2007年12月13日木曜日

地獄の黙示録(フランシス・コッポラ監督)

 かのベトナム戦争において、アメリカは第二次世界大戦で投下した量の10倍以上に上る爆弾をあの小さな地域に落としたという。あるいは上陸した兵隊たちは村々を焼き払い、住民を皆殺しにしていった。政治的覇権を得る手段としての戦争が、いつの間にか破壊行為それ自体が目的化したかのように凄まじい蛮行が繰り広げられていた。
 「戦争とは他の手段をもってする政治の継続以外の何ものでもない」という『戦争論』[1]で述べられたクラウゼヴィッツの考え方はこの戦争では全く的を射ていないようだ。それよりも、ロジェ・カイヨワによるもう一つの『戦争論』[2]の分析の方が当てはまる。
同書によれば戦争とは「破壊のための組織的企て」であり、クラウゼビッツが言うように政治目的に従属するのではなく、始めから「絶対的」であり、「破壊」それ自体が目的として露出しているのである。そこでは戦争は戦争そのもの以外のいかなる目的によっても規定されていない。戦争は起こる前には「政治の一手段」足りうるがひとたび起きてしまえばもはやそれは手段ではなく、逆に破壊行為とその後始末がその後の政治を決定することになる。そこにおいて戦争と政治の関係は逆転し、戦争の「現実」が政治を規定する。
本作の中で最も衝撃的なシーンは、ワーグナーを大音量で流しながらまるでスポーツをするかのように軍用ヘリからミサイルと銃弾を雨あられと小さな農村に向けて撃ちまくるところだ。それは「ベトナム戦争とは典型的なカイヨワ型戦争だった」ということを余りに雄弁に物語っていた。ストーリーもまた、奇抜だが良く練られている。エリートだったカーツ大佐は勝手に隊を離れ、現地に王国を築く。それで主人公の兵士達は「王」となった大佐を殺すため、ナング河を遡って行く。上流へと進むごとに出会う人間、起きる出来事は非文明的となり、野蛮な本能だけに支配された古代の世界へと変わる。そしてその「退行」の帰結が、彼の誇る「キングダム」である。有能で必ず任務を果たしてきたというカーツ大佐は、「ベトナムを武力によって支配する」というアメリカの偏執狂的な願望を東南アジアのジャングルの奥地で遂に実現して見せたのだ。彼は狂気に駆られたアメリカの恐ろしい落とし子に他ならなかった。了                             
[1] クラウゼヴィッツ『戦争論』岩波文庫1968参照
[2] カイヨワ『戦争論―われわれのうちにひそむ女神ベローナ』法政大学出版局1974参照

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