2008年10月3日金曜日

大竹駿 さまぁ~ず


ttp://jp.youtube.com/watch?v=JRcz0oh4uLg
やはり、さまぁ~ず大竹はスゴイ 先日のフジ最強コントの中で一番笑えた
演技力、魔の取り方、セリフのどれもが非常に良く出来ていたと感じた。

2008年10月2日木曜日

ザ・コーポレーション(マーク・アクバー, ジェニファー・アボット監督2006)90点


 「法律が悪いせいだ」

 これは、度重なる悪質な偽装請負行為が発覚した際のキャノン会長兼経団連会長である御手洗富士夫の言葉だ。居直り強盗のようなこの言葉からは、反省や謝罪の意志は全く感じられない。しかも派遣労働者が過酷なピンハネによって手取り5,6万しか得られないにもかかわらず彼は自分たち役員の報酬を1億から2億へと引き上げたのだ。[1]

 このような強欲な経営者が財界のトップに上り詰めるまでに至った背景には’80年代以降資本主義諸国に吹き荒れた「新自由主義」がある。

 政府機能を縮小し、民間部門の自由競争を促進すれば高い経済成長が約束されるとする、「市場原理主義」とも形容されるこのイデオロギーによって日米英では次々と規制緩和が進められた。そして、アメリカは自国だけでは飽き足らず、この思想を南米やアジアの途上国にまで強引に「輸出」していったのである。

 例えば、本作で描かれるボリビアのエピソードは作品中で最もセンセーショナルなものだった。アメリカの圧力によって公共部門の民営化が急激に進められた同国では水道局もアメリカ資本のベクテル社に買収された。そして同社は水道料金を以前の2倍以上に引き上げ、それどころか雨水を個人が溜めることさえ禁止する法案を作らせた。これによって多くの住民が生活の危機に瀕し、大規模な抗議活動が勃発する事態に至った。それに対して政府は容赦ない武力弾圧を行い多数の死者と負傷者が出てしまう。しかし、勇気ある住民たちは戦いを止めず、遂にベクテル社を同国から撤退させることに成功したのである。

 「水を飲みたい」という人間として当然の欲求を満たすことがなぜこうまで命がけの行為にされてしまったのだろうか。作中、ある大学教授はこのように暗い展望を語った。

「このままでは、将来的には生きるためのあらゆる権利が無条件で国家に保障されなくなり、企業を通じて買わなければならないものになるだろう」

既にその事態は新自由主義の震源地アメリカで遥か以前から発生している。マイケル・ムーアが『SICKO』で追及したように、この国には公的医療保険が無く国民は自分で民間の保険会社に入らなければならない。だが、貧困ゆえになんらの保険にも入れない人や高額な掛け金を払い続けているにもかかわらず保険請求が受理されず医療費の支払いのために自己破産に追い込まれる人が後を絶たない。あるいは政府が教育予算を渋っているために極めて高額になっている教育費の支払いのため、奨学金貸与を求めて軍隊に志願する若者が多数存在する。経済的弱者は、良質安価な公営住宅が存在しないためにサブプライムのような詐欺的な高利の住宅ローン契約を結ばざるを得ないのである。[2]

同国では「医療・教育・住宅」といった生きるための基本的な権利を何ら国家が保障していないため、国民は自己責任と自助努力でそれらを手に入れることを強いられているのだ。だが他方で、それらを専売する大企業にとってはまさにこの国はパラダイスに他ならない。

しかし、無論企業は収益を上げるために存在し、国民の人生の幸福を目的とはしない。よって、「国民の幸福を目的とする」公営事業を「利益を目的とする」民間企業に譲り渡す新自由主義の手法は根本的に誤っているといえるはずだ。

けれども私たちは今や、「民営化」という言葉に対してさほどの抵抗も感じなくなっている。それどころか「能率がいい」などと肯定的な印象すら抱いている人も多い。それは「企業(Corporation)」という存在の本質が、分厚いベールに包まれて私たちの目から巧みに隠匿されているためである。

本作では「企業」を「法人」という一人の人間と見なしてそのパーソナリティーの分析を精神科医を使って試みる。「株式会社」という制度が近代に誕生して以来、大企業が引き起こした出来事を振り返っていく。すると公害、自然破壊、奴隷労働、軍事利権、不正会計、法令違反、労組潰し等など数多の問題行為が浮き彫りになる。

それゆえ人として見た場合、企業は「他者への想像力が著しく乏しく、道徳観念が無く、平気で嘘をつく」完全な「サイコパス(精神異常者)」である、という結論が下される。とりわけ、IBMがナチスのユダヤ人虐殺に協力する管理用パンチカードを製作して莫大な利益を得ていたこと、NIKEが南米で劣悪な待遇の工場を運営して儲けていることなどは極めて興味深いエピソードであった。ちなみに「民営」とは英語では「私有」と同じ「private」と表記する。したがって「民営化」とはこうした反社会的人格者に公共財が「私有」されることを意味するのだ。こう考えればボリビアの水戦争は起こるべくして起きたと言えよう。

このように、本作の基本的なスタンスは忌憚なき大企業批判である。ただし、旧来の左派が陥りがちな、トヨタの奥田やオリックスの宮内といった経営者個人を「悪徳、非情」として攻撃する手法とは一線を画している点が斬新だ。本作ではCEOもまた、労働者と同じ「人間」であり、一個人としては環境や人権について高い関心を払っている者も少なくない事実を指摘する。ようするに問題の核心は「企業」というシステムそのものにあるとする。例えばどんなに温厚な人間でも刑務所の看守になれば冷酷で高圧的にならざるを得ないように所属する組織と地位が、個人の人格を強制的に変形させてしまう。この意味では、マルクスの言う「自己疎外」は、実は現代の経営者にも生じていると言えるのだ。

また、相も変わらないウォール街とホワイトハウスの癒着ぶりも鋭く告発される。法的には企業は市場経済のプレイヤーであり、行政と議会は審判であるはずだが実際は膨大な献金や天下りによって、公平なジャッジは永遠に葬り去られている。

「中流階級は没落し、国民の大多数に健康保険は適用されない一方、超大金持ちの収入は増え続け、軍需産業は大儲けだ。有権者はもはや、国民のための国民による政府を持ちえていない。存在するのは、特権階級とネオコンのための彼らによる政府なのだ。」

この言葉は意外にも、新自由主義の旗手レーガンの元側近ロバーツ氏のものである。[3]かの国では今や、政治が企業を管理するのでなく企業が政治を管轄する状況に陥っている。だが、国家の主人となった大企業はエンロン事件以降もまた、格付け機関を取り込んで危険なサブプライムにA評価を付けて証券化し世界中にばら撒いて暴利を貪り、そして途方もない負債と失業者を残して破綻した。結局、数十年にわたって地球を席巻した新自由主義とは一体何だったのだろう。

「市場原理主義とは理論の裏付けなき政治的主張である」

経済学者スティグリッツはこのように喝破した。[4]企業はとっくの昔に経済学まで買収していたのだ。富裕層と大企業を優遇しさらに豊かにすれば経済が成長し、中流層と貧困層にまで恩恵が及ぶとする「トリクルダウン」のような彼らにのみ都合の良い、根拠なき数々の「意見」は御用学者の力によって難解な数式にまぶされて崇高な「理論」にまで昇格させられた。逆の立場から見たなら、彼らの本音はいつもこうだろう。

「どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということは誰でも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“大洪水よ、わがなきあとに来たれ!”これがすべての資本のスローガンである。それゆえ資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」[5]

だが、この後には「しかし、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである」という一文が続く。

実はマルクスも本作同様、「経営者もまた資本の犠牲者である」と考えていたことは極めて重要な事実であるといえる。

ちょうどこの文章を書いている今、アメリカではサブプライムの焦げ付きで経営危機に瀕した大企業を救済する金融安定化法案が下院で否決され、NY株価は史上最大の値下げをし、世界恐慌の恐れを真剣に危惧する声が上がり始めた。皮肉にも、貧者を食い物にしたサブプライムローンがきっかけとなって、全世界の富裕層と大企業に未曾有の激震が走ったのだ。彼らが持つ巨大な資本が「わがなき後に来たれ」と望む大洪水は、先に去ったものも後から来たものも今いるものも、金に関わるありとあらゆる全てのものを容赦なく巻き込んで飲み込んで洗い流そうとする。私たちの眼前ではまさに今、黙示録的光景が広がっているのだ。

そしてこの洪水から抜け出す「ノアの箱舟」だけはどんな大企業にも作れないのである。なぜなら、この洪水の源は飽くなきまでに利益を求める「人間の欲望」であり、企業とは「儲かるのなら自分の首を絞める縄でも売る」[6]欲望に特化したシステムに他ならないのだから。了


[1] Wikipedia参照

[2] 堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書2008参照

[3] 「レーガン政権の元高官が危機的状況に警告を発する」週刊金曜日2008/09/05号 8頁

[4] 週刊ダイヤモンド2008/08/30号参照

[5] マルクス『資本論』新日本新書 第2分冊、464

[6] マイケル・ムーア 本編最後でのコメント

宇多田ヒカル 歌姫の変貌 



 一体なぜこんなに変わってしまったのだろうか・・・・芸能界は謎ばかりだ・・・・・・

2008年9月8日月曜日

近頃巷に流行るもの・妖怪「ダダ女」


                       序文に代えて
止むことのない物価高、昨年に引き続いての突然の首相辞任で混迷の度を一層深める政界、私たちの生活を脅かす医療崩壊、雇用不安、年金不信・・・夜明けの見えない我が国で今、はびこり始めた新種の「魔物」がいるという。
それが「妖怪・ダダ女」である。奴らは事あるごとにデートで男に理不尽かつ不可能な要求をし、僕らの身も心も財布もボロボロにする。奴らは純情な男心を弄ぶのを何よりの生き甲斐とし、振り回された男の涙を生きる糧とする獰猛な闇の種族に他ならない。
「ダダ女」、それは男女平等が説かれて久しい現代日本が作り出した鬼子なのか、はたまた世知辛い平成の世に咲いた 時代のあだ花なのか・・・
僕は、哀れにも犠牲となった幾人もの仲間たちの弔いのため、そして個人的な恨みもあり、ついに奴らの実態を告発する決意をした。

「すいませんコーヒーお代わりもらえますか」2008・8・25東千葉駅前バーガーキングにて 

ケイタイがバリ2じゃないとブチキレ、バリ3だと通話良すぎて駄目という
「電波塔女」・・・・いると思います(天津・木村風)
以下、最後に「いると思います」を付けて読んで欲しい。

植物園に行ったのに「パンダが見たい」と騒ぐ、「魚を買いに八百屋へ行く女」

公用車しか乗れないという「公金横領背任汚職女」
 
映画館では必ずM‐13席じゃないとダメという「ジンクス女」

寿限無と歴代徳川将軍全部暗記してないと帰る「記憶フェチ女」

ベイFM入らないとこには行きたがらない「周波数女」

デートの一部始終をオレだけ実名で全部ネットに書き込む「個人情報漏洩女」

「ホリデーパスって何ドル?」なんでもドル換算させる「アメリカン女」

両国で下車するのに総武線は三鷹行きじゃないと揺れが大きいから乗りたくないとダダこねて中野行きを見殺しにする「月刊鉄道ファン愛読女」
新宿駅南口で待ち合わせだとヒトが多すぎてヤだと言いアルタ前で待ち合わせにしてやっぱりヒト多すぎて見つからない、「ウォリーを探せ女」

左ハンドルにしか乗りたくないと言い左ハンドルだと右側の席はいつもは運転席だから落ち着かないとブツブツうるさい、「こだわりの車内アメニティ女」 
デパートのレストランなんか子供が行くところだと怒りスタバもサイゼもダメで「おいしいチャーハンが出る隠れた名店がイイ」と言い張る「食い道楽女」
土曜日はメレンゲの気持ち見て日曜日はサンデージャポン見るから会えないと譲らない「夏休みは毎日タッチの再放送見てました女」
千葉銀のATMが徒歩五分以内に四台あるとこしか行きたくないと騒ぐ「反みずほ銀行女」
渋谷の東急ハンズ行くときは絶対車じゃないとイヤだと言う「都内の駐車料金の高さが分からない茨城女」
円よりユーロしか信用しないと言い張る「変動為替相場女」 低気圧の日は気圧低すぎるから逢えないけど高気圧の日も気圧高すぎて逢えない「森田さんお天気コーナー」女
遊園地は貸し切りじゃないと行きたくない「マイケルジャクソン・ネバーランド」女
先祖が武士か商人以外の男とは付き合いたくない「家計図女」
中華は何でも大好きというのにチンジャオだけは大嫌いな「逆・こだわりの一品女」

週末一緒にビデオ見ようと言うのに絶対一泊でしかレンタルしようとしない「ツタヤ延滞上等女」

東京京行くときは何が何でもアクアライン使いたがる「ゼネコン女」

居酒屋で黒ウーロンないとマジ切れする「福建省女」

ちび丸子ちゃんに間に合わないからと四時に帰宅する「長沢君ち全焼の巻で号泣女」
アップルとトマト をネイティブ風に発音できないと罵倒してくる「NOVA女」
こち亀全巻おねだりする「ブックオフポイントカード3万点女」
デートのプランは雨天用・晴天用・曇り用・曇りのち晴れ用・晴れのち曇り用の五つを必ず用意させる「全てが想定の範囲内女」

