2008年2月9日土曜日

バウンド(アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督1996)


「作家は処女作に向けて結実する」と言われる。この作品についてもこの言葉は当てはまっていた。脚本・監督を務めたウォシャウスキー兄弟は、下積み時代に育んだ才能を見事に本作で開花させることができた。どこまでもクールでスリリングな、刺激に富んだ犯罪映画がここに誕生した。
評価すべき点はいくつもあるが、とりわけ「同性愛」という重く暗いテーマを逆手にとって、アクティブでポジティブに描き出した点が巧みだった。そこを柱として、アカデミー脚本賞に輝いた、似たテーマの名作『クライング・ゲーム』[1]をほうふつとさせるようなヒネリの効いた脚本で、物語は進んでいく。主人公が殺し屋とマフィアの愛人であるという設定が、二人をタフでクールなカップルにして、「世間の目を忍ばざるを得ないレズビアン」という既存のネガティブなイメージを蹴散らしている。そして、愛し合う強くてしぶとい女二人が、百戦錬磨の悪人どもを出し抜いて勝利するという展開は、本当に痛快であった。
また、映像センスも非常に良い。彼ら兄弟は、日本のアニメから多大なインスパイアを受けていることを常々公言している。メガヒットした次回作『マトリックス』[2]を観ればその事実は容易に分かるが、全く別ジャンルでありCGアクションなどない本作においてもそれは見て取れるのだ。
アニメやコミックと近似した、キャラクターの顔や眼のズームアップ・仕草、カメラアングル等の撮影手法がここでは用いられている。これらは個性的で独創的なシーンを生み出すことに貢献した。
他にも、小道具の「白ペンキ」は憎い位に周到に計算されて登場し、この映画を象徴するアーティスティックで美しい映像を作っていた。
物語の鍵となる盗んだ大金を、主人公はマンションの自室にある白ペンキで満たしたポリバケツの中に隠していた。それが持ち主のマフィアに発覚してしまい、彼がこのバケツの中身をぶちまける。綺麗に輝いた大理石の床一面に真っ白なペンキが広がっていく。そして、次に彼が主人公に射殺されて倒れこみ、白いペンキの海の中に真っ赤な血が流れ込んでいく。これら一連の場面をカメラは終始真上から映すのだった。全てが完璧に狙いすましたカットだといえる。
あるいは、舞台となるマンションの部屋、自動車、衣装、拳銃など、画面に現れるありとあらゆる「モノ」が何もかも異常なまでにピカピカに磨きこまれていたことも指摘しておきたい。アニメの世界では服のシワ、窓の曇り、壁のシミといった実際の世界に存在する「汚れ」が消えている。本作もこうすることによってアニメ的なクリーンでイノセントなビジュアルを獲得することに成功した。
このように本作は映像も脚本も、「スタイリッシュ」の一言である。底なしにカッコ良くて、美しい。同性愛も犯罪も、現実における「タブー」は「アート」へと昇華していた。まさに現代フィルムノワールの第一級傑作だと言えるだろう。了
[1] ニール・ジョーダン監督『クライング・ゲーム』1992
[2] アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督『マトリックス』1999

2008年2月8日金曜日

ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督2001)


