2008年1月16日水曜日

天国の日々(テレンス・マリック監督1978)90点


 「映画」という表現技法が持つ一つの可能性を頂点まで極めたのが本作品だと感じた。
 「カメラはどこまで美を映せるか」、その問いに対して正面からこの作品は答えを提示して見せたのである。どのシーン、どのカットもそのまま一つの絵や写真にしても十分に通用するほどの芸術性を持つ。採光、色彩、構図、いづれも完璧に近いと思う。中でも冒頭の、青空の下、汽車が黒煙を上げながら鉄橋を渡っていく場面には目を奪われるばかりだった。また、主人公とその恋人が雪の降る中、積まれた麦わらの下で二人寄り添い寝そべって、寒さに耐えているシーンにも心を揺さぶられた。
 この映画の耽美的、陶酔的なまでの映像美を作り上げている「もう一つの主人公」は、「空と夕日と麦畑」である。この3つの存在なしには本作品は成立しなかったといえる。
 どこまでも広がる麦畑は、春が来れば緑へ、秋になれば茶色へと見事に染まる。その中を多くの農民達が行き交う。フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』、『種をまく人』等の絵画のように、こうした「麦畑の農民」の姿は、高い芸術性を帯びている。映像において、この「麦畑の美」を引き立てるのが、「空」なのだろう。本作で見られる、雲ひとつ無い青空と地平線まで広がる一面の麦畑は、どこまでも美しいコントラストを奏でていたのだった。
 また、昼は「空」なら、夜には「夕日」が麦畑に鮮やかな化粧を施す。あるいは時折挿入される生物のカットも見事な出来映えであった。しかし、「映像美」を前面に押し出しつつも本作は、それに呑まれないだけの骨太のストーリーも用意している。
 「貧困からの脱出と引き換えに最愛の恋人を他の男と結婚させる」というのが主題となる。主人公が受ける身を裂くような苦しみと痛みが、見る者へも容赦なく迫る。
 物語の最後には、この美しい麦畑は全焼してしまう。そして、主人公は恋人の夫となった地主を殺し、自身も警官に射殺された。
 だが、「燃え上がる麦畑」という悲壮な情景もまた、真っ赤な炎に包まれて幻惑的で、あまりに美しいものだった。
 今はもう、繁栄を極めた麦畑も若き生命も喪われた。しかし、『桜の木の下には死体が埋まっている』[1]と言われるように、春の訪れと共に新たに蒔かれた麦の種は、大地に眠る主人公の亡骸を糧にして大きく育ち、再びかつての栄華を取り戻していくことだろう。
 「美」とはどこまでも貪欲なものなのだから。了
[1] 梶井基次郎『檸檬』集英社文庫1991参照

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