2007年12月8日土曜日

出口のない海(佐々部清監督)

 その「船」には、外へ逃れる扉がない。そして、真っ直ぐにしか進めない。したがって、一度出撃したならば、搭乗員には「生きて帰る」こと以外の2つの結末だけが待つ。
 一つは、目的通り敵艦に衝突し相手もろ共沈没することであり、もう一つは、敵に発見され撃沈されるか、操作を誤って岩盤に突き刺さり、暗い海の底で孤独に死ぬことである。
 これが、「天を回らし、戦局を逆転する」という願いを込められた、日本海軍の秘密兵器『回天』に乗り込んだ者へもたらされる運命であった。志願者は20歳前後の学徒出身兵や青年士官達である。終戦までに1375名の若者が訓練を受け戦没者は106名に上った。[1]
 主人公の並木浩二もその中の一人だ。彼は自慢の速球で甲子園を沸かせたスター選手だった。今は大学野球で活躍しているが、肩を故障し、剛速球を投げられなくなってしまった。それでも挫けずに、それに代わる新しい変化球の発明に日々腐心していた。だが戦況の悪化により1943年「学徒出陣」が行われ、彼もまた野球を辞め海軍に入ることとなる。
 そして、1944年に正式兵器として採用された『回天』に、彼は自ら乗り込む決意をする。
 狭く暗い潜水艦の中で何度も繰り返す「攻撃準備」と「待機」の命令。自分より先に発進し、「軍神」となった戦友。やがて、ついに自身にも「出撃」命令が下る。父、母、妹、そして恋人、野球をした仲間たち…短い人生で出会った大切な人々の記憶が頭をよぎる。
意を決して、発進レバーを引く。だがモーターは回らなかった。整備不良の為に、彼は命を救われたのだ。まるで、執行を待たされ続ける死刑囚のような極限状況である。
 また、訓練中の操作ミスで危うく命を落としかけた主人公を上官が殴り倒す場面はとても印象的だ。殴打された主人公は「ならば貴様が乗れ!!」と怒り狂って叫ぶ。
 古代ギリシャの言葉に「戦争では老人が語り、若者が死ぬ」というものがある。この格言は古今東西あてはまるに違いない。
 1943年3月に出された京都市本能国民学校(現在の小学校に当たる)の卒業アルバムでは以下のような、学校長の尋常でない祝辞が子供達へ贈られている。
 「私は『強く生きよ、最後まで頑張れ』、更に又『征け、戦へ、死ね』この二語をはなむけとして皆さんの門出を勇ましく送り…」[2]
 こうして無垢な若者たちは、戦場で死に「軍神」になることが人生で唯一至上の価値だと信じ込み、青春のすべてを戦争に捧げ、無惨に散っていったのである。
 主人公・並木浩二の姿は、戦前実在したスター投手・沢村栄治の悲劇と重なる。沢村は
数々の記録を打ち立て1936年巨人に初優勝をもたらす等プロ野球黎明期の立役者となった。だがその後徴兵され、戦地で重い手榴弾を投げさせられたため肩を痛めて速球を投げられなくなった。そして巨人解雇後に三度目の召集を受け1944年に27歳で戦死した。[3]
 こよなく野球を愛した並木や沢村の手から白球を奪い、代わりに操縦桿や手榴弾を握らせたのは誰なのか。並木の回天は、海の岩盤に衝突し、彼は身動きの取れないまま死んだ。
 無謀な戦争によって、数多の前途ある若者達を犠牲にした挙句、日本は敗れた。そして、「征け、戦へ、死ね」と説いた大人達は、空襲で焼き尽くされた街で遅すぎる後悔をした。
 「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君をくびつたその綱の 端を私も持つていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言い訳が なんでできよう 慙愧 悔恨 懺悔を重ねても それがなんの償いになろう 逝つた君はもう還らない 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ 涙をはらつて君の墓標に誓う 『繰り返さぬぞ絶対に!』」[4] 
 よく、「過去に縛られない」とか、「過去にとらわれない」などという声を耳にする。「過去」というものはまるで、人間が未来へ進むのを阻む足かせであるかのようだ。
 だが、主人公の並木は死ぬ前に仲間にこう言い残した。
 「俺は軍神になんかなりたくない。ただ、将来のこの国の人たちに、日本のためにと、自分のように自爆攻撃によって命を犠牲にした若者達がいたという事実を忘れないでおいてほしいだけなんだ」。
 けれども、余りに今の日本の私達は「歴史」を知らない。『回天』のことも知らない。
 だから、並木浩二は「忘却」という名の記憶に対する暴力によって、再び殺される。
 哲学者ヤスパースは、「ドイツ人は罪のない者も責任はある」と第二次大戦を語った。[5]
 この「責任」とは、当時まだ生まれていない世代にも生じるのではないか。それは、もう二度と再び自らの国に戦争をさせないという強い意志と決意を持ち続けることである。
 たとえば、劇団「地人会」は、22年間にわたって原爆をテーマにした『この子たちの夏』の公演を毎年各地で続けている。「俳優座」もまた同様だ。「私たちにできること」、それは「語り継ぐこと」だ、という揺るぎない思いが彼ら俳優たちからは熱く伝わってくる。[6]
 この国で約60年前に実際に起きたこと。極めて端的に言えばそれはこんな事だ。
「日本よい国花の国 五月六月灰の国 七月八月よその国」
 アメリカ軍の戦闘機B29はこう書いた宣伝ビラをまいた後、大編隊で無差別爆撃を行い、一晩の間に10万人が焼け死んだ。1945年3月10日の東京大空襲である。[7]
 それでもなお、日本は降伏せず、さらにB29はこんな新たなビラを広島にまいた。
 「日本よい国、カミの国、カミはカミでも燃える紙、この夏ごろは灰の国」
 「広島見たけりゃ今見ておきゃれ、ぢきに広島灰になる」[8]
 そして同年8月6日、広島は原爆を投下され、文字通り灰燼に帰し、10万人が死んだ。
 こうした悲惨な過去を記憶し続けることは、未来への「くびき」でしかないのだろうか。
否、そうではない。ナチスとドイツサッカー界の関わりを詳細に記した初の書物『ナチス第三帝国とサッカー』(現代書館)の著者ゲールハルト・フィッシャー氏はこう述べる。
 「過去に起きたことにきちんと向き合うことで、未来に自由が生まれる」。[9]
そして「およそいかなる平和もたとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いもの」[10]なのだ。これが並木ら戦死者達の願いであろう。 了  
[1] 『朝日新聞』夕刊 2006/08/31参照
[2] 早乙女勝元「『征け、戦へ、死ね』戦中の卒業アルバムから」『しんぶん赤旗』2004/03/24 
[3] 北原遼三郎『沢村栄治とその時代』東京書籍 参照
[4] 竹本源治教諭『るねさんす』高知県教員組合機関誌 1952年1月号
[5] カール・ヤスパース『戦争の罪を問う』平凡社参照
[6] 菅井幸雄「演劇時評」『しんぶん赤旗』2006/09/21参照
[7] 宮本百合子『播州平野』新日本出版社参照
[8] 井上ひさし 演劇「紙屋さくらホテル」参照
[9] 『しんぶん赤旗』2006/07/09
[10] エラスムス『平和の訴え』岩波文庫

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