「お前、学校楽しいか?」「最高だよ、ここは天国だ」
2人の不良の間で交わされるこんなやりとりが主人公達にとって「学校」とはどんなものかを端的に物語る。
平日の朝8時半から夕方4時までだけ存在する、フェンスと塀で“外界”と隔てられた殺風景なコンクリートの建物の中にある「天国」。ここは「楽しい青春」を育む揺りかごだ。
自分のことを思い出しても、高校はまさにパラダイスだった。少なすぎた義務と束縛、有り余るほどの権利と自由。楽しむだけの毎日がそこにはあった。けれどもこんな生活は必ず終わりを迎える。卒業の日が来ることからはどうあがいても逃れられない。そして、残酷にも、「青春」を謳歌したものほど卒業の日に払わされる「代償」は大きいのである。
番長もマドンナも生徒会長もクラスの人気者も、学校という舞台を失ったら、その姿はまるで12時を過ぎたシンデレラみたいに哀れだ。妖精のかけてくれた魔法は無情にも解けて、かぼちゃの馬車も美しい衣装もどこかへ消えてしまった。ぼろを着て貧相な顔をして、「社会」というザラザラした道端へ放り出されて、一体これからオレはワタシはどうすればよいのだろう、と途方に暮れる。
例えば、「高校が毎日毎日楽しすぎて、卒業したとたん、平凡な毎日に耐え切れず欝病になってしまった」という若者の人生相談をラジオで聞いたことがある。実際自分も、3月の卒業式の後、高校生活の余韻から抜け出せるまで何ヶ月もかかった。孤独な浪人生活との落差はあまりに大きかった。中学生の頃も、卒業して土方になった不良がいきなり学校を訪れて、ベランダで1人物思いにふけっているのを見たことがある。その背中にはかつての肩で風を切っていた時の勢いはなく、秋風に吹かれて哀感が漂っていた。
けれども私たちには皆進むべき未来があるはずで、いつまでも思い出を反芻している暇などないのである。
とはいえ本作のような「底辺校」の不良少年達にとっては「学校で番長を張ること、クラスを仕切ること、他校のワルとタイマンすること」こそ唯一のアイデンティティなのだ。したがって彼らの生き甲斐は「学校」という存在なしに成立できない。だからこそ「卒業」はどんなワルにも勝る脅威なのである。それは、卒業式を前にして、主人公の親友が大好きな母校で自殺してしまったことからも十分に理解できる。そう、彼らには本当に「今ここ」しかない。進路なんてないし、未来なんてない。だから、彼は「期限付きの放縦」から「永遠の自由」を求めて、数々の思い出を抱きしめながら校舎の屋上から真っ逆さまにダイブしたのだろう。
尾崎豊は「卒業」とは、「仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々の終わり」だと唄う。盗んだバイクで走り出し、校舎の窓ガラスを壊して回った「典型的な不良」である彼はそれでも、「卒業の日」を恐れはしなかった。むしろ「この支配からの卒業」なのだと叫んだ。だから、「同級生と会って思い出話に浸るのが一番の趣味」などという元不良連中を、不良ではなかった自分は強く軽蔑する。尾崎の言葉を借りるなら「本当の自分にたどり着くために人は何度も“卒業”を繰り返す」のだから[1]。本当の“強さ”とは腕力ではなく、未来と真摯に向き合う意志の強さなのだ。尾崎はそう言いたかったのだ。桜の花びらが舞い散るラストシーンを観て自分はそう感じた。了
[1] 尾崎豊『卒業』1985
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