麻薬との戦いは欲望との戦いに他ならない。快感への誘惑は、法を破るリスクを負ってでも生産し、流通し、密売し、富を得ようとする者たちを必ず生む。それに対して、多くの国家が莫大な予算と人員を用いてアヘン、コカイン、ヘロイン、大麻を社会から撲滅しようと躍起になる。が、歴史を見れば、その成果が上がったことは一度としてなかったといえよう。端的に言えば、この世から麻薬が消滅する時は、人間が絶滅した時だけだ。人の欲望に寄生するのが麻薬だからである。したがって人間に「寄生」している麻薬という存在を完全に排除しようとするのは夢物語であり、イデオロギーでしかない。現実的かつ唯一合理的な解決策は麻薬の「共生」だけだろう。実際、欧州やオーストラリアでは大麻使用は厳しく取り締まっていない。厳罰主義は合理的でないという考えのためだ。しかし、アメリカが採る手段は常に前者だった。「麻薬対策」の名の下でコロンビアに軍事介入をし続け、大麻使用者も容赦なく逮捕して投獄する。だが、その取り組みはご存知のように功を奏していない。政府が取り組む「麻薬撲滅戦争」は「テロとの戦争」同様、全く終わりが見えていない。合理主義ではなく、宗教道徳に基づく手法に異常なまでに固執する政府の姿勢は皮肉にも麻薬中毒者の姿と重なっても見える。
このような事実を念頭に置いて鑑賞するならば、本作は極めて悲壮感の漂う映画に思えた。
本作はメキシコ、ワシントンD.C、カリフォルニアの3つの地域を舞台に物語が展開される。それぞれの場面を黄色、青、赤と、映像を色分けし、畳み掛けるように3話を交互に進行させていく。この演出は臨場感と緊迫感に富み、アカデミー編集賞受賞という大きな成功を収めた。
メキシコの捜査官のシークエンスは、アル・パチーノ主演の名作刑事映画『セルピコ』[1]を連想させるものだった。巨大な警察内部の腐敗へ単身で挑み、最後は何者かに銃撃されて半身マヒになってしまった主人公。本作の捜査官も熱心なあまりに麻薬カルテルに対して深入りし過ぎ、付け狙われる羽目になる。そして挙句には同僚の命を奪われてしまう。
また、アメリカ政府・麻薬取締担当の長に就任した法曹エリートのパートでは、職務に打ち込む最中、自身の娘が麻薬中毒になって矯正施設に入れられてしまうという皮肉な顛末が描かれる。
麻薬ブローカーの裁判のストーリーでは、彼の妻の謀略により証人が消されたことにより、検察の敗北に終わる。
これら3章のエピソードはいずれもが、救いがたいほどに麻薬の猖獗を見せ付けていた。
したがってこの作品に存在するのは、「勝者の不在」である。勝利への期待も勝機への希望も勝算への展望も見る側は感じることができなかった。「永続する負け戦」でしかないようにも思える。だが、最後の場面には微かだが「救い」を見つけられた。
メキシコの捜査官は「麻薬問題は貧困問題だ」と訴えて米側に対し、情報と引き換えに国境の街に大きく明るい街灯をつけるように要求する。野球に興じる貧しい住民達を夜、その街灯がまぶしく照らし出す映像で本作は幕を閉じる。そのラストシーンは、深い闇の奥から一途の光が差していることを感じさせたのだった。了
[1] シドニー・ルメット監督『セルピコ』1973公開
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