「法律が悪いせいだ」
これは、度重なる悪質な偽装請負行為が発覚した際のキャノン会長兼経団連会長である御手洗富士夫の言葉だ。居直り強盗のようなこの言葉からは、反省や謝罪の意志は全く感じられない。しかも派遣労働者が過酷なピンハネによって手取り5,6万しか得られないにもかかわらず彼は自分たち役員の報酬を1億から2億へと引き上げたのだ。[1]
このような強欲な経営者が財界のトップに上り詰めるまでに至った背景には’80年代以降資本主義諸国に吹き荒れた「新自由主義」がある。
政府機能を縮小し、民間部門の自由競争を促進すれば高い経済成長が約束されるとする、「市場原理主義」とも形容されるこのイデオロギーによって日米英では次々と規制緩和が進められた。そして、アメリカは自国だけでは飽き足らず、この思想を南米やアジアの途上国にまで強引に「輸出」していったのである。
例えば、本作で描かれるボリビアのエピソードは作品中で最もセンセーショナルなものだった。アメリカの圧力によって公共部門の民営化が急激に進められた同国では水道局もアメリカ資本のベクテル社に買収された。そして同社は水道料金を以前の2倍以上に引き上げ、それどころか雨水を個人が溜めることさえ禁止する法案を作らせた。これによって多くの住民が生活の危機に瀕し、大規模な抗議活動が勃発する事態に至った。それに対して政府は容赦ない武力弾圧を行い多数の死者と負傷者が出てしまう。しかし、勇気ある住民たちは戦いを止めず、遂にベクテル社を同国から撤退させることに成功したのである。
「水を飲みたい」という人間として当然の欲求を満たすことがなぜこうまで命がけの行為にされてしまったのだろうか。作中、ある大学教授はこのように暗い展望を語った。
「このままでは、将来的には生きるためのあらゆる権利が無条件で国家に保障されなくなり、企業を通じて買わなければならないものになるだろう」
既にその事態は新自由主義の震源地アメリカで遥か以前から発生している。マイケル・ムーアが『SICKO』で追及したように、この国には公的医療保険が無く国民は自分で民間の保険会社に入らなければならない。だが、貧困ゆえになんらの保険にも入れない人や高額な掛け金を払い続けているにもかかわらず保険請求が受理されず医療費の支払いのために自己破産に追い込まれる人が後を絶たない。あるいは政府が教育予算を渋っているために極めて高額になっている教育費の支払いのため、奨学金貸与を求めて軍隊に志願する若者が多数存在する。経済的弱者は、良質安価な公営住宅が存在しないためにサブプライムのような詐欺的な高利の住宅ローン契約を結ばざるを得ないのである。[2]
同国では「医療・教育・住宅」といった生きるための基本的な権利を何ら国家が保障していないため、国民は自己責任と自助努力でそれらを手に入れることを強いられているのだ。だが他方で、それらを専売する大企業にとってはまさにこの国はパラダイスに他ならない。
しかし、無論企業は収益を上げるために存在し、国民の人生の幸福を目的とはしない。よって、「国民の幸福を目的とする」公営事業を「利益を目的とする」民間企業に譲り渡す新自由主義の手法は根本的に誤っているといえるはずだ。
けれども私たちは今や、「民営化」という言葉に対してさほどの抵抗も感じなくなっている。それどころか「能率がいい」などと肯定的な印象すら抱いている人も多い。それは「企業(Corporation)」という存在の本質が、分厚いベールに包まれて私たちの目から巧みに隠匿されているためである。
本作では「企業」を「法人」という一人の人間と見なしてそのパーソナリティーの分析を精神科医を使って試みる。「株式会社」という制度が近代に誕生して以来、大企業が引き起こした出来事を振り返っていく。すると公害、自然破壊、奴隷労働、軍事利権、不正会計、法令違反、労組潰し等など数多の問題行為が浮き彫りになる。
それゆえ人として見た場合、企業は「他者への想像力が著しく乏しく、道徳観念が無く、平気で嘘をつく」完全な「サイコパス(精神異常者)」である、という結論が下される。とりわけ、IBMがナチスのユダヤ人虐殺に協力する管理用パンチカードを製作して莫大な利益を得ていたこと、NIKEが南米で劣悪な待遇の工場を運営して儲けていることなどは極めて興味深いエピソードであった。ちなみに「民営」とは英語では「私有」と同じ「private」と表記する。したがって「民営化」とはこうした反社会的人格者に公共財が「私有」されることを意味するのだ。こう考えればボリビアの水戦争は起こるべくして起きたと言えよう。
