2008年5月23日金曜日

砂と霧の家(ヴァディム・パールマン監督2003)90点


 本当に私たちが欲しいものは「家」ではなく「家庭」に他ならない、鑑賞後そのように強く強く感じたのだった。
 「夢にまで見たマイホーム」、「一国一城の主」、「庭付き一戸建て」、「田園調布に家が建つ」etc…古くからこの国では「家を持つこと」は庶民の理想であり、最大のステータスシンボルであった。だからこそ父親たちは昼夜を問わず一心不乱に働き続けてきた。
それはまた、『アメリカンビューティー』でも描かれていたように、かの国アメリカでも変わらないことである。
 離婚し、失意の生活を送る主人公キャシーは父が残してくれた海辺の家に住んでいた。だが所得税の未納を理由に、郡によってここを差し押さえられてしまう。そしてすぐに長らく住んだ我が家は競売にかけられた。
 息子の進学費用を稼ぐための投資物件を探していたイランからの亡命軍人・ベラーニはちょうどこの知らせを目にしてすかさず購入の手続きを済ませる。そして転居し、改修工事も始めたのだった。だがその後、今回の一件は全て行政のミスであったことが発覚し、キャシーと弁護士は彼に対して住宅の返還要求を行いだすのである。
 しかし、本国で味わったような華やかな暮らしを取り戻し、最愛の息子の将来を切り開くためにもどうしても経済的な再起を図りたいベラーニは頑として明け渡しを拒み、事態はこう着状態に陥っていく。
 理不尽な形で思い出の詰まった我が家を奪い取られたままのキャシーは、モーテルと車の中で寝泊りする日々を余儀なくされるのだった。そんな困惑し苦悩する彼女の前に、好意を寄せていた警官バートンが近づき、救いの手を差し伸べようと動くのだがそれがやがて大きな破滅をもたらすことになってしまうことになるのだ。
 この物語を織り成す三人はそれぞれが大きな「喪失」を抱えている。キャシーは夫と我が家を失い、ベラーニは故郷と栄光を失い、バートンは父と、妻との愛を失ったまま生きている。そして、癒えることのない痛みを抱きしめたまま彼らの人生は互いに激しく交錯してゆく。
 彼ら三人は誰も皆、完全な善人でも悪人でもない。ベラーニもただの強欲な俗物には描かれていないし、バートンも単純な正義漢ではない。何よりストーリーの中心となるキャシー自身、どこにでもいそうな、精神的にもろくて不安定な女性に造形されている。だからこそ、この作品は非常に高いリアリティを持っているのだ。
 このような「家」を巡る人と人との激しい衝突、という主題は身近であり、同時に私たちそれぞれの中にある「家」に対する執着の心情に対し、突き放した視点から鋭い問いを投げ掛けてくる。
 海辺の小さな家が起こした争いは、遂に悲劇の最期をもたらす。キャシーもベラーニもバートンも、争いの以前に手にしていた暮らしを失い、抱えた傷をさらにひどく深いものへと変えた。
 ある哲学者は「人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する」という価値の転倒した現象を「物象化」と呼んだ。[1]「家」のために「家庭」が崩壊してしまう逆説的で皮肉な出来事はまさにその極致であった。
 けれども現実の世界に目を向ければ、「サブプライムローン」が破綻し、我が家を明け渡して多くのアメリカ人がホームレスになったように、今日もまた、「家」が「家庭」を奪い取り、引き裂き続けているのである。
だからこそ、私たちはそろそろ気づくべきなのかもしれない。
「豪華な“house”は幸福な“home”を必ずしも約束しない」という真実に。了
[1] G・ルカーチ『歴史と階級意識』未来社1998 参照