2007年12月25日火曜日

ライフ・イズ・ビューティフル(ロベルト・ベニーニ監督)

 もう何度も見る、ナチスに指示されてユダヤ人たちが貨物列車に乗り込む光景、また再びの殺伐とした強制収容所の風景。けれども他の多くのホロコーストを扱った作品と、この映画では、放つ色彩が全く異なっている。
 今まで感じたこともないリズムと鼓動がこの作品から、僕の胸に聞こえてきた。
 語尾の上がる、独特な抑揚の「イタリア語」というラテンの言葉を止まらぬ速さでまくし立てる陽気な紳士が本作の主人公だ。
 したがって『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』とは異なり、この映画は全編伊語で進んでいく。「イタリア語」という言葉が用いられていること、これが本作のアルファでありオメガである。
 英語、ドイツ語、スペイン語、中国語。世界に数多ある言語はそれぞれに様々な語感を備える。そして、文法や話法など言葉それ自体とは別に、「語感」というものはとても大きな力を持っているのだ。ある研究者はこう述べている。
 「ことばには、意味とは別に描かれる潜在意識の印象があり、それは世界共通の印象なのである。」
「ことばを発する際に、口の中で起こる空気の流れ、舌の動きといった物理現象が、意味以上に意識の質に影響を与えている。」[1]
作中において、伊語はとても心地良くノリの良い響きを持っている。一方、それとは対照的にナチスが話すドイツ語は陰鬱で威圧的な印象である。
今や銀幕の世界は、他の分野と同様にハリウッド発の英語が支配的だ。つい自分は「悪化が良貨を駆逐する」という格言を思ってしまう。なぜならば、「普遍言語」で作られたものがすなわち、「超時代性」を獲得したものとはならないからである。
そうではなく、その地域で呼吸する言語によって歴史や風土を描いた作品こそ、深く人々の記憶に刻まれることであろう。つまり、逆説的だが「土着性こそ普遍性」なのである。無論、それは偏狭なナショナリズムではなく、「ふる里の訛り懐かし 停車場にそれを聞きに行く」[2]と歌った石川啄木の心境のごとく、ふと異郷で耳にしたならばまざまざと郷里の思い出がよみがえるような、母語に対して私たちが持つ深い愛着のことを示す。
小気味良い伊語をまくしたてていた陽気で、けれども教養も備わった高貴な精神の男が、家族も財産も何もかも「ユダヤ人である」という理由だけでナチスによって全て剥奪され、最後には自分の命までも奪われたことを、この映画を見た人は皆いつまでも忘れないだろう。そして、この作品を大切に胸の奥へとしまうであろう。
本作が成功したのは、今まで述べてきたように「イタリア語」という言葉を使っていることが第一の要因だと言える。また前半と後半を見事なコントラストで描き分けた演出も功を奏している。
ハッピーエンドで幕を閉じる、都会での楽しく心温まる恋のドラマから、強制収容所での主人公一家の悲惨で過酷な日々へとストーリーが変わることによって、見る者は極めて大きなショックと哀しみを覚えることになるのだ。
けれども、最期まで微笑みを絶やさなかった主人公の姿は私たちへこう伝えたかったのだと思う。
「人生は苦しんで生きる値打ちがある」[3]ものだと。了
[1] 黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』新潮新書2004参照
[2] 石川啄木『新編 啄木歌集』岩波文庫1993
[3] 大島博光『アラゴン』新日本出版社1990 

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