レストランや居酒屋で隣の客がキモいと即帰る「客層にうるさい客女」
ナスかナスビかでどこまでももめる「日本語練習帳女」

店員の方が綺麗だと即店チェンジの「嫉妬暴走女」

ドタキャンでなく急用、キャンセルでなく延期と言い張り、敗退を転進と言い換え全滅を玉砕と言い換える「大本営女」

次のデートは8ヶ月後まで無理というビルゲイツ会長ばりの「分刻みスケジュール女」
和牛以外は肉じゃないとうるさくて仕方ない「アンチオージービーフ女」

原宿のクレープを市川で食べたいとねだる「テレポーテーション女」
オレにはオマエっていうのにオマエにはオマエと言うと泣く「アネゴ女」

2月29日しか逢えない「うるう年女」

カラオケではわざと声を潰して歌ってオレに褒めさせる「長淵女」

自分のSuicaを男にチャージさせる「間接貢がせ女」
本なんか読まないのに初版の「羅生門」をねだる「プレミア女」
ネットでオレを農奴としてオークションにかける「奴隷商人女」
カレーライスとライスカレーの違いに納得のいく説明を執拗に求める「似て非なるもの女」

オレとの会話よりヤツとのメール時間の方が長い「心ここにあらず女」

「マジ自動改札とか超ウケるんですけど!」「ファミマ!!笑!!!!」「ミニバン!!!」明らかに笑いのツボが常人とおかしい「天然系不思議女」
「ラルクと私のどっちが大事なのよ!」「ふざけるなメス豚!hydeに決まってんだろ!」
「フラワー熱唱男」
いないと思います

サブプライムローンについて十文字以内で説明を求める「NHK週間子どもニュース女」
普通の会話でオレにファルセット(裏声)を多用させる「ボイトレ女」

「リンゴ、台湾、炊飯器、共通するものは?」難解なクイズばかり出す「ヘキサゴン女」

「寄せ書きしながら生ガキ食べる稲垣食後に歯磨き。首都高尾行、母校は廃校」何でも韻を踏ませて話させる「UKラップ女」

河原でデート中、カメラ映りが悪いから川の流れを逆にしろとせびる「黒澤明女」

「ペットボトルは燃えるゴミ!」と主張して譲らない「名古屋式分別回収女」

「私がオバサンになっても~してくれる?」とイチイチ聞いてくる「森高千里女」

「サンシャインビル消してよ!!!」とねだる「マスクマジシャン女」
                         みんなみんないると思います 続

2008年9月2日火曜日

ダークナイト(クリストファー・ノーラン監督2008)95点


 ハリウッドエンターテイメント大作において、本作は間違いなく近年の最高傑作である。映像技術、脚本、編集、演出、演技どれもが比類なき完成度を誇る。最大の見せ場のアクションシーンは、もはや『マトリックス』を凌ぐクオリティは有り得ないと考えられている現在でも同作に並ぶとも劣らないスタイリッシュでエキサイティングなものに仕上がっている。
 本作を、娯楽作品に否定的な批評家の面々までも称賛せざるを得ない稀代の傑作足らしめたものは、『スパイダーマン』、『マトリックス』、『ハリーポッター』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』等の他のメガヒット作品とは明白に異なるスタンスのためであろう。
 それは、この物語を貫く「リアリズム」と「ペシミズム」だ。他のアメコミヒーローと違い、正体は生身の人間にすぎないバットマンは街を脅かす悪と戦う中で日々、人並みに体は傷つき、心も苦悶する。血を流す二の腕を見ながら「バットマンを続けることで本当にゴッサムシティからいつか悪を根絶できるのだろうか」と。その一方では叶わぬ恋にも苦闘している。
 そんな思い通りにいかないばかりの日常の中、最大最強の敵が彼の前に出現する。それが「ジョーカー」だ。
「世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・名誉をえようと思って悪をなす。」[1]ある名高い思想家はこのように「悪」を分析した。しかし、ジョーカーにはそんな目的はどこにもない。仲間や手下でさえ平気で殺害し、病院を爆破し、街中の銀行から強奪して積み上げた巨大な札束の山にはガソリンをまいて躊躇無く火をつける。彼はまさに「悪のためにのみ悪をなす」常軌を逸した存在に他ならない。
 ジョーカーが持つ猟奇と狂気は実在した殺人鬼の姿を強く連想させる。ゾディアック、都井睦雄、宮崎勤、ウ・ポムゴンetc。彼らは突然、幾人もの人々を次々に殺し始めた。その動機はいまだにはっきりと分からない。
かつてキリストは「心の貧しきものは幸いである」と語り、親鸞は「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と述べて、自ら犯した罪を悔い改める人間こそが天国に行けるのであると説いた。だが、21世紀の現在、こうした悪人像はもはやあまりに牧歌的なのかもしれない。『羅生門』[2]の主人公の下人は平安時代、貧困ゆえ、生きるために盗賊になる決意をした。しかし、現在の凶悪犯にはそういった合理的な理由は見当たらないのだ。ジョーカーはしたがって、間違いなく現代を象徴する「悪」の姿だと言えよう。
ジョーカーは「正義」のシンボルであるバットマンを心底憎悪している。彼に対する恨みだけが、ジョーカーの生きる糧となり、彼に次々と悪事を働かせるのだ。
「バットマンがいるから私がいる」
この言葉が、2人の関係を端的に示す。古代中国の「陰陽思想」によれば、世界は陰と陽の2つの要素から構成されているという。その中には、陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つとする「陰陽互根」という考えがある。この世における「正義」と「悪」の関係はまさに大極図のように深く絡み合ったものであり、相互依存的であり共依存的であるのだ。
だからこそ、例えばアンパンマンもウルトラマンも決して「悪」に対して止めを差すことはいつであれ出来ないし、「世界の警察」を標榜するかの国アメリカも常に新しい「脅威」を探し続けているのだろう。「敵こそ、わが友」という皮肉でやり切れない真実がここにはある。余談だが現在上映中の同名ドキュメンタリー映画では、ナチスの超大物高官であったクラウス・バルビーを戦後、アメリカがファシストの戦犯として裁く代わりに新たな敵である共産主義勢力との戦いに利用した事実が丹念に暴かれている。
バットマンの「落とし子」であるジョーカーは、「正義」ゆえに決して法を犯すことができないというバットマンの弱点を容赦なく突いてくるのであった。ジョーカーはバットマンが正体を明かさない限り毎日1人ずつ罪の無い一般市民を殺害すると宣言し、街を恐怖に陥れた。そして実際に犠牲者が出てしまう。もはやジョーカーの蛮行を止めるにはジョーカーを殺してしまう以外に方法はなかった。ジョーカーは狂人のため、逮捕したところで精神病院送致にされるだけですぐに釈放されてしまうからだ。「法で裁けぬ悪」に対して「法に基づいて」立ち向かうことは勝ち目のない戦いでしかないことはバットマン自身も無論十分に承知していた。バットマンはジョーカーの前に完全な敗北を喫したかに見えた。
「フェアプレーを守るつもりのない者に臨む時はこちらもまた、フェアプレーを守る必要はないのである。さもなければ道理と正義のある側が常に負けることになる。」という文章を文豪・魯迅が生前残していたことを自分は思い出した。[3]無法を当然とするナチスの台頭に対して自由と民主主義を旨とする憲法と法律の範囲内であくまで対処しようとしたワイマール共和国が無残に粉砕され、ヒトラーやバルビーたちに乗っ取られてしまったという歴史上の逸話は彼の警句が極めて現実的であることを表していたといえる。
だが、バットマンは「正義のバットマン」であるがゆえ「フェアプレー」を投げ捨てることが決してできないのだ。彼は、自分もまた法を犯してしまうようになればそれは「悪」と同義であり、ジョーカーの前に屈することになると考えていた。だが一方、バットマンと共にジョーカーと果敢に戦ってきた熱血漢の検事は彼の挑発に乗ってしまう。
最凶の悪の前に激しく葛藤し、それぞれの異なる「決断」を行う主人公2人の姿が描かれることで、本作は単純な娯楽作とは一線を隔てた奥行きある作品に成立している。
最後にもう一度述べよう。バットマンは二重の意味でジョーカーを倒せない。
1つは「正義と悪はコインの裏表である」がゆえに。もう1つは「正義はアンフェアに対してもフェアプレーでしか臨むことができない」ゆえに。
本作のタイトルである「ダークナイト」という言葉はこのジレンマを解くヒントだったことに観る者は最後に気づく。それは、光り輝くヒーローから「暗黒の騎士」(dark knight)へと変わることであり、闇夜を照らす光から己自身が闇夜(dark night)へ成ることである。
ゴッサムシティの唯一の希望は、これからどこへ向かうのだろうか。それは誰にも分からない。物語は明けない夜のまま幕を閉じる。けれども私たちはまた、誰もがある1つの疑いなき真実を知っている。
「夜明け前が一番暗い」ということを。了
[1] フランシス・ベーコン『ベーコン随筆集』一穂社2005参照
[2] 芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫2000
[3] 佐高信『魯迅烈読』2007岩波書店「フェアプレーはまだ時期尚早である」参照

2008年7月3日木曜日

パフューム(トム・ティクヴァ監督2006)80点 


 僕は余りに「匂い」を侮っていた。鑑賞後つくづくそう思ったのだった。
 ジェンダー医学論などでしばしば指摘されることだが、女性は男性よりも嗅覚が発達していて、俗に言う「ビビッときた」や「一目惚れ」も、匂いの一種であるフェロモンの要素によるところが大きいと聞く。[1]先日公表された世論調査でも「異性の身だしなみ」で気になる部分について男性は「メイクの濃さ」をトップに挙げたのに対し女性は「口臭や体臭」を選んでいた。[2] また、クレオパトラもナポレオンも匂いの持つ魔性を十二分に知っていたという。[3]色恋沙汰から世界史に至るまで「匂い」は影の主役といえるほど実は重要な存在なのかもしれないのだ。にもかかわらず、本作冒頭でも語られるように「匂い」は人々の関心の薄い分野であり、歴史書にも残らない地味なものであり、軽視され続けたものである。
 このテーマに関して、マレービアンの法則と呼ばれるコミュニケーションにまつわる有名な話を僕はぜひ紹介したい。
 アメリカのマレービアン博士の実験によると、人がある言葉を話す際に相手に与える印象、「好感の総計」の内訳は「言語7%+声などの周辺言語38%+顔の表情55%」なのだという。[4]意思疎通における非言語情報の大切さ、とりわけ顔の表情の重みを知らしめた名高い研究だが、ここからもやはり、体や衣服から発する「匂い」が他人に対して大きな影響力を本当は持っているのではないかと類推できよう。
 物語の舞台は18世紀、フランスはパリ。しばしば江戸は世界一清潔でエコロジーの進んだ社会だったと評価されるが、当時のかの国はその対極に位置していた。街は糞尿や生ゴミに溢れ、耐え難い悪臭に満ちていた。主人公グルヌイユは、その中でも最もひどい臭いが漂う生魚市場の一角で産み落とされた。彼は生まれつき体臭を全く持たなかったのだが、同時に人智を超えた嗅覚を天から与えられていた。彼の鼻は万物の香りを嗅ぎ分け、体臭を追うことで遥か遠くにいる女性の居場所まで突き止めることが出来た。
 彼は皮なめし職人としてこき使われる日々の中、訪れた街で偶然、絶世の「香り」を持つ若い娘を見つける。そして彼女を殺めてその体臭を嗅ぐという行為に及んでしまう。その後、天賦の嗅覚を買われて彼は街で著名な調香師の下で働くこととなった。だが、ありとあらゆる高貴で優雅な香りに包まれても、あの娘の香りがどうしても彼は忘れられなかった。そして「幻の匂い」を再現し保存しようと遂に禁断の凶行に走ってしまうのである。
それはまさに「何も香水をつけていない女性が一番いい匂いがする。」(プラウトウス)という格言を地で行くものであった。
こうして、悪魔に魂を売った代わりに絶世の香りを手にした主人公は最後にはその匂いの力によってナポレオンのような偉大で神聖な存在へと化けてしまうのである。
もちろんこの物語は虚構であるので誇張や脚色が大いに施されていて一見、荒唐無稽だ。けれども「香り」が持つ神秘性はこの作品を寓話のようにも感じさせる。
この作品を見た翌日、僕は生まれて初めて爽やかな香水の匂いをまとって外に出た。そして、道に迷った時、近くを通りかかった若い女性に場所を尋ねてみた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべながら僕と一緒に目的地まで歩いてくれた。帰りの電車の中でも隣のOLが僕の方に何度もチラチラ目配せしてきた。こんな経験は今までになかったことだ。
この日、僕は間違いなく「王」になったのである。涼しいシトラスの香りによって。了
[1]レイチェル・ハーツ『あなたはなぜあの人の「におい」に魅かれるのか』原書房2008
[2] しんぶん赤旗2008/6/30付参照
[3] 高田明和『人もフェロモンで恋をする―匂いは性のシグナル』講談社1993参照
[4] 佐藤綾子『自分をどう表現するか』講談社現代新書1995 37頁参照

