2007年12月6日木曜日

風のファイター(ヤン・ユノ監督)

 この物語は、チェ・ペダル(日本名・大山倍達)という一人の青年が路傍の雑草から稀代の美しき花へと大成するまでを描いた真実のストーリーである。
 第二次大戦中、軍人を志し、日本へと密航した主人公・チェ・ペダルは山梨航空機関学校に入学する。だが、そこで待っていたのは朝鮮人への凄まじい差別と虐待であった。仲間を救うべく遂に将校に対決を挑んだものの、全く歯が立たず無惨にも返り討ちにされる。
 そして戦後は、東京の闇市で同胞とパチンコ屋を開くなどして窮乏の中を必死で生きようとした。しかし、またしても朝鮮人であるがゆえに、不条理な差別と暴力に見舞われることになる。地元のヤクザによって商売を妨害され、袋叩きにされてしまうのだ。抜き身の日本刀を持った組長を前にして公衆の面前で失禁した彼は、笑い者となる。そしてその後、「池袋の小便漏らし」というあだ名で呼ばれ続けた。
 かくもこのように彼の半生は、恥辱と屈辱にまみれた余りに惨めなものであった。自らや同胞に容赦なく襲い掛かる様々な苦難に対して、やがて彼はこのように悟る。
 「力のない正義は無力であり、正義のない力は暴力である。自分と他人を守れる力を育てなくてはならない」。と。
 そして単身、険しい雪山に篭もる。厳寒と飢餓の中、岩石に手刀を食らわせ、大木に蹴りを入れ、雪原を駆け抜け、凍りついた滝をよじ登る。こうした、狂気とも言える血を吐くような鍛錬によって、彼は猛虎へと生まれ変わることができた。
 「神聖なるものがあるとすれば、人間の身体こそ神聖である」と、ある詩人は語った。だからこそ、ペダルは己の肉体に宿る自分だけの「神」を信じて、全国を渡り歩いて各地の強豪たちと拳を交えていった。そして、どこまでも強靭な精神をもって修行を続ける彼はこの「神」に寵愛された。彼の武術の前にあらゆる猛者たちが崩れ落ちた。
「修練は、毎日、自分の限界を突破することをはっきりと意識して、挑戦的に進めなくてはならない。(中略)どうしても破れない限界を死力をもって突き破るのが、修行というものである」。[1]ペダルにとって、鍛錬とはこのようなものであった。
だからこそ、彼の繰り出す蹴りや突きは凄まじい威力で相手を打ち倒した。弓道家・阿波研造は、「弓術では弓は『私』が射るものではなく、私が無になったとき矢は放たれる」。と述べた。[2]ペダルはこのような超人的な集中力で、技を出したに違いない。そして、その一発一発はまるで、遥か遠くの平家の軍船にある扇の的を射落とした那須与一のような正確さと破壊力で相手に襲い掛かったのである。彼が「一撃必殺」を謳った由縁だ。
物語の最後に彼は、かつて航空機関学校で返り討ちにされた将校に再び挑み、圧勝する。
だがこう言う。「俺はいつも戦うのが怖い。それでも俺はいつも新たな強敵を探し求める」。
 三島由紀夫は語る。「青年たちは、自分がかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持って見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かって否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守ろうとするのである」。(『行動学入門』文春文庫70頁)
彼はまさに生涯を賭してこの正義の英雄を否定するものへ挑み続けた永遠の青年であった。
[1] 大山倍達「第二章 たゆみない修練」『強く生きたい君へ』光文社2004参照
[2] オイゲン・ヘリゲル『無我と無私』ランダムハウス講談社2006参照

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