このように、本作の基本的なスタンスは忌憚なき大企業批判である。ただし、旧来の左派が陥りがちな、トヨタの奥田やオリックスの宮内といった経営者個人を「悪徳、非情」として攻撃する手法とは一線を画している点が斬新だ。本作ではCEOもまた、労働者と同じ「人間」であり、一個人としては環境や人権について高い関心を払っている者も少なくない事実を指摘する。ようするに問題の核心は「企業」というシステムそのものにあるとする。例えばどんなに温厚な人間でも刑務所の看守になれば冷酷で高圧的にならざるを得ないように所属する組織と地位が、個人の人格を強制的に変形させてしまう。この意味では、マルクスの言う「自己疎外」は、実は現代の経営者にも生じていると言えるのだ。
また、相も変わらないウォール街とホワイトハウスの癒着ぶりも鋭く告発される。法的には企業は市場経済のプレイヤーであり、行政と議会は審判であるはずだが実際は膨大な献金や天下りによって、公平なジャッジは永遠に葬り去られている。
「中流階級は没落し、国民の大多数に健康保険は適用されない一方、超大金持ちの収入は増え続け、軍需産業は大儲けだ。有権者はもはや、国民のための国民による政府を持ちえていない。存在するのは、特権階級とネオコンのための彼らによる政府なのだ。」
この言葉は意外にも、新自由主義の旗手レーガンの元側近ロバーツ氏のものである。[3]かの国では今や、政治が企業を管理するのでなく企業が政治を管轄する状況に陥っている。だが、国家の主人となった大企業はエンロン事件以降もまた、格付け機関を取り込んで危険なサブプライムにA評価を付けて証券化し世界中にばら撒いて暴利を貪り、そして途方もない負債と失業者を残して破綻した。結局、数十年にわたって地球を席巻した新自由主義とは一体何だったのだろう。
「市場原理主義とは理論の裏付けなき政治的主張である」
経済学者スティグリッツはこのように喝破した。[4]企業はとっくの昔に経済学まで買収していたのだ。富裕層と大企業を優遇しさらに豊かにすれば経済が成長し、中流層と貧困層にまで恩恵が及ぶとする「トリクルダウン」のような彼らにのみ都合の良い、根拠なき数々の「意見」は御用学者の力によって難解な数式にまぶされて崇高な「理論」にまで昇格させられた。逆の立場から見たなら、彼らの本音はいつもこうだろう。
「どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということは誰でも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“大洪水よ、わがなきあとに来たれ!”これがすべての資本のスローガンである。それゆえ資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」[5]
だが、この後には「しかし、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである」という一文が続く。
実はマルクスも本作同様、「経営者もまた資本の犠牲者である」と考えていたことは極めて重要な事実であるといえる。
ちょうどこの文章を書いている今、アメリカではサブプライムの焦げ付きで経営危機に瀕した大企業を救済する金融安定化法案が下院で否決され、NY株価は史上最大の値下げをし、世界恐慌の恐れを真剣に危惧する声が上がり始めた。皮肉にも、貧者を食い物にしたサブプライムローンがきっかけとなって、全世界の富裕層と大企業に未曾有の激震が走ったのだ。彼らが持つ巨大な資本が「わがなき後に来たれ」と望む大洪水は、先に去ったものも後から来たものも今いるものも、金に関わるありとあらゆる全てのものを容赦なく巻き込んで飲み込んで洗い流そうとする。私たちの眼前ではまさに今、黙示録的光景が広がっているのだ。
そしてこの洪水から抜け出す「ノアの箱舟」だけはどんな大企業にも作れないのである。なぜなら、この洪水の源は飽くなきまでに利益を求める「人間の欲望」であり、企業とは「儲かるのなら自分の首を絞める縄でも売る」[6]欲望に特化したシステムに他ならないのだから。了
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