2008年2月4日月曜日
オープン・ユア・アイズ(アレハンドロ・アメナバール監督1997)
この終わり方には『ザ・ゲーム』[1]や『マルホランド・ドライブ』[2]を連想した。いわゆる「夢オチ」、「振り出しオチ」である。結局、終わったつもりが終わらない、結論は分からないままなのだ。こういったラストは「面白い」と感じる人もいるだろうが、自分は「無責任」だと思い、不愉快になった。見た人全てをアッと言わせるような見事な結末こそが欲しいのだ。
ミステリー作ではしばしば「結末は誰にも話さないで下さい」、「最後に大どんでん返しが用意されています」といった宣伝文句が謳われている。「日常に起きた非日常の出来事」が物語の土台となるこのジャンルでは、高度に意外性と整合性のある結末が常に要求されるのだ。
しかし、「抜け出せない悪夢、終わらない苦痛、避けられない不幸」といった主人公を襲う理不尽な状況を描く作品においてはいつでも何一つ問題は解決しないままストーリーが幕を閉じてしまう。本作もまた、主人公の青年は必死で逆境に抗うのだが、いつまでも「非日常」は「日常」へと戻らないまま彼を翻弄し続ける。文学においてはカフカやカミュの小説に代表されるこうした不条理劇を、論理性を好む者は好きになれないであろう。
とはいえ、不条理劇が合理的なオチを用意するならば、それはもはや「不条理劇」とは呼べないかもしれない。けれどもパターンの出尽くした現代映画の新機軸として、降り懸かる理不尽な運命という見えない敵に立ち向って勝利する者の姿を描いた物語は良質な人間讃歌としてヒットするかもしれない。『パルプ・フィクション』[3]のコピー・「時代にとどめを刺す」を模して語るなら「不条理にケリをつける」作品が今こそ待望されているのである。「瞳を開けても(オープン・ユア・アイズ)目が覚めない」話はもう食傷気味なのだから。了
[1] デビッド・フィンチャー監督『ザ・ゲーム』1997
[2] デビッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』2001
[3] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994
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