 この作品を一言で表現するならば「ソマリア版プラベート・ライアン」だ。派手なBGMも人間ドラマもほとんどなく、淡々とした語り口に徹して、1993年10月3日ソマリアの首都モガディシュで起こった米軍と現地民兵の戦闘の再現を試みている。その迫真の描写はまるで最前線で撮影した戦場フィルムを見ているようである。
 ヒト・モノ・カネの全てに莫大な物量を誇るハリウッドならではの圧巻の映像が、スクリーンから溢れ出してくる。あまりの臨場感に、自分は2回も劇場で鑑賞してしまった。
 『プライベート・ライアン』[1] 以降、この種の「擬似ドキュメント風戦争映画」はトレンドになってきた感がある。ロバート・キャパの写真がそのまま動画になったようなシーンは確かに見応え十分だろう。だが、こうした作風を一概に肯定することはできない。
 昨今の映画界では、SF・アニメ・アクション・ホラー、あらゆるジャンルでCGや特殊メイクといったテクノロジーへ多分に依存し、作品のための「手段」に過ぎなかった映像技術自体が「目的」化している風潮が強くなってきている。
 けれども映画とは、舞台・文学・音楽と建築・絵画・彫刻の要素を総合した「第七の芸術」だと言われるように、「見せる」だけでなく「描く」ものであろう。演技やセリフやシナリオもまた、立派な主人公なのだ。
 また、本作のように物語の「リアリティ」を追求するほど、細部にこだわり過ぎて「外部」すなわち「背景」が捨象されてしまうという重大な問題も存在する。例えば、なぜソマリア内戦にアメリカが介入したのか、米軍の武力行使は正当だったのか、といった疑問が浮かんでも本作はそれに対して何も答えてはいないのだ。
 それゆえ、この映画に向けては「単なる勧善懲悪もので、アメリカ賛美プロパカンダだ」等の厳しい批判も聞く。ようするに、「戦場」は完璧なまでに描かれているにもかかわらず、「戦争」は全くといっていいほど描けていなかった。
 だがそれでも本作は決して「好戦的」な作品とは見えないはずだ。撃墜された軍用ヘリ・ブラックホークの乗組員に襲い掛かる群集、携帯型ミサイルの攻撃で手足を吹き飛ばされた兵士、麻酔もかけずに手術されて絶叫する負傷兵…登場するのは華々しい活躍をする勇ましい米軍ではなく、傷ついて血を流し逃げ惑う米兵ばかりである。実際のこの戦闘がいかに凄惨で死の恐怖に満ちたものだったのかが、十二分に観る者に伝わってくるのだった。
そもそもわずか2時間の中で「戦争」と「戦場」の両方を丁寧に描け、ということ自体が望蜀なのかもしれない。それゆえ、スピルバーグは『プライベート・ライアン』を撮った後再び第二次大戦をテーマにして、映画並みの予算で10時間に及ぶテレビドラマ『バンド・オブ・ブラザーズ』[2]を制作したのだろう。
 「戦場には英雄などいない、いるのは犠牲者だけである」という「真実」を我々に気づかせた点だけでも本作は名作だと言えよう。了
[1] スティーブン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』1998
[2] HBO『バンド・オブ・ブラザーズ』2001

2008年2月7日木曜日

シックス・センス(M・ナイト・シャマラン監督1999)


 本編が始まる前に「この映画にはある“秘密”が隠されています。決して他人に話さないで下さい」というテロップが出てきた。それで、「一体どんな結末が待つのだろう」と期待に胸を膨らませながら観ていたのだがしかし、最期のシーンはどんでん返しに対する驚きよりも、意外なことに、人との惜別による「哀しさ」いう感情を、自分の心に強く呼び起こすのであった。
 「霊が見える」と訴え、周囲に心を閉ざした少年が、その超能力によって人々を救済していく様子がこの物語の中心となっている。
 やり残したことを山積みにしたまま死んでしまった者たちが、この世に未練を残さないで天国に行けるように彼らの手助けをしてあげるのが少年の役割なのだ。しかし、その過酷な使命ゆえ少年自身は全く幸せそうに見えない。そこへ、そんな彼を放っておけず必死になって助けようとする児童精神科医の男が現れる。やがて二人は信頼し合い、実の親子のように寄り添い歩くようになっていくのだった。そして少年の“症状”は改善されて、普通の子どもに戻っていったように見えた。彼は少年を救うことに成功したと思い、ほっと胸を撫で下ろした。
 けれども彼にはもう一つどうしても解決できない、気がかりなことがあった。なぜだか妻にいつも自分の存在を無視されているのだ。食卓には料理が毎日一人前しか並ばないし、結婚指輪も見当たらない。しかも妻は他の男と親密になっていた。そんなある日、ふとあの少年の言葉が頭をよぎった。
 「僕には死者が見えるんだ」
 ラストで、二人の関係の真実が明かされる。「救う」側と「救われる」側が実は180度違っていたことに我々は気づかされるのだ。
 少年は男の霊もまた救済していた。本作はしたがって、既存の恐怖ものではなく「ヒューマン・ホラー」とでも名づけられる斬新なジャンルに属するだろう。今日もまた少年は街を一人で歩いて小さな天使のように、さ迷える魂たちを救い続けている。了

2008年2月6日水曜日

邪魔(奥田英朗著 講談社2001)


