2008年2月6日水曜日

邪魔(奥田英朗著 講談社2001)


 この小説は、不良・主婦・刑事という複数の主人公が織り成すストーリーが並立し、やがて交錯する形式である。著者の前作『最悪』[1]もそうだったが、この手法は単に1+1を2にするのでなく、4や5にするような筆力の有無が成否を分けるポイントとなる。いかに巧みに複数のエピソードをコラボレーションさせるか、そこにこそ作者の真価が問われてくるのだ。その点からいえば、本作ははっきり言って「失敗作」だった。3人の主役達のリンクの仕方が全くスマートではなかったからだ。前作の方がずっと完成度は高かったと思える。
 例えば本作では、主人公の1人である不良青年・裕輔は人物造形が薄く、彼の物語も印象が薄かった。逆に最も躍動感と小気味よいテンポを持っていたのは主婦・恭子の話であった。「キャラが立っていた」と言える。彼女のエピソードはウーマンリブ的な雰囲気を放ち、よく出来た社会風刺の内容ともなっていた。登場人物の中で唯一主体的に現状を打破していこうともがく姿勢には共感がもてた。ただ、結果的には蟻地獄のように彼女は泥沼へと転落してしまうのだが。
 平凡な主婦が小さな幸せを守るために犯罪に走るストーリーは、リアリティに富み非常に読ませるのだが、しかしあの結末はどうしても納得できなかった。なんともやりきれない気持ちにさせられてしまった。確かに全ての主人公たちにふさわしいラストを用意するのは難しいことは察しがつく。誰かを立てれば誰かを犠牲にせざるを得なくなるのは理解できる。また、「誰を幸せにして誰を不幸にするのか」という選択は、作者と読者の間に大きな齟齬を来たす最大の難題でもある。もし本作がドラマだったならばきっと最終回終了後には、抗議の電話が放送局に殺到したに違いないだろう。
 こうした群像劇の魅力は「多彩なバラエティー」にあるといえる。何人もの登場人物がいるため、読者は読んでいて飽きにくいのだ。反対に弱点は、主人公が1人のケースと異なって、キャラの多さゆえ、「見事な結末」を生み出すのが困難なことである。まるで高次連立方程式を解く作業に似ている。映画においては『パルプ・フィクション』[2]や『アモーレス・ペロス』[3]がその点、成功例であり『マグノリア』[4]が失敗例である。後者のようにあえて「オチ」を作らないで「破綻」させてしまう、という方法も一つの手段なのかもしれない。本作もこちらに近かった。けれども、自分はそれを肯定できないのだ。
 なぜならば「一期一会のはかなさ」を美しく描き出すのが、「群像劇」のアイデンティティに他ならないからである。了
[1]奥田英朗『最悪』講談社1999
[2] クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』1994
[3] アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『アモーレス・ペロス』2000
[4] ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』1999

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