2007年12月11日火曜日

ポーラX(レオス・カラックス監督)

 「待ち人がいつまで経っても来ない」というだけの演劇がある。かの有名な『ゴドーを待ちながら』[1]だ。ゴドーは待てども待てども現れない。来るのは関係のない人ばかりだ。この作品の根幹にあるのは「神の不在」といわれている。
では逆に「来た」としたら、一体物語はどのように変わるのだろう。「ゴドー」は「ゴッド」のメタファーであるのなら、仮に彼が来たのなら、そこに「神の救済」はあるのだろうか。
 本作は「ゴドー」が来た話のように思われる。古城に住む名家の青年の元に突然、「生き別れた姉」と名乗る女性が訪れる。そして、彼はすぐに彼女に魅了され始める。しかし、彼には既に結婚を誓った恋人がいた。「姉」の出現のせいで彼の人生は大きく狂いだしていったのだ。姉と名乗る女の正体は何なのだろう。彼女について分かっていることは「彼女が誰であるか」ではなく「誰でないか」だけである。面識は全くなく、ともに暮らしたこともなく、知人ではなく、家族でもない女。その存在は主人公にとって余りに謎だ。
 「招かれざる客の出現」という不条理な出来事は、私たちにも無論、縁のない話ではない。例えば自分は学生の頃しばしば「転校生」の影に脅えていた。自分と同じようなキャラクターの生徒がある日突然クラスに来て、今までに自分が築いたクラスでの地位や友情を全て奪い取ってしまう―そんな、自力では決して防ぐことの出来ない悲劇が怖かった。
けれども結局、一度としてそんな人物は現れることはなかった。しかし、主人公の元には「来て」しまったのだ。見も知らぬ女が、混沌と撹乱と愛憎を引き連れながら。
彼は結局、婚約者と彼女と3人で暮らすことにした。しかし、もはや彼の前には希望はない。時間はただ破綻へ向かって無常に流れてゆくだけである。「ゴドー」は「救済」ではなく「破滅」をもたらしに来たのだった。「神」とは時に理不尽な存在なのだから。
[1] サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』白水社1990

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