2008年1月29日火曜日

ペット・セメタリー(メアリー・ランバード監督1989)


 高度に文明化の進んだ現代社会において、「恐怖」や「怪奇」とは主として「突如日常へ闖入してくる非合理的で不条理な存在」であろう。
 日本では前近代、非日常は「ハレ」という概念で語られていた。そして、周囲の山には「もののけ」たちが跋扈していると考えられた。丑三つ時には「百鬼夜行」があるといわれていた。また、西洋でも村を取り囲む森には魔物が住むと恐れられ、人々は近寄らなかった。そして悪魔崇拝の黒ミサも深い森の中で行われた。怪しげな女性は災いをもたらす魔女と見なされ、火あぶりにされた。
 だが時は流れ、啓蒙思想と科学の光が迷信や因習を照らし出し、打ち砕くようになった。そして人々は「理性」の勝利を信じ始めた。だが、あらゆる「闇」の正体が暴かれたと思われる現在でさえ、いまだ謎のまま置き去りにされているものも実は存在する。
 そう、それはすなわち「心にある闇」である。「嫉妬」、「猜疑」、「憎悪」、「怨恨」、「怒り」。私たちは、様々な複雑な気持ちを抱えて日々を生きている。ある一つの感情に全てを支配され、破滅へと突き進む者も数多くいるのである。本作の主人公もそうした一人であった。
 幼い息子を突然の交通事故で喪った主人公は、悲しみに暮れ何も手につかなくなってしまう。だが、そんな折に「埋葬すれば死者が甦る」と言い伝えられている裏山にある土地の存在を知る。そして、息子の亡骸を背負って山の奥深くへと入って行く。しかし、その場所は「禁断の地」と恐れられ古くからの住民達は誰一人近付かないところなのだった。
 「我が子への未練」というとても強く固い思いは、主人公を平穏な「日常」から、魔と闇に包まれた「非日常」へと導いていった。それは惨劇の幕開けに他ならなかったのである。
 スティーブン・キング原作の映画の中では本作は屈指の高い評価を受けている。自分も、緊迫感に溢れた演出と最後まで失速しない見事な脚本につくづく感心した。ゾンビやスプラッターモノとは違い、即物的で視覚に頼る手法ではなく、心理的にじわじわと怖がらせる作風だ。不気味で陰鬱な空気が画面を満たし、独特な世界を生み出すことに成功している。
 生き返った息子はしかし、生前とは別人と化していた。凶暴な人格へと変貌し、殺人を次々と重ねるのであった。そして、実の母の命まで奪ってしまった。息子だけでなく、愛する妻までをも喪った主人公は、再びあの禁断の地へと足を踏み入れていくのだった…
 「ホラー」に属する本作であるが、物語の主題は以上のように「家族愛」だと言える。最愛の息子を亡くした人間の苦しみ、痛み、悲しみ。「もし、貴方が主人公の立場ならどうするだろうか?」と問われている気がするのだ。きっと誰しも「禁断の地」へ進んで行ってしまうことだろう。
 なぜならば、「愛から成されることは全て善悪の彼岸に起こる」(ニーチェ)のだから。了

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