 この小説は、不良・主婦・刑事という複数の主人公が織り成すストーリーが並立し、やがて交錯する形式である。著者の前作『最悪』[1]もそうだったが、この手法は単に1+1を2にするのでなく、4や5にするような筆力の有無が成否を分けるポイントとなる。いかに巧みに複数のエピソードをコラボレーションさせるか、そこにこそ作者の真価が問われてくるのだ。その点からいえば、本作ははっきり言って「失敗作」だった。3人の主役達のリンクの仕方が全くスマートではなかったからだ。前作の方がずっと完成度は高かったと思える。
 例えば本作では、主人公の1人である不良青年・裕輔は人物造形が薄く、彼の物語も印象が薄かった。逆に最も躍動感と小気味よいテンポを持っていたのは主婦・恭子の話であった。「キャラが立っていた」と言える。彼女のエピソードはウーマンリブ的な雰囲気を放ち、よく出来た社会風刺の内容ともなっていた。登場人物の中で唯一主体的に現状を打破していこうともがく姿勢には共感がもてた。ただ、結果的には蟻地獄のように彼女は泥沼へと転落してしまうのだが。
 平凡な主婦が小さな幸せを守るために犯罪に走るストーリーは、リアリティに富み非常に読ませるのだが、しかしあの結末はどうしても納得できなかった。なんともやりきれない気持ちにさせられてしまった。確かに全ての主人公たちにふさわしいラストを用意するのは難しいことは察しがつく。誰かを立てれば誰かを犠牲にせざるを得なくなるのは理解できる。また、「誰を幸せにして誰を不幸にするのか」という選択は、作者と読者の間に大きな齟齬を来たす最大の難題でもある。もし本作がドラマだったならばきっと最終回終了後には、抗議の電話が放送局に殺到したに違いないだろう。
 こうした群像劇の魅力は「多彩なバラエティー」にあるといえる。何人もの登場人物がいるため、読者は読んでいて飽きにくいのだ。反対に弱点は、主人公が1人のケースと異なって、キャラの多さゆえ、「見事な結末」を生み出すのが困難なことである。まるで高次連立方程式を解く作業に似ている。映画においては『パルプ・フィクション』[2]や『アモーレス・ペロス』[3]がその点、成功例であり『マグノリア』[4]が失敗例である。後者のようにあえて「オチ」を作らないで「破綻」させてしまう、という方法も一つの手段なのかもしれない。本作もこちらに近かった。けれども、自分はそれを肯定できないのだ。
 なぜならば「一期一会のはかなさ」を美しく描き出すのが、「群像劇」のアイデンティティに他ならないからである。了
[1]奥田英朗『最悪』講談社1999
[2] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994
[3] アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『アモーレス・ペロス』2000
[4] ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』1999

2008年2月5日火曜日

アメリカン・ビューティー(サム・メンデス監督1999)


 リストラされかけているサラリーマンの夫と不動産のセールスをして働く妻、二人の間にいるあまり仲の良くない高校生になる娘、彼らの暮らす、郊外に建つ新築のマイホーム。ローンはまだ何年も残ったままだ。どこにでもいそうな、アメリカの典型的な中流階級の家庭である。「現代家族像」の危機と虚構をを巧みに暴き出したこの映画は快作だ。第72回アカデミー作品賞に輝いた。
 主人公一家は残念ながら誰一人として幸せではない。三人はいつも互いにいがみ合っている。ぎこちなく不自然な会話、微笑みのない食卓、バラバラに過ごす休日。そこにあるのは、乾いて冷め切った心と心のすれ違いだけだ。一体いつからこんなことになってしまったのだろうか。
 そんな日々の折、主人公である夫は娘の友達に恋をしてしまう。そして、彼女が「マッチョ好き」だと知った彼はその日から狂ったように筋トレを開始しだす。彼は変わった。職場にも自宅にも居場所のない、うだつの上がらない中年男が「恋の成就」という明確な目的を見つけたことによって蘇ったのである。
 彼女の存在に比べれば他のどんな物事も、彼には些細なことにしか思えなかった。仕事も家庭も、もはやどうでもよくなってしまったのだ。
 「ふっ切れた」主人公につられるかのように、妻もまた不倫に奔り出し、娘も隣家の男と遊び始める。こうして遂に「ファミリー」は完全に崩壊した。しかし皮肉にも今までと逆に、彼ら3人の心は今みずみずしく潤っていった。「家族」という存在はそれぞれの欲求と感情を強固に縛り付けるくびきでしかなかったのだと観る者は気づかされる。
 主人公はだが、ラストに射殺されてしまう。彼を撃ったのは、娘と付き合っていた隣家の男の父親である。この人物は元軍人で、常に激しくゲイを憎悪していた。しかし、実は自身が同性愛者に他ならなかったのだ。彼は自分の気持ちに正直に生きることが出来ないままであった。ゲイだと知られたくないために普通の結婚をし、子どもを作る選択をした。そして家族のために自己を犠牲にし続けてきた。こうした今までの葛藤が、息子と主人公の関係を「ホモ」だと誤解したことによって、一気に爆発したのである。
 それゆえ、この物語においては既成の価値観が見事に転倒させられている。「家族愛」を何よりの美徳とする従来のアメリカ的な考え方に対し反旗を翻した者たちが「幸せ」をつかみ取り、反対にいつまでも背を向けられなかった人間が最後には破滅した。
 「家族」という存在が父であり夫である男にとって、「人間らしさ」の解放を妨げる重荷でしかなくなったとき、必死で働いた末に手に入れたマイホームは、ローンの支払いで自分を拘束するだけの「自由の檻」と化する。そのとき、「約束された幸福」は郊外の幻と消えていくのである。了

2008年2月4日月曜日

オープン・ユア・アイズ(アレハンドロ・アメナバール監督1997)


 この終わり方には『ザ・ゲーム』[1]や『マルホランド・ドライブ』[2]を連想した。いわゆる「夢オチ」、「振り出しオチ」である。結局、終わったつもりが終わらない、結論は分からないままなのだ。こういったラストは「面白い」と感じる人もいるだろうが、自分は「無責任」だと思い、不愉快になった。見た人全てをアッと言わせるような見事な結末こそが欲しいのだ。
 ミステリー作ではしばしば「結末は誰にも話さないで下さい」、「最後に大どんでん返しが用意されています」といった宣伝文句が謳われている。「日常に起きた非日常の出来事」が物語の土台となるこのジャンルでは、高度に意外性と整合性のある結末が常に要求されるのだ。
しかし、「抜け出せない悪夢、終わらない苦痛、避けられない不幸」といった主人公を襲う理不尽な状況を描く作品においてはいつでも何一つ問題は解決しないままストーリーが幕を閉じてしまう。本作もまた、主人公の青年は必死で逆境に抗うのだが、いつまでも「非日常」は「日常」へと戻らないまま彼を翻弄し続ける。文学においてはカフカやカミュの小説に代表されるこうした不条理劇を、論理性を好む者は好きになれないであろう。
とはいえ、不条理劇が合理的なオチを用意するならば、それはもはや「不条理劇」とは呼べないかもしれない。けれどもパターンの出尽くした現代映画の新機軸として、降り懸かる理不尽な運命という見えない敵に立ち向って勝利する者の姿を描いた物語は良質な人間讃歌としてヒットするかもしれない。『パルプ・フィクション』[3]のコピー・「時代にとどめを刺す」を模して語るなら「不条理にケリをつける」作品が今こそ待望されているのである。「瞳を開けても(オープン・ユア・アイズ)目が覚めない」話はもう食傷気味なのだから。了
[1] デビッド・フィンチャー監督『ザ・ゲーム』1997
[2] デビッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』2001
[3] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994

2008年2月3日日曜日

日本社会を不幸にするエコロジー幻想(武田邦彦著 青春出版社2001)