コメディアン ジョージ・カーリン 珠玉の論評(youtubeより)


ttp://jp.youtube.com/watch?v=0N9Vb8EzbnA

 現在のアメリカについて、ここまで歯切れがよくて身もふたも無い言葉を聞いたのはマイケル・ムーア以来 
 どこかの国とそっくり 必見

2008年5月23日金曜日

砂と霧の家(ヴァディム・パールマン監督2003)90点


 本当に私たちが欲しいものは「家」ではなく「家庭」に他ならない、鑑賞後そのように強く強く感じたのだった。
 「夢にまで見たマイホーム」、「一国一城の主」、「庭付き一戸建て」、「田園調布に家が建つ」etc…古くからこの国では「家を持つこと」は庶民の理想であり、最大のステータスシンボルであった。だからこそ父親たちは昼夜を問わず一心不乱に働き続けてきた。
それはまた、『アメリカンビューティー』でも描かれていたように、かの国アメリカでも変わらないことである。
 離婚し、失意の生活を送る主人公キャシーは父が残してくれた海辺の家に住んでいた。だが所得税の未納を理由に、郡によってここを差し押さえられてしまう。そしてすぐに長らく住んだ我が家は競売にかけられた。
 息子の進学費用を稼ぐための投資物件を探していたイランからの亡命軍人・ベラーニはちょうどこの知らせを目にしてすかさず購入の手続きを済ませる。そして転居し、改修工事も始めたのだった。だがその後、今回の一件は全て行政のミスであったことが発覚し、キャシーと弁護士は彼に対して住宅の返還要求を行いだすのである。
 しかし、本国で味わったような華やかな暮らしを取り戻し、最愛の息子の将来を切り開くためにもどうしても経済的な再起を図りたいベラーニは頑として明け渡しを拒み、事態はこう着状態に陥っていく。
 理不尽な形で思い出の詰まった我が家を奪い取られたままのキャシーは、モーテルと車の中で寝泊りする日々を余儀なくされるのだった。そんな困惑し苦悩する彼女の前に、好意を寄せていた警官バートンが近づき、救いの手を差し伸べようと動くのだがそれがやがて大きな破滅をもたらすことになってしまうことになるのだ。
 この物語を織り成す三人はそれぞれが大きな「喪失」を抱えている。キャシーは夫と我が家を失い、ベラーニは故郷と栄光を失い、バートンは父と、妻との愛を失ったまま生きている。そして、癒えることのない痛みを抱きしめたまま彼らの人生は互いに激しく交錯してゆく。
 彼ら三人は誰も皆、完全な善人でも悪人でもない。ベラーニもただの強欲な俗物には描かれていないし、バートンも単純な正義漢ではない。何よりストーリーの中心となるキャシー自身、どこにでもいそうな、精神的にもろくて不安定な女性に造形されている。だからこそ、この作品は非常に高いリアリティを持っているのだ。
 このような「家」を巡る人と人との激しい衝突、という主題は身近であり、同時に私たちそれぞれの中にある「家」に対する執着の心情に対し、突き放した視点から鋭い問いを投げ掛けてくる。
 海辺の小さな家が起こした争いは、遂に悲劇の最期をもたらす。キャシーもベラーニもバートンも、争いの以前に手にしていた暮らしを失い、抱えた傷をさらにひどく深いものへと変えた。
 ある哲学者は「人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する」という価値の転倒した現象を「物象化」と呼んだ。[1]「家」のために「家庭」が崩壊してしまう逆説的で皮肉な出来事はまさにその極致であった。
 けれども現実の世界に目を向ければ、「サブプライムローン」が破綻し、我が家を明け渡して多くのアメリカ人がホームレスになったように、今日もまた、「家」が「家庭」を奪い取り、引き裂き続けているのである。
だからこそ、私たちはそろそろ気づくべきなのかもしれない。
「豪華な“house”は幸福な“home”を必ずしも約束しない」という真実に。了
[1] G・ルカーチ『歴史と階級意識』未来社1998 参照

2008年4月27日日曜日

ディパーテッド(マーティン・スコセッシ監督2007)90点


 DEPARTED=「死者」というタイトルが象徴するようにこの作品は、死線を越えるギリギリのところで命を賭けて戦う2つの組織の男達の姿を描いた物語である。第79回アカデミー作品賞・監督賞を受賞した話題作だ。
 警察とマフィアの抗争をテーマとした映画は多々あるが本作の特徴は、「警察に潜入したマフィア」・サリバンと「マフィアに潜入した警官」・ビリーの二人を主人公にすえていることだ。香港の『インファナル・アフェア』をリメイクしたものだが、オリジナルに比べると「仁義」や「人情」といった人間くさい部分はことごとく排除されていて、どこまでも乾いたタッチで決死の騙し合いが展開されている。
 スパイである彼ら二人が組織の信頼を勝ち取っていけばいくほど当然、機密はますます筒抜けになり、組織の中には逆に猜疑と不信が蔓延していく。そうして「裏切り者」探しが激化する。彼ら二人も互いの正体を突き止めようと血まなこになる。相手より先に自分の素顔を知られてしまえば、それはすなわち「死」と同義である。
 このような極限状況の二重生活を余儀なくされた彼らは皮肉にも同じ精神科医を愛してしまう。彼女の前でだけは彼らは覆面を脱ぎ捨て、素顔をさらけ出すことが出来た。けれども、全てが無情に破滅する瞬間は刻一刻と近づいていたのである。
 おとり捜査が進展する中で、マフィアのボス・コステロが実はFBIと癒着していたことをビリーは突き止める。それを知ったサリバンは「自分はボスに都合よく利用されていただけではないか」と疑心暗鬼に駆られ始めるのだった。
 やがて、ボスの最期の時が訪れる。麻薬取引の現場へ、ビリーの情報を元に乗り込んだ
サリバン率いる捜査班は壮絶な銃撃戦の末、コステロを追い詰めた。サリバンは逃走する彼と対峙して、自らの手で遂に射殺したのである。
 この場面を含めてラストの一連の展開はオリジナルとは大きく違っている。オリジナルの方では「改心し、正義の道を歩んで成功する」ことを決意したために、主人公のマフィアはボスを殺すのだが、本作ではそうではなく「不信と憎悪」のみが動機となって引き金が引かれるのである。その後、サリバンの正体を見破ったビリーが彼と遂に一対一で出会うのだが他にも警察に潜り込んでいたマフィアによってその場でビリーは殺されてしまうのだ。オリジナルでは彼の葬儀のシーンで物語は幕を閉じていくのだが、こちらではそうではなく、ビリーの直属の上司が彼の敵を討つために、サリバンを射殺する場面で終演となる。
 かくもこのように、この作品はオリジナルと比較した際、数段殺伐として、ドライなものとなっている。ここにあるのは、組織のために生きた男達の折り重なった亡き骸だけだ。銃声と流血と死のみがどこまでも繰り返される光景は、まさにオリジナル冒頭で紹介される仏教の「無間地獄」そのものに他ならない。ビリーとサリバン亡き後も警察とマフィアは再び新たな部下を互いの組織に潜入させて、「ディパーテッド」の山が積み上げられていくのである。了

2008年4月17日木曜日

クローバーフィールド/HAKAISYA(マット・リーブス監督2008)95点


 友人のパーティーを撮影していた主人公が大きな爆発を聞いて路上に駆け出し、ハンディカムを向けた先には、轟音を上げて吹き飛んでくる自由の女神の巨大な頭部があった。近くで見ると顔は爪のようなものでえぐられて、ひどく傷ついていた。その直後、地鳴りと共に周囲のビルが粉々に破壊されていった。人々はただ、瓦礫と煙の中を叫びながら逃げ惑うしか術はなかった。一体、今ニューヨークに何が起きているというのだろうか。
 本作は制作者たちの言葉によれば「新感覚のアトラクションムービー」である。喩えて言うなら、遊園地のジェットコースターのスリルとお化け屋敷の恐怖を掛け合わせたような趣向の斬新な作品だ。
 『ゴジラ』や『グエムル』、『キングコング』など都会に出現した怪獣を主役にしたパニック映画を、ホラー作品『ブレアウィッチプロジェクト』や『ノロイ』のようなハンディカム撮影による一人称の擬似ドキュメントタッチで描き出す。こうした試みは本邦初めてであり、1億ドルを超える大ヒットはこのアイデアが見事な成功を収めたことを物語る。
 何よりも特筆すべきは、迫力に満ちた音響効果と、臨場感溢れる手持ちカメラの映像と最新のVFXの巧みな融合である。それによって、巨大な「何か」の存在がどこまでもリアルになって、観客に激しい恐怖を呼び起こす。また、「手持ちカメラ」という制約のために、化け物の全容が露わになるのは、ヘリで主人公たちが空から脱出する終盤だけである。一向に正体が判明しないことが、観る者の緊張感を高いまま最後まで保ち続ける。そしていよいよ姿を見た際に我々が受ける衝撃を、そのおぞましい造形も相まって絶大なものとするのだ。
 あるいは、化け物から産み落とされた小さな怪物たちが真っ暗なトンネルの中で主人公たちに襲い掛かるシーンもあったが、それは『バイオハザード』を彷彿とさせ作品を一層恐ろしいものへと仕上げた。
「大きな化け物」と「小さな怪物」の2つを設定することによって、「もうどこにも安全な逃げ場はないのだ」と観る者を絶望的な心境にさせる。そして、主人公たちがドアを開けるたびに「奴らが来るのでは」とひどく不安がらせるのである。
ただ、このように独創性に富んだ映画ではあるけれども、あえて苦言を呈するとすれば本編85分という長さにも関わらず、冒頭のパーティーの場面が長すぎてテンポが悪くなってしまっていたこと、映像の手振れが激しすぎて気持ち悪くなってしまったことを指摘しておきたい。
しかし、それでもやはり本作には太鼓判を押したいと思う。映画館の大スクリーンでこそ、一見の価値がある。映像は無論のこと、音響をこそぜひ体感してほしい。
「化け物」がNYを進んでいく時の「ズシリ、ズシリ」という身震いするような地響き、軍隊が機関銃や大砲を使って「化け物」と戦う際の激しい発砲音、事態を全く飲み込めないまま一心不乱に逃げ惑う人々が上げる凄まじいばかりの喧騒、ビルや橋が破壊される折に生じるけたたましい轟音…「HAKAISYA」の真髄はこうした「音」の中に間違いなく存在するといえる。
マンネリ化とネタ切れの感が久しいハリウッドにおいて本作はエポックメイキングとなる快心の一作であった。
映画において「発想」がいかに大切かということを改めて思い知らされた。了

2008年4月11日金曜日

改憲幻想論―壊れていない車は修理するな(佐柄木俊郎著 朝日新聞社2001) 


 本書は、昨今かまびすしくメディアや政界で議論されている憲法改正論について、その実態を批判的に分析し、そして現行憲法の可能性を探求したものである。
 まず始めに、「環境権」などの新しい人権や「伝統、公共心の尊重」等の条文を付加するといった類の、現在我が国を覆う閉塞感の打破を狙った憲法改正論の非現実性、無意味さを指摘する。著者のこの意見には全くもって自分も同感であった。かねてから「なぜ憲法の言葉を変えれば世の中が全てバラ色になるというのだろう」と疑問を抱いていたからだ。
 「今の日本人に個人主義が蔓延しているのは、憲法に愛国心の記述がないからだ」等というナンセンスな意見が未だ一部に根強いことに対して著者は、「日本人の中に“十七条の憲法観”という、憲法を道徳や倫理を唱えるものとして捉える見方が強いためである」と解説する。また、自分は日本特有の「言霊信仰」もそれに関係していると思っているので、この点についても書いてもらいたかった。
 そして、著者は現憲法を重々しい聖典としてではなく、実用的な社会のルールブックとして考え、闊達に論議しながらフレキシブルに用いろうと主張する。しかし、今まで実際の政治はこの憲法の理念を活かすどころか全くその逆を歩んできたといえる。さらに「憲法の番人」であるはずの最高裁判所も司法消極主義の立場を頑なに変えず、憲法に反するような立法の成立を許し続けてきた。したがって改憲よりもまず第一に必要なことは、現憲法の理念を実社会に徹底的に体現する努力に違いないだろう。
 また具体的に見た場合、憲法を実際に改正することがいかに困難であるかにも本書は触れる。「国会の3分の2、国民の過半数」を得られるような高いコンセンサスを集められるテーマが本当に存在するのか、と指摘をする。憲法に関して現在かろうじて多くの国民の同意を得られそうなものは「改正に賛成である」という意見だろう。しかし憲法改正の国民投票の題が「貴方は改正に賛成ですか反対ですか」なんてことは100%有り得ない。必ず「どの条項を変えるか」と問われる。けれども国民の過半数が「変えるべき」だと考えている条項が今はどこを探しても見当たらないのだ。この話題に関して、著者はオーストラリアの事例を紹介していた。それは非常に示唆に富むものであった。
 「護憲・改憲」の立場の対立が旧来は左派リベラル対保守・タカ派だったが現在ではこの二分法が成立しなくなっているとも記す。リベラル派の中にも改憲論者が増えているのは「それだけ憲法の価値観が広まり、空気のようになったため」と分析する。護憲勢力の台頭が逆にその衰退をもたらしてしまったというのは皮肉なことだ。一方、改憲派の側には「日本版ネオコン」や「靖国派」といった急進的な勢力が増長していることも自分は忘れてはならないと思う。
 そして何よりも日本国憲法といえば「第9条」がそのシンボルである。本書も最後にこの第9条への考察が展開されている。「自衛のための軍隊も否定する」という解釈に対し、66条「文民条項」追加の件から「自衛力を認めているからこそ、この条項があるのだろう」とし、この解釈を「頑な」と批判するのには強い説得力があった。そして「集団的自衛権」は軍事同盟の思想であり9条の立場からは認められないとする。また、「集団安全保障」は国連の目指す「全ての国の協力で平和の破壊を防止し、抑えるための軍事行動を行う」というもので、前者とは正反対であるとし、PKO活動への参加は合憲であるとする。そして9条の力によって国防も一般行政と同等に扱われ、軍部の暴走が防がれていると述べる。
したがって、9条の理念は「一国平和主義」ではなく、これによって「国際平和への貢献」ができるのだと自分は思う。
先日、マスコミにおける改憲の旗振り役である読売新聞が実施した憲法世論調査においても、15年ぶりに「改憲反対」が賛成を上回り、なかでも9条については改定反対の意見が圧倒的であった。[1]現憲法、とりわけ第9条に対する国民の期待と信頼は今に至って一段と高まってきたといえよう。
著者は「壊れていない車は修理するな!」と訴えるのだ。自分も「修理するのではなくどんどん世界へ向かって走らせるべきだ」と強く感じる。
なぜならば、「永遠平和は空虚な理念ではなく我々に課せられた使命である」[2]のだから。了
[1] 読売新聞2008/04/08参照
[2] カント『永遠平和のために』綜合社2007参照

