2007年12月30日日曜日

不平等社会日本(佐藤俊樹著 中公新書2000)

  昨今「中流崩壊」が頻繁に語られているのは自分も知っていた。それに関する文献も読んだし、教育テレビで放送している東大教授・苅谷剛彦氏の 『学歴社会という神話』[1]も観た。氏は「所得格差が子供の学習意欲と重なっている」と指摘する。「有名大学への入学者の多くが私立進学校・年収1千万円家庭の出身者である」という話をそこから自分は思い出した。これはすなわち本書の言う「知識エリートの再生産、機会不平等化」ということだろう。
 このテーマについて語るとき、必ず避けられないのは「そういうあなたの家庭はどうなの?」ということである。自分のプライバシーを開示せざるを得ない。
 自分が入学した早稲田大学政経学部では、本書の分析通り、やはり中高一貫の私学出身で裕福な家庭の学生が非常に多かった。しかし、自分の場合正反対で、小中高と全て地元の公立学校に通い、家庭の年収も1千万など遠く及ばないものである。したがって、「自分は完全な叩き上げだ」という強い自負心を抱いている。
 だが、現実では本書も指摘するように社会を動かす政治・経済エリートたちは大半が「世襲化」しており、「叩き上げ」の者は減少している。しかし、「ノブリスオブリージュ=高貴な責務」意識の薄弱な二世、三世たちがエリートの地位を親から譲り受けることは害が多い。
 ここで問題となるのは「世襲」批判の中身である。単に「二世」というだけで批判されるのは理不尽だろう。本来は「高貴な責務意識」の欠如こそ指摘すべきだ。しかしこれを誰も言わないのは「総中流信仰、反エリート層意識」が人々にまだ根強いためではないか。
 単なる「二世批判」は「エリート層」そのものの否定の願望である。が現実には今や歴然と「エリート階級」は出現しつつある。それを認め、批判の内容を現実を踏まえた「二世三世の人にはしっかりと高貴な責務感をもってほしい」というものに代える勇気を持つことこそが日本の現在の閉塞状況打破のためには必要なのではないかと思う。それは著者が処方箋の一つに掲げる「西欧型階級社会への意識的な志向」に結びつく。だが、著者はすぐにこの案を「能がない」と一蹴するが自分は他の処方箋より余程現実的で有効なものに感じたのだった。
 確かに「おごり高ぶったエリート意識」など誰も求めていないが、「真っ当な責任感・自負」というものはエリートには不可欠だろう。「親から地位を継いだ者は継いだ者なりに、叩き上げで実績を作った者は作った者なりに」矜持を持つべきである。現在は本人の得た「地位・実績」が「世襲」によるものか「実力」によるものかが混同されて分かりづらいため、その矜持が生じにくいのではないか。
 また、「叩き上げ」エリートが出現するためには「機会の平等」が欠かせない条件である。しかし著者は、「機会の平等」が存在しているか否かは「特定の不平等要因が働いていたかどうかという形で後からしか知りえない」と語る。
 著者は他の論文の中でもこの問題について説明している。
 「ノーベル経済学者のセン教授の不平等論は機会を直接測定しようとするもので、それには『その人が本来なら何ができたか』を把握する必要がありそれは個人の生への全面的干渉になるのでハイエクは機会平等の全面的展開に反対したのだろう。このセン―ハイエク問題は階層論研究においても重要である。」[2]
 だが自分はこの意見に反発を覚える。この考えは「公教育での各人への均等な機会提供・能力開発」への感情的批判(子供への過干渉・税金の無駄使いだ、といった)に短絡してしまう恐れはないか。不本意にも「小さな政府主義者」に悪用されるのではないか。それを自分は強く危惧するのだ。
 苅谷剛彦・東大教授は前述した『学歴社会という神話』の中で、「所得格差による学習意欲格差」という不公平を是正するためには公立学校での少人数制、習熟度別授業等のきめ細かい教育が「階層に関わらず各生徒の学習意欲を公正に育て能力を開発してあげる点」で今こそ必要だと言っていた。同時に公・私立校共通の「最低限全員が学習しなければならない学習内容=ミニマム・スタンダード」を確定すべきだとした。これこそ「機会平等」の理念であり、自分は大いに共感する。
 自分も「所属階級・出身のせいで本来持っている素晴らしき資質が未開のままに放置されてしまう」という事態は社会の進歩にとって大きな損害だと考える。
 著者も刈谷氏も共に日本の不平等化拡大を阻止したいと考えていて、重なる点が多いがこの「機会平等」に関しては対立があるように思える。本書への自分の最大の批判はこの部分である。
 ゆえに是非ともこの二人に対談して「教育における機会平等」というテーマで具体的な論争を行ってほしいと思う。
 著者は「機会の不平等は後からしか分からないので、不平等が将来見つかったらそのとき、すなわち後から補償すれば良い」とするが教育における不平等は本当に「後から」十分に補償できるのだろうか。初等教育での不公平は何年も経ってからでは取り返しがつかないだろう。だからこそ幼少期の「英才教育」に血まなこになる親が大勢いるのだ。この点について著者の見解を知りたいと強く感じた。
 また、「個人の能力・可能性を丁寧に探す公教育」というのは「個人への全面的干渉」に当たるのだろうか。「セン―ハイエク問題」において著者はハイエクのこの「全面的干渉になる」という考え方を支持するようだが、その考えをそのまま教育政策にもあてはめてよいのだろうか。
 本書は非常に高い論理的説得力を持つが、以上の点に自分は大きな疑問を感じた。了
[1] 刈谷剛彦『学歴社会という神話』日本放送出版協会2001参照
[2]『 中央公論』2000年11月号 中央公論新社参照

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