 美名の下にある存在は批判の目からかくまわれている。だから逆に実際は批判し出せばキリがない程、矛盾と欺瞞に溢れているのかもしれない。そこを舌鋒鋭く暴き立てるのは非常に有意義な仕事だろう。本書は昨今話題の「エコロジー」を俎上に乗せた一作である。
 目からウロコだったのは「省エネは増エネ」という指摘の部分だ。客観的に試算してみると省エネ製品を買うよりも現在使っているものを長く使う方がずっと資源の節約になるという。「買わない、無駄使いしない」という消極的な姿勢こそ実は最もポジティブなエコロジー活動となるのである。しかし、こうした認識は国民だけでなく政府にも欠けているらしく先日「グリーン購入法」なる法律まで制定されてしまった。結局、財界に配慮して経済を第一とする日本政府には「買うな」と消費者に呼びかける勇気はなかったのだろう。
 あるいはリサイクルにおいても「資源利用の効率性」という観点から考えると、ペットボトルやアルミ缶のリサイクルは有害無益でしかないと著者はデータを示して喝破するのである。「リサイクル」それ自体の目的化という主客転倒現象の蔓延を本書は危惧し、エコブームが逆に環境破壊を助長しているという持論を展開していく。環境保護運動に対しても「部分的には正しいが全体としては方向が間違っている」と論難する。
 本書はこのように着眼点は非常に独創的で、読み物として大きな魅力を持つ。けれどもはっきり言えば手放しで賞賛できる作品ではない。この本は「環境保護活動=無意味・無駄」という誤解と偏見を巷間に流布することに一役買っているからだ。
振り返ってみても、自然や資源や暮らしを守ろうとする世論が高まるたびに、この国では必ず既得権益の勢力からカウンター攻撃が繰り返されてきた。原子力発電への反対の声が高まれば東京電力や政府はマスメディアを利用しての派手な「原発安全キャンペーン」を行い、添加物の危険性を告発する『買ってはいけない』[1]がベストセラーになれば『「買ってはいけない」は買ってはいけない』[2]、『「買ってはいけない」は嘘である』[3]が急遽発売され、ダイオキシンの危険性が認識され始めれば「そんなことはない」とする数々の報道がなされ、最近では京都議定書によって地球温暖化問題が大きな社会的関心事となれば、『暴走する「地球温暖化」論』[4]のごとき温暖化そのものを否定するようなものが出版された。アメリカでも、専門家の間では地球温暖化は事実として認識されているにもかかわらず、世間では石油業界等のキャンペーンのために否定論・懐疑論が横行しているという。また、著者は前掲の『暴走する…』の執筆者の一人である。同氏は他にも『環境問題はなぜウソがまかり通るか』[5]シリーズを著している。
本書刊行後、著者はすっかり「反エコ派」論壇の寵児となってしまったように見える。しかし、エコロジーという目的そのものの重要性は社会で広範に共有され、否定することはできないのである。したがって、この分野で批判すべき所があるとするならそれは、エコロジーを実現するための「手段と方法」に関してであろう。それゆえ著者のスタンスは、本書の言葉を借りれば「部分的には正しいが、全体的には間違っている」と言えよう。了
[1] 『週刊金曜日』編集部『買ってはいけない』金曜日2005
[2]夏目書房編集部『「買ってはいけない」は買ってはいけない』夏目書房1999
[3] 日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』文芸春秋1999
[4] 武田邦彦他『暴走する「地球温暖化」論』文芸春秋2007
[5] 武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るか』洋泉社2007

英雄の条件(ウィリアム・フリードキン監督2000)


 「不快な感情」というものを鑑賞後久々に覚えたのだった。その原因は本作から溢れ出て止まない「アメリカ軍は決して間違わない」とでも言いたげな傲慢な雰囲気のためである。一体この映画はどういう狙いで制作されたのであろうか。平和を望む自分のような文民には到底受け入れがたい内容となっている。
 物語の概略は以下のものである。
イエメンにあるアメリカ大使館へ向けて抗議デモを行っていた丸腰の民衆に対し、警備を担っていた米海兵隊が発砲し、多数の犠牲者を出した。この民間人への虐殺行為を巡って軍法会議が開かれ、被告の兵士たちが身の潔白を賭けて争う。彼らはいくつかの物証を発見したことによって、最後に無罪を勝ち取るのだった。
この結末を額面どおりに「ハッピーエンド」だと受け止められる人は、よほどの軍国主義者か、米軍関係者だけであろう。それゆえ、本作がアメリカ以外でヒットするはずもなく、あるいはそれどころか世界中で反米世論を助長してしまいかねない。余りにチープなプロパガンダとしか思えないのだ。
中でも重大な脚本上の問題点を指摘するならば、そもそも「民衆はなぜ激怒して、米大使館に押しかけたのか」という点の説明が何もないことだ。「一つの落ち度もないアメリカ」がそこには描かれているだけである。
彼ら民衆の中に紛れ込んでいた暴徒が発砲し、3名の海兵隊員が殺されたことは事実だとしても、といってそれに対する反撃で83名ものイエメン市民を射殺するのは道義的に許されることだろうか。アメリカ軍の論理ではそれは認められるようだ。だが、一般社会の倫理では決して通用するわけがない。アフガンやイラクで多くの非戦闘員を、「誤爆」によって大量虐殺しても平然としている米軍の姿を連想させるのだった。
こうした米国と米軍特有の「独善性」・「他者への傲慢さ」が世界各地でテロを引き起こしているのは今更言うまでもない。だから自分は、アメリカ人には本作よりも「本作を鑑賞した外国人の反応」こそ是非とも見よ、と訴えたい。「無謬なアメリカ」など最悪の「誤謬」なのだから。了

2008年2月1日金曜日

マグノリア(ポール・トーマス・アンダーソン監督1999)


