2007年11月28日水曜日

エターナル・サンシャイン(ミシェル・ゴンドリー監督)95点


  「別れたこと」も「振られたこと」も、本当はそれ自体が辛くて悲しいものなのではない。実を言えば、その出来事を「覚えている」から苦しくて、「忘れない」から切ないのだ。
 だから主人公のジョエルは、愛したクレメンタインの思い出をラクーナ社に頼んで一つ残らず消し去ってもらうことにした。初めて出会った静かな浜辺も、凍った河から一緒に見上げた星空も、夢中になって戯れた雪の積もった真冬の日も、青く染まった彼女の髪も。
 「忘却は前進をもたらす」(ニーチェ)という言葉が、ラクーナ社のポリシーだ。「幻想は短く後悔は長い」(シラー)とも言う。自分もこう思う。「人間にとって忘却は有害だが人生にとって忘失は有効である」。と。前者は「歴史」のことで、後者は「過去」のことだ。
 例えば自国のかつての戦争は決して忘れるべきでないが、失恋などすぐ忘れた方が良い。
 しかし、「忘れる」ということの難儀さをその後自分は再認識させられたのである。
施術中のジョエルは、脳の中で彼女の記憶をさかのぼり、かつての思い出を反芻してゆくうち、幸せだった瞬間が次々と甦り、徐々に「忘れたくない!」と感じ出すのだ。
彼のこの心境は、身にしみるように分かるところがあった。自分も未だに、何年も前の恋人との写真を一枚も捨てられずにいる。それどころか大切に額に飾ったままである。
人の「記憶」というのはこのように、余りにも主観的でつくづく身勝手なものなのだと改めて思う。嫌な経験はすぐにどこか遠くへ追いやって、心地良かった体験は些細なものでもいつまでも海馬の中心に大事にとどめようとする。絵画に喩えるなら、写実画ではなくゴッホのような印象画に近いと言える。ある心理学者もまた、記憶とは「過去を正確に記録する装置というよりも、熟成により味わいが変化していくワインである」。[1]と述べる。
つまり、前後も大小も遠近も、全く秩序立てて整えられていないのが「記憶」に他ならない。だからこそ、コンピューターから不要になったファイルを削除するように「思い出」は、手際よく消去することができないのだ。とりわけ、中でも最も「主観的」な「愛の記憶」についてならば、いかに取り除くことが困難なのかはジョエルの抵抗を見れば明白だ。
ジョエルは脳の中でクレメンタインと共に、懸命に「消去」の津波から逃げ続ける。彼は全力で彼女の思い出を隠して守ろうとする。そして、それによって彼女への深い愛を、もう一度確認してゆくのである。「やり直したい」。と、切に思い始める。
生きることは後悔の連続だ。だが、たとえタイムマシンが完成したとしても未来には行けるが過去には決して行けない、というのが科学では定説らしい。ならば「過去に戻れない」のなら、ラクーナ社のように「過去を消去」してしまうという手段があるかもしれない。しかし、それもまたジョエルの場合のようになかなかうまくはいかないようだ。
ここに、そんな厄介な「過去」というものの心情を見事に詠い上げた一篇の詩がある。「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに 何かとんでもないおとし物を 僕はしてしまったらしい 透明な過去の駅で 遺失物係の前に立ったら 僕は余計に悲しくなってしまった」[2] だが、その悲しみは時に喜びに成り得る。たとえ過去の記憶を消されて、既知の彼女を未知の女性に変えられてしまっても一途の心が再び二人を結びつけ、途中の愛の続きが始まった。貴女を忘れたことさえ忘れても、運命だから、また逢える。了
[1] 高木光太郎『証言の心理学』中公新書
[2] 谷川俊太郎「かなしみ」『二十億光年の孤独』日本図書センター

0 件のコメント: