2007年12月18日火曜日

戦場のピアニスト(ロマン・ポランスキー監督)

 ひたすらただ、とにかく逃げること、潜むこと、そして生きて残ること―、これが第2次大戦中、ピアニストであった主人公に課された唯一の仕事だった。全てはナチスが彼に強いたことである。
 彼は本当に身も心も「弱い」。他のユダヤ人のように地下で抵抗し、銃で蜂起するという選択は決して取らない。心理学者は「怒り」は「悲しみ」に勝ると言うが、彼の場合、「怒り」や「憎しみ」、「恨み」といった感情よりも、終始それらを圧倒する深い悲しみだけがその心を包み込んでいる。けれどもそれは決して、「絶望」とは同義ではない。この点が本作の核となっている。
 目の前でナチスによって何の理由もなく一家族が射殺されるのを目撃しても、自分の家族が強制収容所に送られてしまっても、破戒され尽くした街にたたずんでも、何より、ピアノを弾くことが全く許されていなくとも、彼は「絶望」だけはしていなかったように見えるのである。
その代わり、ひたすらただただ彼は「悲しむ」のだ。声を上げて涙を流しながら廃墟となったワルシャワを歩く彼は、実はまだ「希望」を捨てていなかった。
なぜならばキルケゴールの言葉を借りれば「絶望とは死に至る病」[1]であり、彼がもし「悲しみ」ではなくこちらの感情に支配されていたのなら、とうに自害していたはずだからだ。 
 絶望によって、悲しみ、泣くことさえ無くなった時、それは精神が死んだということであり、人間が人間でなくなったということを意味する。これこそがナチスへの完全な敗北なのだ。多くのユダヤ人は既にこのような状況であったことも本作では丹念に描かれている。強制労働に駆り出されている者も、理不尽に処刑される者も、無表情のまま茫然としている者ばかりなのであった。無力感と諦めの思いだけがスクリーンを漂っていた。
 だから、「悲しむ」という感情をはっきりと現す主人公の姿は、「自分は絶望していないのだ」という、非暴力の形を採った力強い意思表示なのだと捉えることができる。
 「抵抗」とは、「勝利を収める」ということでなく、「決して敗北しないこと」だと自分は思う。とにかくも、たとえどんなに哀れで惨めな状況になろうとも決して敵の前に両手を上げて降伏しないこと、自ら死を選ばないことなのである。
 そうだとすれば「悲しみながらひたすら必死に逃げ続ける」という主人公の生き方は、死を覚悟して銃を握ったゲットーの同胞や、常に致死量の毒薬を持ち歩きながら地下活動を行っていたワルシャワの共産党員など他の登場人物たちよりも遥かにしたたかで、しぶとい「抵抗」であったように感じられる。
 そして、ついに生き延びることに成功した主人公は戦後ピアニストとして念願の復帰を果たす。ホールを埋め尽くした大観衆の前で以前のように華麗な指さばきで彼は演奏する。美しい調べの流れるこのラストシーンは、ナチスに対する最も優雅で洗練された「人間性の勝利」のメッセージに違いない。了
[1] キルケゴール『死に至る病』岩波文庫1957

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