2007年12月23日日曜日

モーターサイクル・ダイアリーズ(ウォルター・サレス監督)

「社会とは解釈するために存在するのではない、変えるためにあるのだ」と喝破したのはマルクスである。
 この作品は、1人のノンポリ医学生が友人との南米縦断旅行を通じて、やがて「解釈」から「変革」の対象へと、世界に対する自身の態度を変えていく過程をドキュメンタリータッチで淡々と描いた映画だ。
主人公は社会の不正や悪を声高に糾弾することはない。道中で先住民や肉体労働者、ハンセン病の人々など社会の底辺に置かれて苦しむ人々に出会うが、彼の心境の変化は、言葉ではなく、表情や行動に映し出されている。
 彼は、生まれながらにどこまでも正直で温かい心を持っていた。そんな青年にとってこの旅行は、「革命」を志すのに十分過ぎるきっかけとなったのである。
 若き2人の男がバイクを駆って旅をする、というストーリーはアメリカンニューシネマの名作『イージーライダー』[1]を連想させる。しかし、こちらで描かれるのはニヒリズムである。主人公の事故死に終わるラストシーンがその象徴的だ。反対に本作は悲惨だけども悲観的ではないのだ。言うならば前者は「失望の中にある失望」を、後者は「絶望の中にある希望」を主題としている。貧困と不正に支配された南米という暗闇の大陸を疾走していく若き魂に、私たちは大きな希望を重ね合わす。
 かつて、「旅の方法」についてある作家が興味深いことを述べていた。「車と電車とヒッチハイクでは同じ道のりでも見える世界が全く異なる」というのだ。したがって、「移動手段が遅ければ遅いほど異郷の小さな事物まで気づき、発見できる」と説く。
 主人公と友人の場合、当初はバイクで、次はヒッチハイクで非常にゆっくりと旅を続けた。だから、街の片隅や山奥の小屋で暮らす人々と数多く触れ合うことが出来た。彼らは見えない運命の意志によって、いつの間にか自然と、歩むペースを「最も後ろにいる人間」へと合わせていたようだ。そうして、彼らの中で熱い何かが芽吹き始めた。
この長い旅は、「医学生エルネスト」を「革命家チェ・ゲエバラ」へと変えたのである。そして友人アルベルトもまた、遊び人の若者から人々のために尽くす立派な医師へと成長した。存命の彼は物語の終わりに登場する。年老いた現在でもゲバラの志を受け継いでキューバで医療活動を続けていることが紹介されていた。
だから自分も鑑賞後、「書を捨てて街へ出よう」[2]と思い立ち、本を閉じて窓の向こうの澄んだ大空を見上げた。了
[1] デニス・ホッパー監督『イージーライダー』1969年公開
[2] 寺山修二『書を捨てよ、町へ出よう』角川書店2004

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