「もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動とを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、“可能なる”コミュニズム以外の何であろう。」[1]
ここでマルクスがいうコミュニズムとは、生産者―消費者協同組合のグローバルなアソシエーションによって資本と国家を揚棄するアソシエーショニズムのことである。これはコミュニズムを国家的統制経済だと見なす通念とは全く無縁である。自分はここに「マルクスの可能性の中心」[2]を見る。本書の内容には強い説得力と共感を感じたのだが、数少ない疑義を覚えた点の一つに著者が「社会主義経済は計画経済であり、実現不可能だった」と社会主義経済システムへの深い考慮をせず、一蹴してしまったことがある。徳の富への、政治・道徳の経済への従属という近代自由主義社会での「価値のヒエラルヒーの転倒」を強く批判しているのだから、この社会への具体的な対案として「資本主義経済」への現実的アンチテーゼを示すべきだったと感じる。
「経済至上主義」を是正するには別の経済システムを表すのが最も有効である。コミュニタリアニズムが理想とする経済システムとは具体的にどのようなものなのか、それこそを何よりも知りたいと本書から思った。
「最初から人は言語共同体のうちに存在していて、この中での他者との関係から己のアイデンティティを得て、また、ここから善悪の観念を獲得していく。これは共通善である。」というコミュニタリアニズムの考えはマルクスの「人間は類的存在である」という考えと大きく重なると言えよう。そして両者は共に「人が人を手段として扱うこと=他者の手段化」を危惧する。すなわち、コミュニタリアニズムもマルクスもその思想の中心にあるのは、カントの命題である「他者を己のための手段としてのみならず同時に目的として扱え」という倫理的態度であろう。それは現代資本主義システムとは完全に相反することは誰もが分かる。
著者は人間の営為を可能な限り自然の相互依存と共生の体系と調和しうるよう転換を求めているがこれも「自然の目的化」に近い。この「他者と自然の目的化」の実現のためにはどうしても新しい経済システムが不可欠だ。それを「社会民主主義」である、と考える人がいるが自分は同意しない。実際には社民主義の国においても自然は壊され他者は手段化されている。自分はしたがって社民主義を「省エネ商品」や「ハイブリッド車」と同じだと指摘する。たとえ少なかろうともやはりCO2を排出していることには変わりがなくいずれにしろ温暖化は進むのと同様、社民主義も結局、資本主義の一形態に過ぎず害を生んでいることに変わりはないからだ。
とはいえ、「統制経済」の不合理性・不可能性もまた明らかかもしれない。だが、「生産手段を公有化し経済そのものを人々の意識的コントロール下におく」というマルクスの考えはいまだに色あせていない。
したがって、その実現に向けた具体的な方法が極めて重要な課題となってくる。これについて柄谷の『可能なるコミュニズム』[3]においては地域通貨LETSと生産協同組合を用いることを提唱している。それは非常に高い現実性を持っているように感じる。
コミュニタリアニズムは「コミュニズム」とは違うとしても「アソシエーショニズム」に近いのではないか。マッキンタイヤーのいう「実践」の場=関係の網の目を可能な限り究極的に全地球規模に拡大し、そこでの共通善に貢献するか否かにより内的善と徳を定義することが必要だ、と著者は終章で述べているが経済におけるその「関係の拡大」こそ「グローバルなアソシエーション」に他ならないと自分は思う。
消費生産共同組合とLETSのグローバル化の中で人々は徳を得て内的善を実現していくことが出来るのであろう。そして自然も内的善の概念の対象とされるようになるはずだ。
コミュニタリアニズムについて本書ではあまり詳しく述べられていないが自分の現在の見解は以上のようなものである。この思想は自由主義自体を否定するものではないとされるが、自分個人としては「この思想をラディカルに実践しようとしたならば、現代資本主義経済の枠を“突き破らざるを得ない”のでないか」と強く感じる。自由主義の片翼をもぐのかもしれない。だから、「新しい翼」も同時に準備していなければならないだろう。私たちが今よりもっと良い世界へと飛んでいくための翼を―了
[1] カール・マルクス『マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)』筑摩書房2005参照
[2] 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社1990参照
[3] 柄谷行人『可能なるコミュニズム』大田出版1999参照
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