2008年4月11日金曜日
改憲幻想論―壊れていない車は修理するな(佐柄木俊郎著 朝日新聞社2001)
本書は、昨今かまびすしくメディアや政界で議論されている憲法改正論について、その実態を批判的に分析し、そして現行憲法の可能性を探求したものである。
まず始めに、「環境権」などの新しい人権や「伝統、公共心の尊重」等の条文を付加するといった類の、現在我が国を覆う閉塞感の打破を狙った憲法改正論の非現実性、無意味さを指摘する。著者のこの意見には全くもって自分も同感であった。かねてから「なぜ憲法の言葉を変えれば世の中が全てバラ色になるというのだろう」と疑問を抱いていたからだ。
「今の日本人に個人主義が蔓延しているのは、憲法に愛国心の記述がないからだ」等というナンセンスな意見が未だ一部に根強いことに対して著者は、「日本人の中に“十七条の憲法観”という、憲法を道徳や倫理を唱えるものとして捉える見方が強いためである」と解説する。また、自分は日本特有の「言霊信仰」もそれに関係していると思っているので、この点についても書いてもらいたかった。
そして、著者は現憲法を重々しい聖典としてではなく、実用的な社会のルールブックとして考え、闊達に論議しながらフレキシブルに用いろうと主張する。しかし、今まで実際の政治はこの憲法の理念を活かすどころか全くその逆を歩んできたといえる。さらに「憲法の番人」であるはずの最高裁判所も司法消極主義の立場を頑なに変えず、憲法に反するような立法の成立を許し続けてきた。したがって改憲よりもまず第一に必要なことは、現憲法の理念を実社会に徹底的に体現する努力に違いないだろう。
また具体的に見た場合、憲法を実際に改正することがいかに困難であるかにも本書は触れる。「国会の3分の2、国民の過半数」を得られるような高いコンセンサスを集められるテーマが本当に存在するのか、と指摘をする。憲法に関して現在かろうじて多くの国民の同意を得られそうなものは「改正に賛成である」という意見だろう。しかし憲法改正の国民投票の題が「貴方は改正に賛成ですか反対ですか」なんてことは100%有り得ない。必ず「どの条項を変えるか」と問われる。けれども国民の過半数が「変えるべき」だと考えている条項が今はどこを探しても見当たらないのだ。この話題に関して、著者はオーストラリアの事例を紹介していた。それは非常に示唆に富むものであった。
「護憲・改憲」の立場の対立が旧来は左派リベラル対保守・タカ派だったが現在ではこの二分法が成立しなくなっているとも記す。リベラル派の中にも改憲論者が増えているのは「それだけ憲法の価値観が広まり、空気のようになったため」と分析する。護憲勢力の台頭が逆にその衰退をもたらしてしまったというのは皮肉なことだ。一方、改憲派の側には「日本版ネオコン」や「靖国派」といった急進的な勢力が増長していることも自分は忘れてはならないと思う。
そして何よりも日本国憲法といえば「第9条」がそのシンボルである。本書も最後にこの第9条への考察が展開されている。「自衛のための軍隊も否定する」という解釈に対し、66条「文民条項」追加の件から「自衛力を認めているからこそ、この条項があるのだろう」とし、この解釈を「頑な」と批判するのには強い説得力があった。そして「集団的自衛権」は軍事同盟の思想であり9条の立場からは認められないとする。また、「集団安全保障」は国連の目指す「全ての国の協力で平和の破壊を防止し、抑えるための軍事行動を行う」というもので、前者とは正反対であるとし、PKO活動への参加は合憲であるとする。そして9条の力によって国防も一般行政と同等に扱われ、軍部の暴走が防がれていると述べる。
したがって、9条の理念は「一国平和主義」ではなく、これによって「国際平和への貢献」ができるのだと自分は思う。
先日、マスコミにおける改憲の旗振り役である読売新聞が実施した憲法世論調査においても、15年ぶりに「改憲反対」が賛成を上回り、なかでも9条については改定反対の意見が圧倒的であった。[1]現憲法、とりわけ第9条に対する国民の期待と信頼は今に至って一段と高まってきたといえよう。
著者は「壊れていない車は修理するな!」と訴えるのだ。自分も「修理するのではなくどんどん世界へ向かって走らせるべきだ」と強く感じる。
なぜならば、「永遠平和は空虚な理念ではなく我々に課せられた使命である」[2]のだから。了
[1] 読売新聞2008/04/08参照
[2] カント『永遠平和のために』綜合社2007参照
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