「政治的に偏った映画は見たくないね」
マイケル・ムーアの『華氏911』を見るかと記者団に聞かれた小泉総理(当時)はこう言い放った。恐らく現代の日本で最も「偏って」いるであろう人物のこの発言は昨今の世相を象徴的に表している。
それは職場や学校を席巻する「政治的なもの」への強い忌避と拒絶の空気である。特に、社会に出る前段階の「学校」という空間での「無政治化」は若者の低投票率、アパシーの大きな要因となっていることは明白だろう。
この問題に関して、久保友仁という青年が「高校生の政治活動に関する自由の保障を求める署名」を集めている。彼は以下のような実例を挙げる。
「生徒会が核実験反対署名を呼びかけようとしたら『政治的な活動はよくない』として学校に許可されなかった」
「生徒会新聞で有事法制や住基ネットについて取り上げようとしたら教師に『載せないでほしい』と言われた 」etc…
「これでは皆、社会に関心をもって行動するのはいけないことと思ってしまう」と彼は語る。この強い圧力は、学生運動の高揚が高校にまで波及することを恐れた文部省が1969年に、高校生の政治活動を禁止する「69通達」を出したことに由来する。
だが、2004年国連子どもの権利委員会は、子どもの集会/結社の自由などを保障した子どもの権利条約に沿って、こうした政治活動への規制を見直すように日本政府に勧告した。しかし、文部省はいまだに35年前の立場を変えようとしていない。[1]
そして、こうして「無政治化」された小中高校で12年間を過ごした若者達はどうなっているのだろうか。
「早稲田に入ればきっと周りは皆社会的関心の高い熱い奴ばかりなんだろう」と入学前、自分は大きな期待をしていた。だが、ふたを開けてみれば以前と同様「普通」の人々がほとんどであった。真面目な文化系サークルよりも「スーフリ」に代表される軟派サークルの方が新入生の心を圧倒的につかんでいた。とはいえ中には活発な左右の「政治系」サークルもあるにはあった。けれども彼らに近づいて話してみると皆どこかのメディアや論客のカーボンコピーばかりに思えた。「自分自身の問題意識」というものを持っていない気がした。すなわち彼らは自分に言わせれば真の「政治的人間」ではなく、「信仰的人間」なのである。
あるいは、逆にあまりに「自分探し」にこだわりすぎて、カルト宗教に入ったりしてますます自分を見失ってしまう者も少なからず見受けられた。
そして大半の学生は入学時と変わらない「政治的無関心」のまま卒業の日を迎えるようだ。彼らに伺えるのは確信犯的あるいは無意識な「積極的政治的中立」という態度表明である。「私は無党派、偏っていない」と胸を張る。こうすれば異なる他者との摩擦を回避できると考えているのだろう。しかし、教室に置いてある反戦デモやNPOのビラには目もくれずに、つまらない講義のくだらないプリントには我先にと群がる光景は高校生と何ら変わらず、自分には見るに堪えなかった。
思うに「不偏不党」もまた「偏って」いる。今・ここの諸問題にブラインドとなり、価値判断を退けた無批判的現状追認に他ならないからである。だからこそ本来は「学問の自由」を保障され、学生に対して語りかける機会を与えられている教授陣こそが率先して啓発を試みるべきだと思う。しかし、政治学や経済学を論じる者でさえ大半は時事問題に触れないという惨状である。教育者の側もまた、「政治的中立という病」に深刻に蝕まれているらしい。
一般に人々が成長する過程である種の政治的価値観・態度を形成することを「政治的社会化」と呼ぶ。その形成期は15~24歳にあたるとされる。[2]この重要な時期に前述したような「無政治化」された教育現場で「信仰的」あるいは「中立的」、「自分探し的」姿勢で過ごす現状は民主主義社会の発展という観点からすれば極めて憂慮されることではないか。
そもそも中立的で偏らない教育など有り得ない。「不偏不党」は現状肯定の保守である。
「教育問題とはつまり政治問題である。現実の公教育は二面性を持っている。すなわち一方ではそれは支配階級による国民統制の機能を持ち他方で民衆の権利としての教育の要求を反映させてもいる。そしてその二つの面が拮抗しながら現実の公教育の性格を決めている」。ある専門家はこのように述べている。[3]
現状を見ると大学までもが過度に「無政治化」されているという前者の面の肥大化ばかりが著しい。それによって政治的社会化途上の若者はアパシーばかりを加速させていく。
しかし、丸山真男はこう語る。
「民主主義を担う市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。とすれば民主主義はやや逆説的な表現になりますが非政治的市民の政治的関心によって、また『政界』以外の領域からの政治的発言と行動によって初めて支えられているといっても過言ではないのです」[4]
民主主義とはもっぱら政治家が政治を担うのではなく、1人1人の草の根によって政治を支える仕組みに他ならないのである。
では、諸外国はどうだろうか。例えばアメリカでは学校に政治への関心を育てる授業や課外活動が多数あり、生徒は政策を作り演説をし、選挙活動をする。模擬議会も何度も経験する。そこで親しくなった友人達が後に実際の政治活動の仲間となることもある。その差は我が国とは歴然だ。
最後に映画監督・伊丹万作が、なくなった1946年の4月に書いた一文を紹介したい。
「我々が今まで政治に何の興味も感じなかったのは政治自身が我々国民に何の興味も持っていなかったからである。」[5]
消えた年金、薬害肝炎、ネットカフェ難民、貧困…現在の日本には政治が取り組むべき深刻な課題が山積している。だが、国会では、インド洋で自衛隊がアメリカ軍に無料で給油を続けられるようにすることが最重要テーマになっている。
残念ながら「国民に関心のない政治」はいまだに続いている。この惨状は民主主義の発展のみが打破できよう。それには教育現場の「脱無政治化」こそ不可欠なのだ。了
[1] 『週刊金曜日』2004/9/17付参照
[2] 久米郁男他『政治学』有斐閣2003 391頁
[3] 堀尾輝久『教育入門』岩波新書1989参照
[4] 丸山真男『日本の思想』岩波新書1961参照
[5] 伊丹万作『伊丹万作全集〈1〉』筑摩書房1982参照
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