2009年1月25日日曜日

幸福な食卓 (小松隆志監督 2007) 85点  


  
 「父さんは今日で父さんを辞めようと思う。」
 この言葉から、とある家族の崩壊と再生の物語は始まる。
 真面目な教師だった父は退職し、再び大学で勉強がしたいと言い出して予備校に通いだした。地元の進学高校でトップの成績だった兄は大学へ行かずに農業の道を選択して自家農園で汗を流す日々だった。母は、別居してパートをしながら数年前からアパートで暮らしている。高校受験を間近に控えた中学校3年の時、主人公佐和子の家族は乾いてひび割れていくばかりであった。
これは、「幸せな家庭は一様だが不幸な家庭はそれぞれである」というトルストイの有名な一文がまざまざと浮かんでくる光景だ。いつの時代でも裕福で円満な家庭だけが「幸福な家庭」に表象されてきた。しかし、「悲惨な家庭」というのは一概ではない。離婚、不和、貧困、不倫、絶縁、非行、勘当、不妊、別居、死別・・・・・・「喜び」よりも「悲しみ」の方が幾重にも複雑で、名残雪のように容易には消えてはくれないものである。
まもなく父は自殺未遂を起こしてしまう。串の歯が欠けて行く様に今、佐和子の家庭は「幸福」が次々と砕けては落ちていった。
そうした日々の中、佐和子の前に大浦勉学という転校生が突然現れる。佐和子は天真爛漫な性格の彼に徐々に心魅かれていく。また、同じ頃、兄は洋子という年上の女性と出会い、佐和子は彼女とも交流するようになる。
以前、別居中の母は佐和子に向かって「近くにいすぎると気づかないことがある」と言った。その言葉通り、「家族」ではない大浦や洋子の登場は佐和子に「家族」という存在を再発見させる重要な役割を果たす。
佐和子は「他人にしかできないことがある」と、漠然と農園で働く兄を洋子だけが良い方向へ変えてくれるはずだと感じ始める。そして自身も大浦に触発させて、兄と同じ進学高を受験することを本気で決意するようになったのだ。
しばしば「過去と他人は変えられない」という人がいる。けれども、過去はともかく「他人」はそうではないだろう。人間は社会的存在であり、常に他者との関係性の中で生きているからである。他者との触れ合いによって、自分も他人も影響されて刺激しあって変容する。その繰り返しが「人生」に他ならないと思う。
「出会いによって人は変われる」
自明かもしれないが忘れられがちな真実を、この作品は観る者へ優しく思い出させてくれる。それは、「生きること」と「人」に対する力強い肯定のメッセージである。
なかでも、大浦が主人公に話した「気づかないところでキミは守られているんだ」という言葉は自分の心に最も強く響いた。「私」は「私」一人の力だけで生きているわけではないのだ。そして、何より「家族」という存在こそ、いつも苛烈な周囲の世界から、か弱い「私」という存在をしっかりと温かく包み込んでくれる。
「家族は作ることも壊すことも難しいんだよ」
こんなセリフもあった。だからこそ、「家族」は「家族でない人々」の力も必要としている。支え合って助け合う関係、それは決して「家族」の中だけで閉じてはいないのだ。
それで、物語の最後に一家4人がそろった食卓には大浦と洋子の席もきちんと用意されていたように自分には見えた気がした。
「希望の数だけ失望は増える それでも明日に胸は震える どんなことが起こるんだろう 想像してみるんだよ♪」
エンディングをMr.Childrenの『くるみ』が縁取る。
美しいメロディに乗せて歌われたこの言葉は、柔らかな日差しの中で甲府の街を力強く歩いていく今の佐和子そのものに他ならなかった。了