2007年11月28日水曜日

ロジャー&ミー (マイケル・ムーア監督)95点


 数年前から僕の街では、まず日立が「合理化」を、次に東芝が「コスト削減」を、三井東圧が「減産」を、矢継ぎ早に発表した。つまりは「リストラ」だ。それで、今では市役所の近くにあるハローワークはいつ訪れても働き盛りの中高年たちが鈴なりになっている。
 そんな故郷の斜陽ぶりを僕が一番痛切に感じたのは、小・中・高校の頃、毎日通って眺めていた日立の大きな高層団地がバラバラに解体される光景を偶然目にしたときだった。まるで空襲でも受けたかのように、深くえぐられて内部の鉄筋をこちらにさらけ出した姿、付近に散乱する、かつてここに暮らしていた人々のイスやソファーや机の数々。シャベルカーが毎回動くたび、幾つもの部屋が粉々になって消えていった。工事の派手な騒音だけがこの建物の追悼歌となっていた。
 翌日再び現場を訪ねてみると既に更地になっていて、「売地」の大きな看板だけがまるで墓標のようにぽつんと立っていた。
 「荒涼」というよりもこの現実はあまりに「獰猛」であった。
 僕は激しい怒りを覚えた。けれども、といって何か行動を起こす勇気はなかった。
 だが、ミシガン州フリントでゼネラルモータース(GM)が日立や東芝以上の規模で工場閉鎖と人員解雇を強行した時、この地で生まれ育ったマイケル・ムーアは敢然とその「凶暴」な現実に立ち向かっていった。
 空前の儲けを上げているのに関わらず、さらなる利益のために工場をメキシコに移そうと、GM会長ロジャー・スミスは考えたのである。
 マックス・ウェーバーは「営利の最も自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格を帯びることさえ稀でない」。と既に100年前に述べていた。[1]「ロジャー・スミス」は、今も昔もいる「ありふれた光景」に過ぎなかったのだ。
 したがって地震や台風のように、リストラを「天災」として受け止める人々も多くいる中でしかしムーアだけは、はっきり「ノー」と首を横に振る。これは「人災だ!!」と。
 その戦い方は余りにシンプルである。
「ロジャーに会わせろ!話をさせろ!!」
 この一心でムーアは彼を付け狙い、追い回し、食い下がる。だが、なかなかどうにも接近できない。その間にも、失業者の溢れたフリントでは次々と家賃滞納で人々が街を追い出され、犯罪は激増し、故郷は荒廃の一途を辿って行った。
 「本当にこんなやり方に意味があるのか?」、だから観ている者はそう考えざるを得ない。また、ムーアのスタイルである、この「直撃インタビュー・アポなし訪問」という手法は彼に向けられる批判や疑問の中で最も大きなものの一つに他ならない。
 例えば『華氏911』においても、上院議員たちに「あなたの息子もイラクに派兵してみないか?」と迫る場面は賛否両論だった。
 それでもなぜ、ムーアは愚直なまでにこのスタイルを変えないのだろうか。
 それは、彼の心に溢れているナイーブなまでの「人間性」への信頼のためではないか。
 「最大の悪人、社会の諸法の最も無情な侵犯者であっても、全くそれをもたないことはない」。[2]と、ロジャーを生んだ自由主義経済の理論的基礎を築いた人物でさえ述べている。
「それ」とは、人間が持つ「哀れみ」や「同情」という感情を指す。
 ムーアは、このように強く信じているのだと思う。著書の中でもこう書いている。
 「上院議員、下院議員、その他の代議士は電話、手紙、電報などに極めて敏感だ。毎日、彼らは有権者からたくさんのメッセージを受け取る。週に数分を割いて、あなたの考えを知らしめよう。人々の抗議の声によって、ブッシュの計画を止められるかもしれない。
中略、俺たちはあまりにも、無駄な泣き言を言いすぎる。同じ言うなら、もっと有意義に泣き言を言おうじゃないか。」[3]
だからムーアはいつの時でも、何が何でも当事者に直接会って問い質そうとするのだ。
彼の行動とは、つまりは「民主主義の原点」以外のなにものでもない。
したがって彼に向けられる数多くの反感や顰蹙(ひんしゅく)は、「話せばわかるなんて嘘!」[4]という、言論による政治活動へのシニカルな態度と実は全く同根である。
「仕事で疲れているから難しい問題は考えたくない」、「この席はそんな話をする場でない」、「政治的に偏っているものは良くない」、「何をしても変わらない」などと言い訳だけは雄弁に語りながら、雄弁に語る言葉を持たないリーダーたちを、我々は何ら熟慮もないままに喝采した。そして、政治や雇用や福祉の問題について真剣に考えることを放棄した。
英語が話せないブッシュと日本語が話せないコイズミに、多くの者が「YES」と叫んだ。
同時に、彼らリーダーを「言葉」によって論理的に糾弾する人々を、そのリーダーと重なるような、修辞が欠けた単語の羅列で激しく攻撃した。
「権力は腐敗する、弱さもまた腐敗する。権力は少数者を腐敗させるが、弱さは多数者を腐敗させる」。と、かつてエリック・ホッファーは喝破した。[5]
「批判する者だけを批判する」、「強者を非難する弱者のみを非難する」という大衆はまさに、「腐った弱者」に他ならない。彼らはナチズムの前にもいて今もこれからも存在する。
だからこそ、逆説的に、ムーアの作品は二つの意味で見事なまでに「成功」している。
彼はまず、「作品の内容」自身において、経営者や権力者の不正や欺瞞を暴き出す。
それだけでなく、その作品を、観ることもせずに嫌悪するという選択肢を同時に与えることで、そんな態度を取る貴方こそ戦わない「腐った弱者」だ、と白日の下にさらけ出す。
観られること・観られないこと、いずれにしろ成功し、マイケル・ムーアは二度笑う。
そして、こうして彼の作品が我々に向けて放つ本当の「政治的」メッセージとは、「反権力」を超えた、「話せば伝わる」という「他者の心の可塑性」への固い信頼であり、その可塑性に働きかけるものは決して「暴力」ではなく、「言葉」なのだという強い信念である。
今、日本でも米でも大企業は黒字を更新し続け、一方賃金は減り貧困が加速している。だから、彼が握るマイクは、経営者や権力者の方でなく実は我々の前にこそ、突きつけられているのだ。「マイケル・ムーアです、○○さん、貴方はいつまでこの狂った現実に黙っているのですか?」と。その問いかけに、はっきりとした言葉で応え、実際に何か行動を起こすまで彼は、僕や貴方を四六時中執拗なまでに追い回し、付け狙い、食い下がる。了 

[1] ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫
[2] アダム・スミス『道徳感情論』岩波文庫
[3] マイケル・ムーア『アホでマヌケなアメリカ白人』柏書房
[4]養老孟司『バカの壁』新潮新書参照
[5] エリック・ホッファー『魂の錬金術』作品社

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