2008年2月9日土曜日

バウンド(アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督1996)


「作家は処女作に向けて結実する」と言われる。この作品についてもこの言葉は当てはまっていた。脚本・監督を務めたウォシャウスキー兄弟は、下積み時代に育んだ才能を見事に本作で開花させることができた。どこまでもクールでスリリングな、刺激に富んだ犯罪映画がここに誕生した。
評価すべき点はいくつもあるが、とりわけ「同性愛」という重く暗いテーマを逆手にとって、アクティブでポジティブに描き出した点が巧みだった。そこを柱として、アカデミー脚本賞に輝いた、似たテーマの名作『クライング・ゲーム』[1]をほうふつとさせるようなヒネリの効いた脚本で、物語は進んでいく。主人公が殺し屋とマフィアの愛人であるという設定が、二人をタフでクールなカップルにして、「世間の目を忍ばざるを得ないレズビアン」という既存のネガティブなイメージを蹴散らしている。そして、愛し合う強くてしぶとい女二人が、百戦錬磨の悪人どもを出し抜いて勝利するという展開は、本当に痛快であった。
また、映像センスも非常に良い。彼ら兄弟は、日本のアニメから多大なインスパイアを受けていることを常々公言している。メガヒットした次回作『マトリックス』[2]を観ればその事実は容易に分かるが、全く別ジャンルでありCGアクションなどない本作においてもそれは見て取れるのだ。
アニメやコミックと近似した、キャラクターの顔や眼のズームアップ・仕草、カメラアングル等の撮影手法がここでは用いられている。これらは個性的で独創的なシーンを生み出すことに貢献した。
他にも、小道具の「白ペンキ」は憎い位に周到に計算されて登場し、この映画を象徴するアーティスティックで美しい映像を作っていた。
物語の鍵となる盗んだ大金を、主人公はマンションの自室にある白ペンキで満たしたポリバケツの中に隠していた。それが持ち主のマフィアに発覚してしまい、彼がこのバケツの中身をぶちまける。綺麗に輝いた大理石の床一面に真っ白なペンキが広がっていく。そして、次に彼が主人公に射殺されて倒れこみ、白いペンキの海の中に真っ赤な血が流れ込んでいく。これら一連の場面をカメラは終始真上から映すのだった。全てが完璧に狙いすましたカットだといえる。
あるいは、舞台となるマンションの部屋、自動車、衣装、拳銃など、画面に現れるありとあらゆる「モノ」が何もかも異常なまでにピカピカに磨きこまれていたことも指摘しておきたい。アニメの世界では服のシワ、窓の曇り、壁のシミといった実際の世界に存在する「汚れ」が消えている。本作もこうすることによってアニメ的なクリーンでイノセントなビジュアルを獲得することに成功した。
このように本作は映像も脚本も、「スタイリッシュ」の一言である。底なしにカッコ良くて、美しい。同性愛も犯罪も、現実における「タブー」は「アート」へと昇華していた。まさに現代フィルムノワールの第一級傑作だと言えるだろう。了
[1] ニール・ジョーダン監督『クライング・ゲーム』1992
[2] アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督『マトリックス』1999

2008年2月8日金曜日

ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督2001)


 この作品を一言で表現するならば「ソマリア版プラベート・ライアン」だ。派手なBGMも人間ドラマもほとんどなく、淡々とした語り口に徹して、1993年10月3日ソマリアの首都モガディシュで起こった米軍と現地民兵の戦闘の再現を試みている。その迫真の描写はまるで最前線で撮影した戦場フィルムを見ているようである。
 ヒト・モノ・カネの全てに莫大な物量を誇るハリウッドならではの圧巻の映像が、スクリーンから溢れ出してくる。あまりの臨場感に、自分は2回も劇場で鑑賞してしまった。
 『プライベート・ライアン』[1] 以降、この種の「擬似ドキュメント風戦争映画」はトレンドになってきた感がある。ロバート・キャパの写真がそのまま動画になったようなシーンは確かに見応え十分だろう。だが、こうした作風を一概に肯定することはできない。
 昨今の映画界では、SF・アニメ・アクション・ホラー、あらゆるジャンルでCGや特殊メイクといったテクノロジーへ多分に依存し、作品のための「手段」に過ぎなかった映像技術自体が「目的」化している風潮が強くなってきている。
 けれども映画とは、舞台・文学・音楽と建築・絵画・彫刻の要素を総合した「第七の芸術」だと言われるように、「見せる」だけでなく「描く」ものであろう。演技やセリフやシナリオもまた、立派な主人公なのだ。
 また、本作のように物語の「リアリティ」を追求するほど、細部にこだわり過ぎて「外部」すなわち「背景」が捨象されてしまうという重大な問題も存在する。例えば、なぜソマリア内戦にアメリカが介入したのか、米軍の武力行使は正当だったのか、といった疑問が浮かんでも本作はそれに対して何も答えてはいないのだ。
 それゆえ、この映画に向けては「単なる勧善懲悪もので、アメリカ賛美プロパカンダだ」等の厳しい批判も聞く。ようするに、「戦場」は完璧なまでに描かれているにもかかわらず、「戦争」は全くといっていいほど描けていなかった。
 だがそれでも本作は決して「好戦的」な作品とは見えないはずだ。撃墜された軍用ヘリ・ブラックホークの乗組員に襲い掛かる群集、携帯型ミサイルの攻撃で手足を吹き飛ばされた兵士、麻酔もかけずに手術されて絶叫する負傷兵…登場するのは華々しい活躍をする勇ましい米軍ではなく、傷ついて血を流し逃げ惑う米兵ばかりである。実際のこの戦闘がいかに凄惨で死の恐怖に満ちたものだったのかが、十二分に観る者に伝わってくるのだった。
そもそもわずか2時間の中で「戦争」と「戦場」の両方を丁寧に描け、ということ自体が望蜀なのかもしれない。それゆえ、スピルバーグは『プライベート・ライアン』を撮った後再び第二次大戦をテーマにして、映画並みの予算で10時間に及ぶテレビドラマ『バンド・オブ・ブラザーズ』[2]を制作したのだろう。
 「戦場には英雄などいない、いるのは犠牲者だけである」という「真実」を我々に気づかせた点だけでも本作は名作だと言えよう。了
[1] スティーブン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』1998
[2] HBO『バンド・オブ・ブラザーズ』2001

2008年2月7日木曜日

シックス・センス(M・ナイト・シャマラン監督1999)


 本編が始まる前に「この映画にはある“秘密”が隠されています。決して他人に話さないで下さい」というテロップが出てきた。それで、「一体どんな結末が待つのだろう」と期待に胸を膨らませながら観ていたのだがしかし、最期のシーンはどんでん返しに対する驚きよりも、意外なことに、人との惜別による「哀しさ」いう感情を、自分の心に強く呼び起こすのであった。
 「霊が見える」と訴え、周囲に心を閉ざした少年が、その超能力によって人々を救済していく様子がこの物語の中心となっている。
 やり残したことを山積みにしたまま死んでしまった者たちが、この世に未練を残さないで天国に行けるように彼らの手助けをしてあげるのが少年の役割なのだ。しかし、その過酷な使命ゆえ少年自身は全く幸せそうに見えない。そこへ、そんな彼を放っておけず必死になって助けようとする児童精神科医の男が現れる。やがて二人は信頼し合い、実の親子のように寄り添い歩くようになっていくのだった。そして少年の“症状”は改善されて、普通の子どもに戻っていったように見えた。彼は少年を救うことに成功したと思い、ほっと胸を撫で下ろした。
 けれども彼にはもう一つどうしても解決できない、気がかりなことがあった。なぜだか妻にいつも自分の存在を無視されているのだ。食卓には料理が毎日一人前しか並ばないし、結婚指輪も見当たらない。しかも妻は他の男と親密になっていた。そんなある日、ふとあの少年の言葉が頭をよぎった。
 「僕には死者が見えるんだ」
 ラストで、二人の関係の真実が明かされる。「救う」側と「救われる」側が実は180度違っていたことに我々は気づかされるのだ。
 少年は男の霊もまた救済していた。本作はしたがって、既存の恐怖ものではなく「ヒューマン・ホラー」とでも名づけられる斬新なジャンルに属するだろう。今日もまた少年は街を一人で歩いて小さな天使のように、さ迷える魂たちを救い続けている。了

2008年2月6日水曜日

邪魔(奥田英朗著 講談社2001)


 この小説は、不良・主婦・刑事という複数の主人公が織り成すストーリーが並立し、やがて交錯する形式である。著者の前作『最悪』[1]もそうだったが、この手法は単に1+1を2にするのでなく、4や5にするような筆力の有無が成否を分けるポイントとなる。いかに巧みに複数のエピソードをコラボレーションさせるか、そこにこそ作者の真価が問われてくるのだ。その点からいえば、本作ははっきり言って「失敗作」だった。3人の主役達のリンクの仕方が全くスマートではなかったからだ。前作の方がずっと完成度は高かったと思える。
 例えば本作では、主人公の1人である不良青年・裕輔は人物造形が薄く、彼の物語も印象が薄かった。逆に最も躍動感と小気味よいテンポを持っていたのは主婦・恭子の話であった。「キャラが立っていた」と言える。彼女のエピソードはウーマンリブ的な雰囲気を放ち、よく出来た社会風刺の内容ともなっていた。登場人物の中で唯一主体的に現状を打破していこうともがく姿勢には共感がもてた。ただ、結果的には蟻地獄のように彼女は泥沼へと転落してしまうのだが。
 平凡な主婦が小さな幸せを守るために犯罪に走るストーリーは、リアリティに富み非常に読ませるのだが、しかしあの結末はどうしても納得できなかった。なんともやりきれない気持ちにさせられてしまった。確かに全ての主人公たちにふさわしいラストを用意するのは難しいことは察しがつく。誰かを立てれば誰かを犠牲にせざるを得なくなるのは理解できる。また、「誰を幸せにして誰を不幸にするのか」という選択は、作者と読者の間に大きな齟齬を来たす最大の難題でもある。もし本作がドラマだったならばきっと最終回終了後には、抗議の電話が放送局に殺到したに違いないだろう。
 こうした群像劇の魅力は「多彩なバラエティー」にあるといえる。何人もの登場人物がいるため、読者は読んでいて飽きにくいのだ。反対に弱点は、主人公が1人のケースと異なって、キャラの多さゆえ、「見事な結末」を生み出すのが困難なことである。まるで高次連立方程式を解く作業に似ている。映画においては『パルプ・フィクション』[2]や『アモーレス・ペロス』[3]がその点、成功例であり『マグノリア』[4]が失敗例である。後者のようにあえて「オチ」を作らないで「破綻」させてしまう、という方法も一つの手段なのかもしれない。本作もこちらに近かった。けれども、自分はそれを肯定できないのだ。
 なぜならば「一期一会のはかなさ」を美しく描き出すのが、「群像劇」のアイデンティティに他ならないからである。了
[1]奥田英朗『最悪』講談社1999
[2] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994
[3] アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『アモーレス・ペロス』2000
[4] ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』1999

2008年2月5日火曜日

アメリカン・ビューティー(サム・メンデス監督1999)


 リストラされかけているサラリーマンの夫と不動産のセールスをして働く妻、二人の間にいるあまり仲の良くない高校生になる娘、彼らの暮らす、郊外に建つ新築のマイホーム。ローンはまだ何年も残ったままだ。どこにでもいそうな、アメリカの典型的な中流階級の家庭である。「現代家族像」の危機と虚構をを巧みに暴き出したこの映画は快作だ。第72回アカデミー作品賞に輝いた。
 主人公一家は残念ながら誰一人として幸せではない。三人はいつも互いにいがみ合っている。ぎこちなく不自然な会話、微笑みのない食卓、バラバラに過ごす休日。そこにあるのは、乾いて冷め切った心と心のすれ違いだけだ。一体いつからこんなことになってしまったのだろうか。
 そんな日々の折、主人公である夫は娘の友達に恋をしてしまう。そして、彼女が「マッチョ好き」だと知った彼はその日から狂ったように筋トレを開始しだす。彼は変わった。職場にも自宅にも居場所のない、うだつの上がらない中年男が「恋の成就」という明確な目的を見つけたことによって蘇ったのである。
 彼女の存在に比べれば他のどんな物事も、彼には些細なことにしか思えなかった。仕事も家庭も、もはやどうでもよくなってしまったのだ。
 「ふっ切れた」主人公につられるかのように、妻もまた不倫に奔り出し、娘も隣家の男と遊び始める。こうして遂に「ファミリー」は完全に崩壊した。しかし皮肉にも今までと逆に、彼ら3人の心は今みずみずしく潤っていった。「家族」という存在はそれぞれの欲求と感情を強固に縛り付けるくびきでしかなかったのだと観る者は気づかされる。
 主人公はだが、ラストに射殺されてしまう。彼を撃ったのは、娘と付き合っていた隣家の男の父親である。この人物は元軍人で、常に激しくゲイを憎悪していた。しかし、実は自身が同性愛者に他ならなかったのだ。彼は自分の気持ちに正直に生きることが出来ないままであった。ゲイだと知られたくないために普通の結婚をし、子どもを作る選択をした。そして家族のために自己を犠牲にし続けてきた。こうした今までの葛藤が、息子と主人公の関係を「ホモ」だと誤解したことによって、一気に爆発したのである。
 それゆえ、この物語においては既成の価値観が見事に転倒させられている。「家族愛」を何よりの美徳とする従来のアメリカ的な考え方に対し反旗を翻した者たちが「幸せ」をつかみ取り、反対にいつまでも背を向けられなかった人間が最後には破滅した。
 「家族」という存在が父であり夫である男にとって、「人間らしさ」の解放を妨げる重荷でしかなくなったとき、必死で働いた末に手に入れたマイホームは、ローンの支払いで自分を拘束するだけの「自由の檻」と化する。そのとき、「約束された幸福」は郊外の幻と消えていくのである。了

2008年2月4日月曜日

オープン・ユア・アイズ(アレハンドロ・アメナバール監督1997)


 この終わり方には『ザ・ゲーム』[1]や『マルホランド・ドライブ』[2]を連想した。いわゆる「夢オチ」、「振り出しオチ」である。結局、終わったつもりが終わらない、結論は分からないままなのだ。こういったラストは「面白い」と感じる人もいるだろうが、自分は「無責任」だと思い、不愉快になった。見た人全てをアッと言わせるような見事な結末こそが欲しいのだ。
 ミステリー作ではしばしば「結末は誰にも話さないで下さい」、「最後に大どんでん返しが用意されています」といった宣伝文句が謳われている。「日常に起きた非日常の出来事」が物語の土台となるこのジャンルでは、高度に意外性と整合性のある結末が常に要求されるのだ。
しかし、「抜け出せない悪夢、終わらない苦痛、避けられない不幸」といった主人公を襲う理不尽な状況を描く作品においてはいつでも何一つ問題は解決しないままストーリーが幕を閉じてしまう。本作もまた、主人公の青年は必死で逆境に抗うのだが、いつまでも「非日常」は「日常」へと戻らないまま彼を翻弄し続ける。文学においてはカフカやカミュの小説に代表されるこうした不条理劇を、論理性を好む者は好きになれないであろう。
とはいえ、不条理劇が合理的なオチを用意するならば、それはもはや「不条理劇」とは呼べないかもしれない。けれどもパターンの出尽くした現代映画の新機軸として、降り懸かる理不尽な運命という見えない敵に立ち向って勝利する者の姿を描いた物語は良質な人間讃歌としてヒットするかもしれない。『パルプ・フィクション』[3]のコピー・「時代にとどめを刺す」を模して語るなら「不条理にケリをつける」作品が今こそ待望されているのである。「瞳を開けても(オープン・ユア・アイズ)目が覚めない」話はもう食傷気味なのだから。了
[1] デビッド・フィンチャー監督『ザ・ゲーム』1997
[2] デビッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』2001
[3] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994

2008年2月3日日曜日

日本社会を不幸にするエコロジー幻想(武田邦彦著 青春出版社2001)


 美名の下にある存在は批判の目からかくまわれている。だから逆に実際は批判し出せばキリがない程、矛盾と欺瞞に溢れているのかもしれない。そこを舌鋒鋭く暴き立てるのは非常に有意義な仕事だろう。本書は昨今話題の「エコロジー」を俎上に乗せた一作である。
 目からウロコだったのは「省エネは増エネ」という指摘の部分だ。客観的に試算してみると省エネ製品を買うよりも現在使っているものを長く使う方がずっと資源の節約になるという。「買わない、無駄使いしない」という消極的な姿勢こそ実は最もポジティブなエコロジー活動となるのである。しかし、こうした認識は国民だけでなく政府にも欠けているらしく先日「グリーン購入法」なる法律まで制定されてしまった。結局、財界に配慮して経済を第一とする日本政府には「買うな」と消費者に呼びかける勇気はなかったのだろう。
 あるいはリサイクルにおいても「資源利用の効率性」という観点から考えると、ペットボトルやアルミ缶のリサイクルは有害無益でしかないと著者はデータを示して喝破するのである。「リサイクル」それ自体の目的化という主客転倒現象の蔓延を本書は危惧し、エコブームが逆に環境破壊を助長しているという持論を展開していく。環境保護運動に対しても「部分的には正しいが全体としては方向が間違っている」と論難する。
 本書はこのように着眼点は非常に独創的で、読み物として大きな魅力を持つ。けれどもはっきり言えば手放しで賞賛できる作品ではない。この本は「環境保護活動=無意味・無駄」という誤解と偏見を巷間に流布することに一役買っているからだ。
振り返ってみても、自然や資源や暮らしを守ろうとする世論が高まるたびに、この国では必ず既得権益の勢力からカウンター攻撃が繰り返されてきた。原子力発電への反対の声が高まれば東京電力や政府はマスメディアを利用しての派手な「原発安全キャンペーン」を行い、添加物の危険性を告発する『買ってはいけない』[1]がベストセラーになれば『「買ってはいけない」は買ってはいけない』[2]、『「買ってはいけない」は嘘である』[3]が急遽発売され、ダイオキシンの危険性が認識され始めれば「そんなことはない」とする数々の報道がなされ、最近では京都議定書によって地球温暖化問題が大きな社会的関心事となれば、『暴走する「地球温暖化」論』[4]のごとき温暖化そのものを否定するようなものが出版された。アメリカでも、専門家の間では地球温暖化は事実として認識されているにもかかわらず、世間では石油業界等のキャンペーンのために否定論・懐疑論が横行しているという。また、著者は前掲の『暴走する…』の執筆者の一人である。同氏は他にも『環境問題はなぜウソがまかり通るか』[5]シリーズを著している。
本書刊行後、著者はすっかり「反エコ派」論壇の寵児となってしまったように見える。しかし、エコロジーという目的そのものの重要性は社会で広範に共有され、否定することはできないのである。したがって、この分野で批判すべき所があるとするならそれは、エコロジーを実現するための「手段と方法」に関してであろう。それゆえ著者のスタンスは、本書の言葉を借りれば「部分的には正しいが、全体的には間違っている」と言えよう。了
[1] 『週刊金曜日』編集部『買ってはいけない』金曜日2005
[2]夏目書房編集部『「買ってはいけない」は買ってはいけない』夏目書房1999
[3] 日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』文芸春秋1999
[4] 武田邦彦他『暴走する「地球温暖化」論』文芸春秋2007
[5] 武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るか』洋泉社2007

英雄の条件(ウィリアム・フリードキン監督2000)


 「不快な感情」というものを鑑賞後久々に覚えたのだった。その原因は本作から溢れ出て止まない「アメリカ軍は決して間違わない」とでも言いたげな傲慢な雰囲気のためである。一体この映画はどういう狙いで制作されたのであろうか。平和を望む自分のような文民には到底受け入れがたい内容となっている。
 物語の概略は以下のものである。
イエメンにあるアメリカ大使館へ向けて抗議デモを行っていた丸腰の民衆に対し、警備を担っていた米海兵隊が発砲し、多数の犠牲者を出した。この民間人への虐殺行為を巡って軍法会議が開かれ、被告の兵士たちが身の潔白を賭けて争う。彼らはいくつかの物証を発見したことによって、最後に無罪を勝ち取るのだった。
この結末を額面どおりに「ハッピーエンド」だと受け止められる人は、よほどの軍国主義者か、米軍関係者だけであろう。それゆえ、本作がアメリカ以外でヒットするはずもなく、あるいはそれどころか世界中で反米世論を助長してしまいかねない。余りにチープなプロパガンダとしか思えないのだ。
中でも重大な脚本上の問題点を指摘するならば、そもそも「民衆はなぜ激怒して、米大使館に押しかけたのか」という点の説明が何もないことだ。「一つの落ち度もないアメリカ」がそこには描かれているだけである。
彼ら民衆の中に紛れ込んでいた暴徒が発砲し、3名の海兵隊員が殺されたことは事実だとしても、といってそれに対する反撃で83名ものイエメン市民を射殺するのは道義的に許されることだろうか。アメリカ軍の論理ではそれは認められるようだ。だが、一般社会の倫理では決して通用するわけがない。アフガンやイラクで多くの非戦闘員を、「誤爆」によって大量虐殺しても平然としている米軍の姿を連想させるのだった。
こうした米国と米軍特有の「独善性」・「他者への傲慢さ」が世界各地でテロを引き起こしているのは今更言うまでもない。だから自分は、アメリカ人には本作よりも「本作を鑑賞した外国人の反応」こそ是非とも見よ、と訴えたい。「無謬なアメリカ」など最悪の「誤謬」なのだから。了

2008年2月1日金曜日

マグノリア(ポール・トーマス・アンダーソン監督1999)


 何人もの人物のストーリーが同時に進行し、絡み合っていく。「群像劇」の妙は物語同士の「リンク」の仕方と観る者を飽きさせない「テンポの良さ」にあるだろう。その点、『パルプ・フィクション』[1]はお手本のような作品であった。
 それでは本作はどうだろうか。ロサンゼルス郊外に住む12人の人間が同じ一日の間に体験する出来事を描いたストーリーは、どこでどのように結びついてクライマックスへと収斂していくのだろうか。だがしかし脚本は、巧みな手際を披瀝することは遂に最後までなく、結局多くの人物達はすれ違ったままであった。また、それぞれのキャラクターの造形は、トム・クルーズ扮する「性の伝道師」のみが突出した存在感を放っていただけで、その他は印象が非常に薄かった。
 本作のコンセプトは「人生の哀歌」らしいが、その「哀」が類型的で胸に迫るものがなかったことも指摘しておきたい。例えば「死の床に瀕する末期ガンの老人」など余りに安易過ぎる設定に思う。
 ストーリーテリングも、伏線やメタファーをうまく活かせず、冗漫な演出になってしまっていた。編集面でも問題があったのかもしれない。本編3時間という長さが裏目に出ていたようだ。しかし、エンドロールまでずっとバラバラのままの登場人物たちの頭上にはいつでも同じ空が広がっていた。そして、そこからは大粒の雨の代わりに大量のカエルが降り注いで、各人各様が抱えた人生の課題を蹴散らしていったのである。
この結末のために、やはり評論家の間でも本作は賛否両論となっており、松本人志も「僕は決してこの映画を勧めません」と述べている。[2]
 「デウス・エクス・マキナ」のようなシュールな幕引きを「何でもアリが映画の魅力なのだ」と肯定できるか、あるいは「物語の破綻」としか思えないかでこの映画への評価は分かれるはずだ。
ただ、自分は鑑賞後「人生には解決法なんかないんだ。あるのは、前に進む力だけだ。解決法は、後からついてくるものさ。」[3]という言葉をふと思い出し、『マグノリア』が少し好きになった。了
[1] クエンティン・タランテーノ監督『パルプ・フィクション』1994
[2] 松本人志『シネマ坊主』日経BP社2002 70頁参照
[3]サン=テグジュペリ『星の王子様』新潮文庫2006参照

バトル・ロワイアル(深作欣ニ監督2000)


 「子ども」と「学校」という、本来最もバイオレンスとは無縁な素材を用いて大流血のアクションに仕上げたのが本作である。原作の小説[1]の大ヒットを受けての映画化だ。
 「同じクラスの中学生同士が生き残りをかけて、無人島で殺し合う」という余りに反社会的でセンセーショナルな内容ゆえ、公開にあたっては国会で取り上げられたり、映倫によってR15指定にされるなど大きな物議をかもしたことは記憶に新しい。だがこうした騒動が結果的に興業面に多大な貢献を果たしたのだった。
 子ども達が殺戮を繰り広げる話など、ハリウッドでは絶対に制作も上映もできないだろう。しばしば欧米の人々は、「日本はポルノや暴力表現が野放しで青少年に有害だ」と指摘する。とはいえ、それが犯罪に結びつき社会を脅かしている、という客観的なデータはいまだ存在しない。したがって、我が国特有の「表現に対する寛容さ」は文化の発展の原動力として肯定できるだろう。古くは江戸時代の春画、現在ならばレディース・コミック、官能小説、そして数多あるアダルト雑誌。また、コンビニに並ぶたくさんの漫画はヤクザ、格闘技、歴史、SF、ありとあらゆるジャンルを貪欲に題材としている。こうした、エログロ・ナンセンスの広範な土壌が日本の豊かなサブカルチャーを支えているのだ。
 本作の原作も後に『ヤングチャンピオン』誌にて漫画化された。[2]映画よりも一段とオリジナルへ忠実に描かれているため、極めてグロテスクで残虐なものになっている。それが新たなファンの開拓にもつながったという。
 本作自体の評価に移れば、熟練の深作欣二監督ならではの安定した演出の手堅いアクション・エンターテイメントに仕上がっていた。少年少女たちの流血を補って余りある面白さだ。
 この作品は、改めて「表現の自由とは何か」、という根源的な問いを私たちの社会に正面から突きつけた。自主規制、モザイク、カット、修正、年齢制限、公開延期etc、過激な映画に対して、わが国では常に場当たり的な対処がなされ続けてきた。だが、このままでよいのだろうか。文化を殺すのでなく育てるためには、今こそ何が必要なのだろうか。了
[1] 高見高春『バトル・ロワイアル』大田出版1999
[2] 田口雅之『バトル・ロワイアル』秋田書店2000~2005

2008年1月31日木曜日

スターシップ・トゥルーパーズ(ポール・バーホーベン監督1997)


 一度観たなら当分夢に出てきそうなほど、不気味で凶暴な「虫」たちだった。本作は人類と異星に住む巨大昆虫の戦争を描いた大作である。
 ジャンルはSFなのだが、R15指定にされてしまうような血みどころのバイオレンスシーンをふんだんに盛り込んでいるのが最大の特徴だ。蚊や黄金虫に良く似た象のように大きい虫たちが鋭い足で兵士を串刺しにして、あるいは首を切断し、または酸の液体を吐き出して腕を溶かす。こうした凄惨な戦闘場面がこれでもか、と続いていく。
 宇宙船や地球連邦軍が登場する未来、という一見子どもが喜びそうな舞台設定に激しい暴力をテイストしたバーホーベン監督は「残酷ファンタジー」とでも呼べるジャンルのパイオニアである。映画においてはこの種の作品はまだ珍しいが、漫画では『ベルセルク』[1]、活字では『本当は恐ろしいグリム童話』[2]など既にいくつも挙げられる。
ベネトンの広告のごとく人々の神経を逆撫でする挑発的な映画だってもっとあっていい。了
[1]三浦健太郎『ベルセルク』白泉社1989~
[2] 桐生 操『本当は恐ろしいグリム童話』KKベストセラーズ1998

2008年1月29日火曜日

グラディエーター(リドリー・スコット監督2000)


 歴史活劇映画といえば、古くは『スパルタカス』[1]、『ベンハー』[2]、昨今では『ブレイブハート』[3]が名高い。いずれも何部門もアカデミー賞を受賞した。とりわけ自分は『ブレイブハート』にはとても感動させられた。
 こうした古代・中世スペクタクル作品において成功の是非を決めるのは「質」ではなく「量」である。城や村を再現した大掛かりなオープンセット、剣や兜、鎧、貴族の衣装といった一連の装飾品への惜しみない予算の投下。そして何よりも「大量のマンパワー」が必須となる。一度に一箇所に数万人というエキストラを集めて行う合戦シーン、これがこのジャンルの最大の見せ場だからだ。
 超大作であった本作は、それゆえ制作費が1億5千万ドルにも及んだ。それは見事に作品のクオリティに反映されて、見るもの誰をも魅了する作品へと完成したのだった。従来の歴史もののように豪華絢爛なビジュアルだけでなく、最新のCG技術も駆使して主人公が虎と戦う場面など数々の名アクションシーンも作り上げている。
 名声をひがんだ皇帝によって命を狙われて妻子を殺されたローマ軍の将軍が、剣闘士になって復讐を果たすという物語は、日本の時代劇でもお馴染みの構図だが冒頭で描かれる主人公の栄光の時代と、その後の没落ぶりの落差によって観る者は強く感情移入してしまう。
 最後には、皇帝を道連れにして主人公も命を落とす。ハリウッドの定番である手放しのハッピーエンドではないのだけれども、はかなく悲しいラストシーンはいつまでも余韻を残すのだった。文句なく楽しめる大作だと断言できる。了
[1] スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』1960
[2] ウィリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』1959
[3]メル・ギブソン監督『ブレイブハート』1995

エイリアン(リドリー・スコット監督1979)


モンスター映画は多々あれども本作ほど斬新で強烈なインパクトを与えるものは少ない。
スイス人画家H・R・ギガーの手によるこの怪物「エイリアン」は、トカゲのような長い尻尾とゴキブリのような黒光りした表皮、異常に長い後頭部を持ち、口の中からはもう一つの口が出てくる。そして巨大な体躯で2足歩行をし、容赦なく人間に襲い掛かる獰猛な性格だ。いまや「ET」と対を成す宇宙人として、絶大な人気を博すようになっている。
 しかしストーリーは、従来のホラー映画のセオリーを踏襲している正統派だ。「緊張」と「緩和」、「静寂」と「喧騒」を効果的に織り交ぜ、スリルに溢れた作品へと仕上げている。光や闇を巧みに用いた映像も特徴だ。こうした優れた演出によって、稀代の怪物の魅力をフルに引き出すことに成功した。
 宇宙船の内部という、限定された密室空間の中でどこに潜むか分からないエイリアンと死闘を繰り広げる主人公たち。だが、凶暴なモンスターの前に一人また一人とクルーは犠牲になっていくのだった。
 本作が作られた1979年前後は、ケネディ大統領のアポロ計画、レーガンのSDI構想等、人類による宇宙進出が著しい速度で実現している時期だった。広い銀河系の彼方に道の生物がいるのではないか、と多くの人々が想像を膨らませていたことだろう。けれども大きな大きなこの宇宙には人類の力などでは到底太刀打ちできない怪物も存在しているのかもしれない。人類が核開発に邁進している最中に『ゴジラ』[1]が製作され、自らのエゴで水爆実験を行い、自然を破壊する我々の傲慢さを告発したように、本作も、我が物顔で月や火星に乗り込もうとする人間の驕り高ぶった態度に対する手痛い叱責をしているようにも見えた。
22世紀、資源を目当てに兵士達を月に送り込んだのならきっと「エイリアン」に返り討ちにされることだろう。了
[1] 本多猪四郎監督『ゴジラ』1954

ペット・セメタリー(メアリー・ランバード監督1989)


 高度に文明化の進んだ現代社会において、「恐怖」や「怪奇」とは主として「突如日常へ闖入してくる非合理的で不条理な存在」であろう。
 日本では前近代、非日常は「ハレ」という概念で語られていた。そして、周囲の山には「もののけ」たちが跋扈していると考えられた。丑三つ時には「百鬼夜行」があるといわれていた。また、西洋でも村を取り囲む森には魔物が住むと恐れられ、人々は近寄らなかった。そして悪魔崇拝の黒ミサも深い森の中で行われた。怪しげな女性は災いをもたらす魔女と見なされ、火あぶりにされた。
 だが時は流れ、啓蒙思想と科学の光が迷信や因習を照らし出し、打ち砕くようになった。そして人々は「理性」の勝利を信じ始めた。だが、あらゆる「闇」の正体が暴かれたと思われる現在でさえ、いまだ謎のまま置き去りにされているものも実は存在する。
 そう、それはすなわち「心にある闇」である。「嫉妬」、「猜疑」、「憎悪」、「怨恨」、「怒り」。私たちは、様々な複雑な気持ちを抱えて日々を生きている。ある一つの感情に全てを支配され、破滅へと突き進む者も数多くいるのである。本作の主人公もそうした一人であった。
 幼い息子を突然の交通事故で喪った主人公は、悲しみに暮れ何も手につかなくなってしまう。だが、そんな折に「埋葬すれば死者が甦る」と言い伝えられている裏山にある土地の存在を知る。そして、息子の亡骸を背負って山の奥深くへと入って行く。しかし、その場所は「禁断の地」と恐れられ古くからの住民達は誰一人近付かないところなのだった。
 「我が子への未練」というとても強く固い思いは、主人公を平穏な「日常」から、魔と闇に包まれた「非日常」へと導いていった。それは惨劇の幕開けに他ならなかったのである。
 スティーブン・キング原作の映画の中では本作は屈指の高い評価を受けている。自分も、緊迫感に溢れた演出と最後まで失速しない見事な脚本につくづく感心した。ゾンビやスプラッターモノとは違い、即物的で視覚に頼る手法ではなく、心理的にじわじわと怖がらせる作風だ。不気味で陰鬱な空気が画面を満たし、独特な世界を生み出すことに成功している。
 生き返った息子はしかし、生前とは別人と化していた。凶暴な人格へと変貌し、殺人を次々と重ねるのであった。そして、実の母の命まで奪ってしまった。息子だけでなく、愛する妻までをも喪った主人公は、再びあの禁断の地へと足を踏み入れていくのだった…
 「ホラー」に属する本作であるが、物語の主題は以上のように「家族愛」だと言える。最愛の息子を亡くした人間の苦しみ、痛み、悲しみ。「もし、貴方が主人公の立場ならどうするだろうか?」と問われている気がするのだ。きっと誰しも「禁断の地」へ進んで行ってしまうことだろう。
 なぜならば、「愛から成されることは全て善悪の彼岸に起こる」(ニーチェ)のだから。了

2008年1月27日日曜日

愚か者/傷だらけの天使(阪本順次監督1998)


 主役である真木蔵人の「イカれた」演技が一番印象的であった。この彼の「怪演」ぶりを本作はしかし、活かしきれていなかったというのが正直な感想である。
 コミカルタッチが基調となっているのだが、そのノリが随分空回りしていた。笑いはとても予定調和で、見る側に先読みされてしまい、興ざめであった。また、この基調も鈴木一真扮する相方がむやみに振り回すナイフがかき乱してしまっていた。小道具にナイフを重用したのも失敗だし、その必然性もよく分からない。
また、なぜいきなり彼が警官から銃を奪う必要があったのかも疑問だ。全体的に本作のストーリーは散逸で行き当たりばったりなのである。否、これこそが本作のストーリーなのだというのなら、それは「J文学」とそっくりだ。どうでもよいような日常の出来事をしまりなくダラダラと書き綴るあのスタイルは自分には何の魅力も感じさせない。本作はとりあえず「映画」という技法を採っているので、J文学とはもちろん全く同じというわけではなくところどころに「非日常」を挿入せねばならなかった。が、その目論見はまんまと失敗し、大して盛り上がりもしなかったのである。
「邦画」というものは日本人にとって「日常」の地平の延長上にある。「同じ言葉を話す同じ外見の人々」から構成されているのだから。そのため、非日常を描くアクションやホラーのジャンルといえども洋画と比べればそのインパクトは弱まらざるを得ない。それならば、本作のような「J文学もどき」の映画はそれこそ、「銀幕を使った動く日記」になってしまう。無論、小津安二郎の『秋刀魚の味』の例のように、本国人には面白く思えない邦画も海外で上映したならば、向こうの人にとってはこちらの「日常」が「非日常」であるため、高い評価を受けることもあろう。
お金を払ってまでスクリーンに「日常」を観たい人などいない。それは世界共通である。了

