2008年2月8日金曜日
ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督2001)
この作品を一言で表現するならば「ソマリア版プラベート・ライアン」だ。派手なBGMも人間ドラマもほとんどなく、淡々とした語り口に徹して、1993年10月3日ソマリアの首都モガディシュで起こった米軍と現地民兵の戦闘の再現を試みている。その迫真の描写はまるで最前線で撮影した戦場フィルムを見ているようである。
ヒト・モノ・カネの全てに莫大な物量を誇るハリウッドならではの圧巻の映像が、スクリーンから溢れ出してくる。あまりの臨場感に、自分は2回も劇場で鑑賞してしまった。
『プライベート・ライアン』[1] 以降、この種の「擬似ドキュメント風戦争映画」はトレンドになってきた感がある。ロバート・キャパの写真がそのまま動画になったようなシーンは確かに見応え十分だろう。だが、こうした作風を一概に肯定することはできない。
昨今の映画界では、SF・アニメ・アクション・ホラー、あらゆるジャンルでCGや特殊メイクといったテクノロジーへ多分に依存し、作品のための「手段」に過ぎなかった映像技術自体が「目的」化している風潮が強くなってきている。
けれども映画とは、舞台・文学・音楽と建築・絵画・彫刻の要素を総合した「第七の芸術」だと言われるように、「見せる」だけでなく「描く」ものであろう。演技やセリフやシナリオもまた、立派な主人公なのだ。
また、本作のように物語の「リアリティ」を追求するほど、細部にこだわり過ぎて「外部」すなわち「背景」が捨象されてしまうという重大な問題も存在する。例えば、なぜソマリア内戦にアメリカが介入したのか、米軍の武力行使は正当だったのか、といった疑問が浮かんでも本作はそれに対して何も答えてはいないのだ。
それゆえ、この映画に向けては「単なる勧善懲悪もので、アメリカ賛美プロパカンダだ」等の厳しい批判も聞く。ようするに、「戦場」は完璧なまでに描かれているにもかかわらず、「戦争」は全くといっていいほど描けていなかった。
だがそれでも本作は決して「好戦的」な作品とは見えないはずだ。撃墜された軍用ヘリ・ブラックホークの乗組員に襲い掛かる群集、携帯型ミサイルの攻撃で手足を吹き飛ばされた兵士、麻酔もかけずに手術されて絶叫する負傷兵…登場するのは華々しい活躍をする勇ましい米軍ではなく、傷ついて血を流し逃げ惑う米兵ばかりである。実際のこの戦闘がいかに凄惨で死の恐怖に満ちたものだったのかが、十二分に観る者に伝わってくるのだった。
そもそもわずか2時間の中で「戦争」と「戦場」の両方を丁寧に描け、ということ自体が望蜀なのかもしれない。それゆえ、スピルバーグは『プライベート・ライアン』を撮った後再び第二次大戦をテーマにして、映画並みの予算で10時間に及ぶテレビドラマ『バンド・オブ・ブラザーズ』[2]を制作したのだろう。
「戦場には英雄などいない、いるのは犠牲者だけである」という「真実」を我々に気づかせた点だけでも本作は名作だと言えよう。了
[1] スティーブン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』1998
[2] HBO『バンド・オブ・ブラザーズ』2001
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