 何人もの人物のストーリーが同時に進行し、絡み合っていく。「群像劇」の妙は物語同士の「リンク」の仕方と観る者を飽きさせない「テンポの良さ」にあるだろう。その点、『パルプ・フィクション』[1]はお手本のような作品であった。
 それでは本作はどうだろうか。ロサンゼルス郊外に住む12人の人間が同じ一日の間に体験する出来事を描いたストーリーは、どこでどのように結びついてクライマックスへと収斂していくのだろうか。だがしかし脚本は、巧みな手際を披瀝することは遂に最後までなく、結局多くの人物達はすれ違ったままであった。また、それぞれのキャラクターの造形は、トム・クルーズ扮する「性の伝道師」のみが突出した存在感を放っていただけで、その他は印象が非常に薄かった。
 本作のコンセプトは「人生の哀歌」らしいが、その「哀」が類型的で胸に迫るものがなかったことも指摘しておきたい。例えば「死の床に瀕する末期ガンの老人」など余りに安易過ぎる設定に思う。
 ストーリーテリングも、伏線やメタファーをうまく活かせず、冗漫な演出になってしまっていた。編集面でも問題があったのかもしれない。本編3時間という長さが裏目に出ていたようだ。しかし、エンドロールまでずっとバラバラのままの登場人物たちの頭上にはいつでも同じ空が広がっていた。そして、そこからは大粒の雨の代わりに大量のカエルが降り注いで、各人各様が抱えた人生の課題を蹴散らしていったのである。
この結末のために、やはり評論家の間でも本作は賛否両論となっており、松本人志も「僕は決してこの映画を勧めません」と述べている。[2]
 「デウス・エクス・マキナ」のようなシュールな幕引きを「何でもアリが映画の魅力なのだ」と肯定できるか、あるいは「物語の破綻」としか思えないかでこの映画への評価は分かれるはずだ。
ただ、自分は鑑賞後「人生には解決法なんかないんだ。あるのは、前に進む力だけだ。解決法は、後からついてくるものさ。」[3]という言葉をふと思い出し、『マグノリア』が少し好きになった。了
[1] クエンティン・タランテーノ監督『パルプ・フィクション』1994
[2] 松本人志『シネマ坊主』日経BP社2002 70頁参照
[3]サン=テグジュペリ『星の王子様』新潮文庫2006参照

バトル・ロワイアル(深作欣ニ監督2000)


 「子ども」と「学校」という、本来最もバイオレンスとは無縁な素材を用いて大流血のアクションに仕上げたのが本作である。原作の小説[1]の大ヒットを受けての映画化だ。
 「同じクラスの中学生同士が生き残りをかけて、無人島で殺し合う」という余りに反社会的でセンセーショナルな内容ゆえ、公開にあたっては国会で取り上げられたり、映倫によってR15指定にされるなど大きな物議をかもしたことは記憶に新しい。だがこうした騒動が結果的に興業面に多大な貢献を果たしたのだった。
 子ども達が殺戮を繰り広げる話など、ハリウッドでは絶対に制作も上映もできないだろう。しばしば欧米の人々は、「日本はポルノや暴力表現が野放しで青少年に有害だ」と指摘する。とはいえ、それが犯罪に結びつき社会を脅かしている、という客観的なデータはいまだ存在しない。したがって、我が国特有の「表現に対する寛容さ」は文化の発展の原動力として肯定できるだろう。古くは江戸時代の春画、現在ならばレディース・コミック、官能小説、そして数多あるアダルト雑誌。また、コンビニに並ぶたくさんの漫画はヤクザ、格闘技、歴史、SF、ありとあらゆるジャンルを貪欲に題材としている。こうした、エログロ・ナンセンスの広範な土壌が日本の豊かなサブカルチャーを支えているのだ。
 本作の原作も後に『ヤングチャンピオン』誌にて漫画化された。[2]映画よりも一段とオリジナルへ忠実に描かれているため、極めてグロテスクで残虐なものになっている。それが新たなファンの開拓にもつながったという。
 本作自体の評価に移れば、熟練の深作欣二監督ならではの安定した演出の手堅いアクション・エンターテイメントに仕上がっていた。少年少女たちの流血を補って余りある面白さだ。
 この作品は、改めて「表現の自由とは何か」、という根源的な問いを私たちの社会に正面から突きつけた。自主規制、モザイク、カット、修正、年齢制限、公開延期etc、過激な映画に対して、わが国では常に場当たり的な対処がなされ続けてきた。だが、このままでよいのだろうか。文化を殺すのでなく育てるためには、今こそ何が必要なのだろうか。了
[1] 高見高春『バトル・ロワイアル』大田出版1999
[2] 田口雅之『バトル・ロワイアル』秋田書店2000~2005