八月のクリスマス(ホ・ジノ監督1998)90点


 鑑賞を終えると涙は溢れて、思いは焦がれた。平穏で凡庸な日々の暮らしの中で忘れがちな人生本来の「切なさ」、「はかなさ」という気持ちをこの作品は真正面から自分に思い起こさせたのだった。 
 残された生の時間が後わずかとなった時、「世界」と「愛」はどのように変わるのか、それを静かで優しいタッチで本作は描き出す。
 まだ若さの残る、写真店を営む男。だが、悟りきったかのように終始泰然とした穏やかな立ち居振る舞いをする。駐車違反の取締り業で働く女性タリムも彼のこうした人柄に惹かれていく。そうして街の片隅でほのぼのと育ち始める愛。けれども二人の前には余りに残酷な現実が待ち受けていた。彼は病のために、もはや余命幾ばくもなかった。
 ストーリーはシンプルな部類に入るといえるが、所々に物語を輝かせる巧みなアイデアが仕掛けられている。
 例えば、主人公がスクーターを使って行動する点だ。バイクや自動車でなくあえて「スクーター」を選んだことは彼のキャラクターに非常にマッチして見えた。小さくて速度も遅いけれど愛らしいこの乗り物は、彼の生命と性格を表す隠喩に他ならなかった。そして、アジア特有の雑多で喧騒的で人に溢れた街の中を二人を乗せたスクーターが疾走していくシーンは、どこまでもイノセントで爽やかであった。
 また、「思い出」や「記憶」の象徴である「写真」を扱う商売を主人公が営んでいるという設定も素晴らしい。観る者はどうしても、間もなく亡くなってしまう彼自身の「追憶」を思い、「最後の恋の成就」を願わずにはいられなくさせられる。
 物語の終盤、老婆が遺影用の写真を撮ってもらいに死の間際の主人公の店を訪れる、という皮肉で無情な場面があった。けれども彼はやはりいつものように朗らかな表情で何一つ取り乱すことなくシャッターを押したのだった。
 この老婆が去った後、彼はもう一度シャッターを切る準備をした。自分自身の遺影を撮るために。
 「余命わずかの者の愛」という主題の本作から強く伝わってくるのは、「世界の見え方の変化」だ。自分の生命の限界、死の時期が確定したとき、自身を取り巻く全ての存在は「未来」ではなく「過去」へ、「記憶」へと凄まじい速さで逆行し出す。『ソフィーの世界』[1]では「『死』とは『私』から『世界』が消えること」と書かれていたが同じことを指すだろう。
 今まで当然のように思えた風景や事物がまばゆく輝き始め、狂おしいほど愛おしくなる。そして、自分の周囲の全ての人々を赦し、受け入れられるようになる。だからこそ主人公はあれほど澄んだ優しい目をしていたのであろう。
 彼の死にどうにか間に合わせるように、不思議な運命の力は彼と彼女を8月に出会わせた。タイトルの「8月のクリスマス」とはだから、神様がサンタになって、少し早めのクリスマスプレゼントを特別に彼に与えた、という意味に思える。そして彼の死後、この写真店は彼女がしっかりと受け継いだ。
 彼が逝ったその日、雪が街を真っ白に染め上げた。彼の魂の美しさ、清廉さを表すかのように。それは奇跡の情景だった。了
[1] ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』日本放送出版協会1995参照

2008年1月26日土曜日

ブレードランナー(リドリー・スコット監督1982)95点


 「最高傑作」とまで評されるSF映画の代表であるが現在になって観た場合、率直に述べればインパクトはそれほどではない。
 SFXの点では今の作品の方が遥かに進歩している。ストーリーも他に優れたものは昨今多々ある。だが、それでもなお熱烈な人気を誇り、揺らぐことのない存在感を維持しているのはなぜだろうか。
 その理由は、アクション映画における『ダイハード』、推理小説における松本清張作品のように「古典」としての不動の地位を獲得しているからであろう。『ブレードランナー』の前と後ではSF映画のパラダイムは全く変わってしまった。
 哲学者ホワイトヘッドは、「ヨーロッパ哲学史は全てプラトンの注釈に過ぎない」という有名な言葉を残した。「古典」とはこのようなものなのだ。「ほこりと暗闇に包まれた都市」という独特な近未来の世界観、「自己同一性」というデカルトやヴィトゲンシュタインに通じる深遠な哲学的主題。そして圧倒的な映像センス。『ブレードランナー』を語ることなしに現代のSF映画は語ることができない。
 けれども「古典」は時代とともに解釈のされ方も変容してくる。そして、やがてその作品は換骨奪胎されて、新しい「古典」が登場する。例えば『マトリックス』は、本作の影響を受け続けていたこのジャンルに斬新な風を吹き込んだ。芸術とは「古典」の脱皮の歴史なのである。了

2008年1月25日金曜日

僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ(アニエスカ・ホランド監督1990)80点


 ユダヤ人である主人公・ソロモンは第二次大戦中、ナチスに追われ一家でドイツからポーランドへ疎開する。しかし、姉はヒトラーユーゲントの手で殺害される。そして家族はバラバラとなり、彼はその後コムソモール(共産主義教育舎)に逃げ込んだのだった。
 そこでは徹底的なスターリン賛美と宗教批判教育が実施されていた。「宗教は科学的でない」、「共産主義は科学的に正しい」と教師たちは子どもたちへ熱心に説いて回る。
 だが、遂に自身もナチスに捕えられてしまい、命は助かったものの、今度は通訳としてドイツ軍で働くことになるのだった。皮肉にもこの仕事で彼は出世して、将来のエリートのために造られたヒトラーユーゲント育成学校へと送られていく。ここでクラスメートのレニという少女にやがて淡い恋をするようになる。だが、ユダヤ人である主人公は正体を知られれば一貫の終わりのため、どうしても関係を深めることが出来ずに苦悶するばかりだった。そうこうしているうちに彼女は他の生徒に奪われて妊娠する。だから主人公はひどく傷心したのだった。
だが、それでも彼はその後も戦禍の中を全速力で駆け抜けていった。全ては「生き残る」というただ一つの目的を果たすためである。
このように主人公の青春は、戦争の時代、「全体主義」と「共産主義」という左右双方のイデオロギーに翻弄されるばかりだった。どちらの陣営も主人公と同じ純粋無垢な少年・少女たちを時の権力者の思想に染め上げて支配体制を磐石なものにしようと必死だったこともまた、本作からはよく見て取れる。
 そのため彼は「ファシスト」と「コミュニスト」という2つの分裂した自我を持たざるを得なくなってしまった。けれどもイデオロギーは所詮彼にとっては「生き残る」ための方便にしか過ぎなかったことも理解できる。まだ幼い主人公であったが、しかしどんな大人たちよりもしたたかで力強い「生きる意志」を持っていたといえよう。
 驚くべきことにこのストーリーは紛れもない実話なのである。ユダヤ人少年・ソロモンは実在の人物なのだ。したがって、この真実の物語は観る者皆に「どんな逆境であろうと決して絶望する必要などない」と熱く語りかけているように感じた。この映画は美しく高らかな、奇跡の生命賛歌に他ならないのだ。了

2008年1月23日水曜日

スプラッシュ(ロン・ハワード監督1984)90点


 幼い頃の思い出には今からすれば虚実ない交ぜの不可解なものが多い。ラグビーボール位のサイズのハチを見た、人面犬を見た、UFOを見たという話をする人もいる。そしてこの映画の主人公は「僕は人魚を見たんだ!!」と子供のとき真顔で語るのであった。
 しかし、成長するにつれてその確信は徐々に薄らいでいく。多くの人はこうして「迷信」と決別していくのだが、けれども彼はその気持ちをいつまでも捨てきれないままだった。
 彼が大切に守り続けた幼心は、やがて報われることとなる。ある日、大人になった彼の前に突如あの「人魚」が現れたのである。
 「人魚」というファンタジックで非現実的な存在をいかに「リアル」に描くか。この点、本作は非常に上手だったといえる。設定を巨大都市「ニューヨーク」に大海から迷い込んだ人魚、とすることによって「環境の激変に激しく動揺する人魚と、捕獲しようとうごめく政府やメディアから彼女を守るために孤軍奮闘する主人公」のロマンチックなドラマを生み出すことが出来た。
 また、優れた作品には必ずといっていいほど卓抜なアイデアが散見されるが、本作の場合、「人の姿に変身した人魚に水をかけると足が尾ひれに戻ってしまう」という独自の着想が物語を二転三転させるスリリングなものとして見事に機能している。その年度のアカデミー脚本賞にノミネートされたことも納得がいく。
 そして、荒唐無稽な話だけれども、主人公と人魚の軌跡はラブストーリーの王道を踏襲しているので、ベタだが手堅く観客のツボを押さえていた。
 愛し合う二人の前に立ちはだかる障壁が大きければ大きいほど、恋の成就を観る者は全力で応援したくなってしまうのが世の常だ。
 そんな障壁の中でも「愛した人が人間ではない」ケースほど困難で盛り上がるものはないだろう。
それゆえ映画の題材として、本作以外にも名作『ベルリン天使の詩』[1]など「恋愛」プラス「ファンタジー」ものは極めて相性が良いのである。
 鑑賞後、自分は小さな頃に近所の喫茶店で食べたチョコレートパフェの味を思い出したのだった。「童心」をいつまでも無くさないこと、それは世知辛い世の中とほろ苦い人生をもっと甘いものへと変えてくれるはずだ、きっと。了
[1] ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』1987

アメリカンヒストリーX(トニー・ケイ監督1998)90点  


 かの慈悲深きシュバイツァー博士は生前このように語った。
 「人類は皆兄弟である。白人は兄であり、黒人は弟である」。
 アフリカに渡り、原住民への医療奉仕とキリスト教の伝道に努め1952年にノーベル平和賞を受賞した同氏は無論、偏狭な人種差別主義者ではなかった。だが、「啓蒙」という立場からこのように考えていたと思われる。[1]
 確かに近現代史は白人が中心だった。だが、彼らを下支えしたのは欧米の植民地に暮らす黒人と黄色人種の人間たちだったのである。それゆえ、「兄弟」どころか、「非白人種」との関係を「主人と使用人」のそれだと思い込む白人は現代でも少なからず存在している。
 だからこそ、自身の不遇の理由を全て「ヒスパニックや黒人たちが職を奪ったせいだ」などと真顔で話す者まで現れるのだ。本作の主人公もこうした白人の一人であった。
 黒人の強盗に父親を殺された彼は白人至上主義団体に参加するようになる。そして他人種への激しい迫害活動を煽動して頭角を現していく。やがて彼は、自動車を盗みに来た黒人2人を射殺する事件を起こして逮捕された。
 2年の刑期を終えて彼は仲間の下へ帰ってくるのだが、しかしかつてのような燃え盛る憎悪と闘志はどこにも無くなっていたのだった。それどころか、この極右団体に加入した弟を「馬鹿げてるから止めた方がいい」と説き伏せようとするのである。
 一体、主人公の身に何が起きたというのだろう。物語は、2年間の刑務所生活での出来事を彼が回想する形で進んでいく。
 服役当初は黒人やヒスパニックの囚人達を威嚇し、他の白人達と行動を共にしていた主人公だったが、用務作業を通じて1人の陽気な黒人と意気投合するようになってしまった。そして徐々に白人グループから離れていった。しかし、そのことで白人・黒人双方から睨まれ始める。
 白人達から遂にリンチを受けるに至り、彼は深刻な窮地に陥ることとなる。だが、友人になった黒人の尽力のおかげでその後、刑期を終えるまでどうにか無事に過ごせたのだ。
 こうした一連の経緯によって主人公の氷の如く凍てついた、偏見と差別で満ちた心は大きく変わっていった。
「悪いシナ人がいて良いシナ人がいる、いい日本人がいて悪い日本人がいる。それだけだ」
 かつて魯迅はこう述べた。それは、日本人はこうであり、アメリカ人はこうである等と一般論で語ることの愚かさを非難したものである。あるいは現在、アメリカ民主党の大統領候補となっているオバマ氏も「白人のアメリカも黒人のアメリカもヒスパニックのアメリカもない、ただアメリカ合衆国があるのだ!」とスピーチをして喝采を浴びた。
 主人公もまた、彼らのように「誰もが皆同じ人間であり、人種は重要な問題ではない」と獄中で気づいたに違いない。
 しかし、この物語は悲劇的な結末で幕を下ろすのだった。対立していた黒人グループに主人公の弟は殺されてしまう。
「憎しみは憎しみしか呼ばない」、それは誰もが分かっている。けれどもいまだに、この世界では肌の色を巡って、今日も人と人が不毛な衝突を繰り返すのである。了
[1] シュヴァイツァー『シュヴァイツァー著作集』白水社1957

2008年1月19日土曜日

ゲッタウェイ(サム・ペキンパー監督1972)


 紛れも無く、サム・ペキンパー監督の代表傑作である。彼の作品の中で最も興行的な成功を収めた。現在になって見ても飽きることが無い。全編どこにもソツがなく、一点のぬかりもない。ワイルドでスタイリッシュ、クールでシャープなハードボイルド作品だ。
 本作では、他のペキンパー作のようにアクションシーンが素晴らしいことは無論、それ以外にも所々に織り交ぜられる挿話の妙が光っている。
 銀行強盗を働いた主人公夫婦を追うメキシカン・マフィアの男と、巻き込まれた獣医夫婦のエピソード、駅での、大金の入った主人公のバッグが盗まれる場面、ゴミ収集車の中に隠れて彼らが警官から逃げるくだり。
 この作品はジム・トンプソンの原作[1]を映像化したものである。小説には、カットにカットを重ねてテンポを第一とする映画と異なり、「脱線と閑話休題」が存在する。ここにおいて、作者は私見やうん蓄を披瀝して物語に奥行きを与えていく。
 たとえば本作においては、駅のバーで主人公に隣の兵士がモルモン教について語りだすシーンがあった。本筋とは関係ないのだが、知的好奇心をそそり、非常に興味深かった。
 ペキンパー監督は、原作のエピソードの中でもとりわけ獣医夫妻の話を重視していたようである。丹念かつセンセーショナルに夫婦とマフィアの様子を活写していた。このパートは、「女は真面目ぶったインテリ野郎より野生的なワルの方が好きなんだ」とでも言いたげな「マッチョ賛歌」の荒々しい寓話に見えた。
 そして、原作の部分をこのように活かしつつ、ガン・アクションというペキンパー映像の真骨頂も存分に発揮されている。銀行襲撃シーン、ラストの銃撃戦は素晴らしい迫力で名場面として後世まで記憶されている。
 最後には、何度も衝突を繰り返してお互いに傷つきながらも、主人公夫婦は一緒に国境を越えたのだった。
 「アンチ・ヒーロー」に幸せな結末が待つ。勧善懲悪ではないニヒルな世界も、ペキンパーだと嫌いになれない。了
[1] ジム・トンプソン『ゲッタウェイ』角川書店1994

