散りばめられた伏線と隠喩は最後まで解き明かされず、「TO BE CONTINUED」のエンドロールの後ろへ持ち越された。まるで日本の連載漫画のようだった。第1作と異なり、単純明快なSFアクション作から『ブレードランナー』[1]や『2001年宇宙の旅』[2]の如き難解で哲学的なものへと趣を大きく変えた。生き残った人類の住む地「ザイオン」と、人間を支配するコンピュータ「マトリックス」双方の正体が徐々に明らかにされる。第一作へ「外部」と「周縁」が与えれ、物語は深遠さを帯びていく。
随所に登場する様々な抽象的セリフは思想や宗教の文献が出典のようである。多用される「目的」、「原因と結果」、「選択」という単語も個人を超越した「何か」を感じさせる。それはこの作品においては「マトリックス」なのであった。
また、人類の救世主である主人公を導くはずの予言者も、マトリックスが作ったプログラムの一部に過ぎないということ、主人公は「システムに反乱するアノマリー(例外)プログラム」の1つに過ぎず、彼の出現もまたマトリックスの計算の範疇でしかないだろうということ、などが次第に明らかになっていく。既にマトリックスは今まで5回アノマリーとザイオンを滅ぼしたともいう。
したがって、マトリックスとはまるで、古代ギリシャ演劇に登場する「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」そのものに思われる。この神は唐突に現れて、全ての事態を強引に収束させてしまう。このように強大かつ巧妙な能力を持つシステムに一体主人公達はどう立ち向かえばよいのだろうか。勝算は限りなくゼロに近いようにも見える。
しかし、「完璧に人間を支配しうる機械装置」というものは存在できるか、という問いを考察するならば、自分は「テューリング・マシン」をめぐる学術論争を思い出す。
人間の思考が全てアルゴリズムに還元できるとすれば、人間は精密な機械(テューリング・マシン)であり、他の機械で管理可能である、という学説をアラン・テューリングは提唱した。それに対してゲーテルはかの有名な「不完全性定理」を用いてこのマシンの限界を論証し、「人間精神は、脳の機能に還元できず、いかなる有限機械をも上回る」という哲学的帰結を導いた。[3]このアカデミズムにおける真実のエピソードの中に「人間と機械の戦争」の行方を暗示するヒントがあるのかもしれない。
前回以上に怒涛の勢いで繰り広げられた、高速道路の逆走、100人以上に増殖した宿敵・エージェントスミスとのバトル、爆破されるビルでの仲間の救出といった壮絶なアクションの数々が、全てマトリックスの「想定の範囲内」だったなどとは、一人の人間として、あるいは観客としても、自分は決して思いたくないのである。了
[1] リドリー・スコット監督1982公開
[2] スタンリーキューブリック監督1968年公開
[3] 高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』講談社現代新書1999 222~235頁参照
0 件のコメント:
コメントを投稿