2008年2月3日日曜日
英雄の条件(ウィリアム・フリードキン監督2000)
「不快な感情」というものを鑑賞後久々に覚えたのだった。その原因は本作から溢れ出て止まない「アメリカ軍は決して間違わない」とでも言いたげな傲慢な雰囲気のためである。一体この映画はどういう狙いで制作されたのであろうか。平和を望む自分のような文民には到底受け入れがたい内容となっている。
物語の概略は以下のものである。
イエメンにあるアメリカ大使館へ向けて抗議デモを行っていた丸腰の民衆に対し、警備を担っていた米海兵隊が発砲し、多数の犠牲者を出した。この民間人への虐殺行為を巡って軍法会議が開かれ、被告の兵士たちが身の潔白を賭けて争う。彼らはいくつかの物証を発見したことによって、最後に無罪を勝ち取るのだった。
この結末を額面どおりに「ハッピーエンド」だと受け止められる人は、よほどの軍国主義者か、米軍関係者だけであろう。それゆえ、本作がアメリカ以外でヒットするはずもなく、あるいはそれどころか世界中で反米世論を助長してしまいかねない。余りにチープなプロパガンダとしか思えないのだ。
中でも重大な脚本上の問題点を指摘するならば、そもそも「民衆はなぜ激怒して、米大使館に押しかけたのか」という点の説明が何もないことだ。「一つの落ち度もないアメリカ」がそこには描かれているだけである。
彼ら民衆の中に紛れ込んでいた暴徒が発砲し、3名の海兵隊員が殺されたことは事実だとしても、といってそれに対する反撃で83名ものイエメン市民を射殺するのは道義的に許されることだろうか。アメリカ軍の論理ではそれは認められるようだ。だが、一般社会の倫理では決して通用するわけがない。アフガンやイラクで多くの非戦闘員を、「誤爆」によって大量虐殺しても平然としている米軍の姿を連想させるのだった。
こうした米国と米軍特有の「独善性」・「他者への傲慢さ」が世界各地でテロを引き起こしているのは今更言うまでもない。だから自分は、アメリカ人には本作よりも「本作を鑑賞した外国人の反応」こそ是非とも見よ、と訴えたい。「無謬なアメリカ」など最悪の「誤謬」なのだから。了
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