トイズ(バリー・レヴィンソン監督1992)85点


 自分はものを粗末に出来ない性格で、だからいまだに幼稚園や小学生時代に親しんだ玩具を大切に保管している。今になってみれば、ただのガラクタにしか見えないミニカーや超合金ロボットでも当時は虜になっていた。
 自分の幼年期には『セイント聖矢』や『ガン消し』、『ビックリマンシール』の大ブームが起きていた。また、その他にも『ネクロスの要塞』というゴム人形のコレクションに自分は夢中だった。合計100体以上集めていた。
 そもそもなぜ子供たちはこれほどにいつでも、おもちゃが大好きなのだろう。それは、自分自身は無力な存在で、大人に支配されているけれど、おもちゃと戯れるときは自分が世界の王様になった気分になれるからだと思う。
また、おもちゃは子供の想像力や独創性をどんなものより刺激してくれることも理由だろう。たとえば自分は、思いのままに様々な形を作れる『レゴ』も大好きだった。粘土遊びも毎日やっていた。
 本作はこのような誰もがかつて過ごした「おもちゃ箱の日々」をまざまざと甦らせてくれる、とても優しくて楽しいファンタジー映画である。『チョコボール』の「おもちゃの缶詰」を初めて開けた時のあの胸の興奮を、自分は再び鮮やかに思い出したのだった。
 草原にたたずむ大きなおもちゃ工場を舞台に、おもちゃと子どもたちを利用して世界制服を企む軍国主義者の将軍と、それに立ち向う御曹司の主人公、という平和と反戦の熱いメッセージが伝わるストーリーとなっている。
この作品は一見ディズニーアニメのようにほのぼのとした雰囲気だが、しかし実際は厳格なまでの様式美が徹頭徹尾貫いていることが特徴だ。
 空の色、建物、壁紙、衣装、小道具、キャラクター、画面に映る存在全てが「おもちゃ箱」のそれなのである。『シザーハンズ』[1]とよく似ている。そのこだわりは異常なほどに感じる。それゆえ、冒頭から終盤まで作品の世界観の「調律」が全くずれていない。完璧な「ネバーランド」がそこにはあった。
だからこそ、観る者はぐいぐい物語の中に引き込まれていく。かつての無邪気な童心が長く深い眠りから目を覚まし、「おとぎの国」へと大人たちを心地良く誘う。了
[1] ティム・バートン監督『シザーハンズ』1990

2008年1月17日木曜日

世にも奇妙な物語「恐竜はどこへ行ったのか?」(1994/7/7フジテレビ)90点


 地球は大きさの割に随分「軽い」らしい。だから、「実は中身は空洞でそこには地底世界があって、地底人が暮らしている」という“トンデモ説”も唱えられている。[1]あるいは、宇宙には「反物質」の割合が少ないという物理学上の大きな謎が残っている。また、アメリカの、カリフォルニア州とネバダ州の間に位置するデス・バレー国立公園では、何百キロもの石が毎年必ず同じ時期に「勝手に動く」のが知られている。
 このように現在においても科学では説明できない現象が多々存在する。そうしたものの1つに「恐竜絶滅のミステリー」が挙げられる。
 これに関しては「隕石衝突説」が最も有力だが、あくまでも仮説の域を出ていない。このドラマでは、一つの大胆な推論が提示されている。
 物語は、突如発狂して自傷行為を始めて、研究所の地下室に隔離された博士と、彼に接触を試みる若い女性大学院生を中心に進んでいく。この構図はアカデミー作品賞を受賞した『羊たちの沈黙』[2]を連想させる。また、佐野史郎と松下由紀の演技も、レクター博士とクレランス捜査官によく似ていた。彼女は博士の過去を調べだすのだった。
 博士の専攻は「大脳生理学」であった。錯乱前、彼は「恐竜はどこへ行ったのか?」という論文を執筆していた。それは以下のような内容だった。
 「は虫類の脳は、最も原始的本能を司る『R領域』という部分が発達していて、したがって地震や噴火を正確に予知して事前に安全な所へ逃れられる。人間にもこの部分はあるのだが、知性と引き換えに矮小化してしまった。しかし、たとえ危険を予知できたとしても星全体が被災するならば避けようがない。だが、「絶滅した」にしては発掘される恐竜の化石の数は極端に少ないのである。それゆえ、彼らはR領域の力によって異次元にワープしたと考えられる。」
 そして、博士はアマゾンの原生林からヒトのR領域を拡大させる効果を持つ植物を発見し、ここから「R領域拡大薬」を生成する。マウスにそれを注射して水槽に閉じ込めるとマウスはこの世界から消失してしまった。博士はこの実験を見て自分自身にも薬を注射する。すると、元来ヒトはR領域が小さかったために完全には異次元へ行けず、双方の世界の「狭間」に入ったのである。
 彼が異次元にいる恐竜に襲われてもこちらの人間にはそれが見えず、「発狂して自傷している」ようにしか思われない。それで彼は拘禁され隔離された、というのが真相であった。
 博士は彼女に向かって、「深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ」というニーチェの言葉を叫ぶ。「真実」を究めた者の恐怖と狂気がそこにはあった。だが彼女もまた、「深淵を覗こうとする」誘惑に負けて、自らの腕にこの薬を注射する。そして博士と同じ「次元の狭間」に陥ったところで本作は幕を閉じる。
 この作品は、サイエンス・フィクション=「SF」の王道を行く傑作だといえる。科学と創作、事実と空想を巧みな割合で調合した、マイケル・クライトン[3]を彷彿とさせる見事な脚本だ。絶妙な虚実皮膜の物語が、自分をいつまでも太古のロマンの余韻に酔わせた。了
[1] と学会『トンデモ本の世界S』太田出版2004参照
[2] ジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』1990
[3] マイケル・クライトン『ジュラシック・パーク』早川書房1993参照

クルーレス(エイミー・ヘッカリング監督1995)80点


 俳優のプロモーションビデオのような映画は確かに邪道かもしれない。それでも、ニーズがあるから製作されるのであってそれなりの価値や役割は明らかに存在する。例えばトムクルーズの『カクテル』[1]もこうした作品である。本作も大半の人はストーリーよりも「アリシア・シルバーストーン」をとくと眺めたくて見たに違いない。自分もその1人で、数年前に雑誌『スクリーン』[2]で彼女の写真を見て以来、すっかりファンになってしまった。
 アリシアは本当にキュートでクールだ。無垢で可憐だ。だからファンがたくさんいる。
 それゆえ、本作は自分や彼らの需要に応えて、「アリシアのプロモ」となっている。主演の彼女を「ビバリーヒルズに住むセレブのお嬢様」という設定にして、ありあまるほどのブランド服を持っているということにした。だから、「ワンシーンごとに衣装が違う」のだ。恐らく制作費のうち衣装代がダントツだったに違いない。そしてどんな姿もよく似合うのだった。まさに「彼女とファンのための」映画だといえる。
 ストーリーはありがちな学園ラブコメであり、特筆すべき点は無い。だが、何よりの見所は「アリシア」自身なのだ。観る者はただ、彼女の美貌に酔えばいいだけである。了
[1] ロジャー・ドナルドソン監督『カクテル』1988
[2] 『スクリーン』近代映画社

2008年1月16日水曜日

紅いコーリャン(張芸謀監督1983)90点


 ハリウッドに属さないアジア映画ということで、「楽しむ」よりも「味わう」ものであり、「文芸作品」であるという先入観を持って本作を見始めたのだが、それはすぐに裏切られることとなった。
 冒頭のシークエンスでの神輿担ぎたちの合唱が、自分を心地良く酔わせて優しく作品の世界へと誘っていった。
 美しく広がる緑色のコーリャン畑は『天国の日々』[1]の麦畑を連想させた。そして、映像、ストーリーともに本作は他の「非ハリウッド作」とは大きく異なっていることに気づいた。
 確かにハリウッド以外にも素晴らしい映画は多いが、娯楽要素のふんだんなアメリカの作品ばかり見てきた我々には、非ハリウッド作にしばしば見受けられる「視覚的地味さ」、「テンポの遅さ」、「メッセージ性の強さ」などの特色があまり水に合わない。この前に鑑賞した『アンダーグラウンド』[2]でも、自分は途中で寝てしまった。
 しかし、本作はこうした「弱点」とは無縁だった。まず感心したのは「編集の巧みさ」である。通常は長くなりがちの伝記モノを正味90分に収めている。やや説明不足に思えるほど削り込んでいるのだ。それは、カメラがコーリャン畑と隣の酒造場から全くといっていいほど離れないために可能となった。視点を一箇所に固定してしまうことによって、冗漫になりがちな、当時の世相や時代背景の描写を極力捨象できるのだ。
 「歴史の中のコーリャン畑」ではなく、「コーリャン畑の歴史」を描くというスタンスである。したがって観る者の目は酒と畑に留まり続ける。まるでこの場所は、俗世からかけ離れた浮世か極楽に思えるような倒錯感を次第に自分は覚え始めた。「紅」を基調とした本作の映像は、コーリャン畑をとても耽美的で幻想的なものに見せていた。
 非ハリウッド系の映画は、「よく知らないところの人々のよく知らない生活と文化」を詳しく学べるという側面もある。この要素が強いと、見る側は知的好奇心を大いに刺激され、飽きることなく最後まで鑑賞することができる。本作ではこうした「生活情報」に加えて前述したような「独創的な視覚表現」も駆使されているため、非常に大きな牽引力を持っている。
 また、「紅いコーリャン酒」を用いた伏線と隠喩も素晴らしかった。
 嫁いですぐに、嫌いな主人が死に本当に愛していた使用人の男と結ばれた若き女性チアウル。コーリャン畑も酒造場も手に入り、何不自由の無い幸福な生活を送っていた。だが、第二次世界大戦が勃発し、侵略してきた日本軍によって畑は踏み潰され、住民達も処刑される。そして自身もまた、最愛の息子を残して殺されてしまったのだった。
 当初は「幸福と繁栄」の象徴だった「紅いコーリャン酒」が今や「悲劇と没落」の証と化した。もはや、大地を伝う赤い液体は日本軍に殺された人々から流れ出た血液なのか、コーリャンの酒なのか見分けがつかなくなっていた。
 戦争は、人間の生命だけでなく、長い時を隔てて連綿と受け継がれてきた美酒までを殺したのである。もう、二度と桃源郷の日々は帰ってこない。涙と血の浸み込んだ大地からは、コーリャンはもう育たないのだから。了
[1] テレンス・マリック監督『天国の日々』1978
[2]エミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』1995

天国の日々(テレンス・マリック監督1978)90点


 「映画」という表現技法が持つ一つの可能性を頂点まで極めたのが本作品だと感じた。
 「カメラはどこまで美を映せるか」、その問いに対して正面からこの作品は答えを提示して見せたのである。どのシーン、どのカットもそのまま一つの絵や写真にしても十分に通用するほどの芸術性を持つ。採光、色彩、構図、いづれも完璧に近いと思う。中でも冒頭の、青空の下、汽車が黒煙を上げながら鉄橋を渡っていく場面には目を奪われるばかりだった。また、主人公とその恋人が雪の降る中、積まれた麦わらの下で二人寄り添い寝そべって、寒さに耐えているシーンにも心を揺さぶられた。
 この映画の耽美的、陶酔的なまでの映像美を作り上げている「もう一つの主人公」は、「空と夕日と麦畑」である。この3つの存在なしには本作品は成立しなかったといえる。
 どこまでも広がる麦畑は、春が来れば緑へ、秋になれば茶色へと見事に染まる。その中を多くの農民達が行き交う。フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』、『種をまく人』等の絵画のように、こうした「麦畑の農民」の姿は、高い芸術性を帯びている。映像において、この「麦畑の美」を引き立てるのが、「空」なのだろう。本作で見られる、雲ひとつ無い青空と地平線まで広がる一面の麦畑は、どこまでも美しいコントラストを奏でていたのだった。
 また、昼は「空」なら、夜には「夕日」が麦畑に鮮やかな化粧を施す。あるいは時折挿入される生物のカットも見事な出来映えであった。しかし、「映像美」を前面に押し出しつつも本作は、それに呑まれないだけの骨太のストーリーも用意している。
 「貧困からの脱出と引き換えに最愛の恋人を他の男と結婚させる」というのが主題となる。主人公が受ける身を裂くような苦しみと痛みが、見る者へも容赦なく迫る。
 物語の最後には、この美しい麦畑は全焼してしまう。そして、主人公は恋人の夫となった地主を殺し、自身も警官に射殺された。
 だが、「燃え上がる麦畑」という悲壮な情景もまた、真っ赤な炎に包まれて幻惑的で、あまりに美しいものだった。
 今はもう、繁栄を極めた麦畑も若き生命も喪われた。しかし、『桜の木の下には死体が埋まっている』[1]と言われるように、春の訪れと共に新たに蒔かれた麦の種は、大地に眠る主人公の亡骸を糧にして大きく育ち、再びかつての栄華を取り戻していくことだろう。
 「美」とはどこまでも貪欲なものなのだから。了
[1] 梶井基次郎『檸檬』集英社文庫1991参照