2007年11月28日水曜日

落ち穂拾い(アニエス・ヴァルダ監督)85点


 以前、近所のスーパーを訪れたとき、野菜売り場で、不要なレタスの葉を入れるビニール袋を漁っている老婆を見た。周囲の目など意に介せず、一心不乱に拾うその姿は同情すらも拒んでいた。ちょうどその頃、新聞で、彼女のように「青菜集め」をしているというお年寄りの投書を読んだ。彼らのように微々たる年金だけの暮らしでは、生きるためには仕方のない事なのかもしれない。そして、貧困の広がりが大きな社会問題となっている今、こういった「落ち穂拾い」は、ますます世代や地域を越えて繰り広げられているであろう。
 ホームレス、シングルマザー、若者、中年、子供、芸術家…。収穫後のジャガイモ畑やブドウ園で、摘み残され、廃棄される予定の余り物を黙々と拾い集めていく様々な人々をカメラは克明に映し出す。多彩な彼らだが言うことは皆、異口同音だ。
「まだ食べられるのに、もったいない」。
 腰をかがめて落ちているものを拾い続ける、という行為は本当に惨めで恥ずかしい。けれども、「このまま捨てられるなんて!」という憤りと、「買えばお金がかかる」。という倹約の小さな欲という、2つの強い思いが彼らを駆り立てるのだ。
 この気持ちは庶民にとって、とても身近なものだろう。かくいう僕もまたかつて、パチンコ屋の裏に捨てられていた大量の景品のチョコレートを何度も持ち帰ったり、資源ゴミ回収の日に自転車で町内を回って、綺麗な漫画や本をかごに溢れるほど積めたりしていた。
 こうして手に入れた、たくさんの「タダ」のモノに囲まれて一時の恍惚に浸りながらも、同時に僕は大きな疑問もまた、感じた。それは、作中に出てきた、貧しい人々に食事を支給する『心のレストラン』というボランティア組織で働く男性の言葉を借りればこうだ。
 「一方では、捨てるほど食べ物が余っているのに、他方には何一つ欠けている人がいる」。
 この事実は、無論、一つの国の中にも国と国との間にも常に厳然として存在している。
 「今やろうとしているのは、ただでさえ末端の労働者の収入、所得は減らされていくのに、エリートや経営者たちは、彼らの分まで以上に分捕るという、名実共にアメリカのような社会にしようとしていることが決定的な問題です」。[1]
 生活保護の受給を拒否された失業者の餓死事件が、今の日本では後を絶たない。さらに南北問題となれば、事態はより一層深刻となる。
 「第三世界の国々は飢えた子供たちが食べるはずの食糧さえ輸出にまわし、あるいは巨大なるアグリビジネス(農業資本)の進出によって農地がバナナ、パイナップル、ユーカリ、パームやしなど輸出用作物のプランテーションへと次々に変えられている」。[2]
 したがって、現在の日本は、途上国の人々からだけでは飽き足らず、大多数の同じ日本人からまで、一握りの特権階級が日々の糧を強引に奪い取っている図式なのである。そして、かつてのローマ帝国の貴族のように吐くまで食べ、不味ければ無造作に捨て去るのだ。
 統計を見ても、食糧全体は不足していないといわれる。すなわち、飢餓が起きる本当の原因は、「ピザの分け方」に他ならない。他人が生きるのに不可欠な食べ物まで、肥え太った者が取り上げて、食べてしまうことは決して正当化できないはずだ。
 こうした「ピザの分け方」という問題について、示唆に富む発言を読んだことがある。
 「しかし、もし、それ(食糧)が適当に利用されないうちに、その人の手のもとで腐敗し、消費しないうちに果実が腐ったり、鹿肉が腐ったりすれば、彼は万人に共通な自然法に背いたことになり、処罰を免れえなかったのである。彼は自分の役に立ち、そして生活の便宜を与えてくれるもの以上には、何の権利もないのだから、これによって、彼は、隣人の分を横取りしたことになるのである」。[3] 
 ここで言及されているのは、土地が占有化される以前の古代の話であるが、「使い切れずに腐らせてしまうほど、たくさんの食糧を持つことは許されない」。というルールは、現代にも通じる普遍性を持っているといえよう。それは、他人の食べ物の盗奪となるのだから。したがって、飽食を堪能する金持ち達は、法は犯さずとも、罪を犯しているのである。
 僕自身も以前、庭の金柑の木の実を食べきれないほど多量に摘んでしまい、無駄にしてしまった時は、「なんてもったいないことをしたんだ!」と後ろめたさにさいなまされた。
 けれども本当のところは、この国には粗末にしてよい食糧など、皿一枚分もないのだ。「和風幕の内弁当」というのが、コンビニの棚に並んでいる。その食材を調べてみると、鶏肉はブラジル産、小松菜は中国産、金時豆はボリビア産であり、合計すると、19の食材のうち14が外国産となっているという。19食材の東京までの輸送距離を計算してみると合計約16万キロになる。なんと地球4周分だ。[4]このエピソードは、今年農水省が発表した我が国の食料自給率が8年連続で40%だったことからも納得ができるのではないか。
 また、輸入に依存することは、間接的に外国の人々が生きるための水までも奪っていることになる。牛肉100グラムをつくるのには2トンの水が必要だという。輸出業者は利益を得ても、地下水の汲み上げ過ぎが生産の土台を蝕んでいるのだ。例えばアメリカの中西部の大地下水層は、トウモロコシや麦の栽培に使われているため、30年後にはなくなるという。オーストラリアの学者は「水は大切だ。小麦や牛肉にそんなに使う余裕はなくなる」。と言っている。そして、長距離輸送に伴う石油使用量の増加も、地球温暖化を促進する。[5]
 このように、我々を取り巻く食糧事情は極めて深刻だ。分配も、生産も課題山積である。
しかし、僕たちはそんなことを一向に考えることもせず、平気で食べ物を粗末にし続けてきた。「粗末にするほどなぜ食べ物があるのだろう?」という素朴な懐疑すらしなかった。
 だが、前述した失業者の餓死事件のように、これからは「空腹を満たせない」人々が激増するであろう。今や、日本の貧富の格差はアメリカ並みである。年収200万円台の人口は1000万人にも上る。先日、スーパーでバイトしている弟から興味深い話を聞いた。最近スパゲティの売れ行きが急激に伸びているというのだ。米よりも割安なため、収入の少ない人たちが主食をこちらに代え始めたためではないかと思われる。しかしそのパスタさえも、職を失い手に入れることが出来なくなったら、一体どうすればよいのだろうか。
 二つの方法がある。一つは、落ち穂拾いとなって残り物の食品を漁る道だ。もう一つは、伊で実際に起きたように自分以外のプレカリアート(無安定階級)の者と結束して大群で店舗を襲い、食べ物を略奪する道だ。[6]LA GLANEUSEが、複数形のLES GLANEURS(落ち穂拾い達)へと変わる時世界は真剣に富の配分の不公平を見直すかもしれない。了
[1] 斉藤貴男『みんなで一緒に「貧しく」なろう』かもがわ出版 26頁
[2] 北沢洋子『暮らしのなかの第三世界』聖文社
[3] ジョン・ロック『全訳 統治論』柏書房 183頁
[4] 千葉保『コンビニ弁当16万キロの旅』太郎次郎社エディタス 参照
[5] しんぶん赤旗2006 8/19・8/21参照
[6] ロナルド・ドーア『働くということ』中公新書 参照

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