スクリーンの中では全てが黒になってゆく。白昼さえも夜になり、日なたさえもが日影に変わる。陽の光は枯れてゆく。それと同時に「生」の火も消えてゆく。そして誰もいなくなる。
この作品の核心は「黒」という色である。画面には常に影が落ち、時には完全に漆黒へと染まる。しかし、忘れてはならないのは、その「黒」は決して従来の意味での死や闇や消失といった「負」のイメージの表象とは全く異なっていることだ。
「インターネットを通じて現れてくる幽霊」がストーリーの鍵を握っているように、またコンピュータのプログラミングを研究する大学院生が「人は皆つながりたいの、でもつながれないのよ」と語るように、本作の主題は「つながり」であり、「黒」はその隠喩として描かれている。
哲学者ジンメルは「人間というのは結合をめざしながらも常に分割を行わざるをえず、分割せずに結合することもなしえない存在者である」と記す。[1]
私たちは、身体は皮膚によって隔てられているのに心は常に他の誰かとつながりたいと求め続けている。しかし、その渇望には絶対に超えられない壁がいつも立ちはだかる。それこそが「死」という存在なのだ。
落命の際は誰しも一人きりである。だから、その孤独と寂しさに耐え切れない者も出てくるのかもしれない。特に、24時間365日、ネットやメールで誰かとの「つながり」を必死で保ち続けている私たち現代人にはそのような者が多いことだろう。
本作において、そうした人々が取った選択が「生前から死んでおく」という方法だ。ネットに接続されたパソコンの画面から現れる「死者」と、自分の死の前から「つながり」を持つことで、彼らは死後の孤独や寂しさを打ち消そうとする。
昨今社会問題になっている「ネット心中」が、「死に対峙する局面」を用いての「生きている他者」との擬似的親密圏を形成する行為であるならば、本作の登場人物たちの行動もそれを連想させる「極限的なつながり」の形を示唆している。
この時、本作において「黒」の持つ意味は、「絶望」から「希望」へと180度反転する。
私たちが生きるこの世界はあまりにカラフルなキャンパスだ。だから、彩りたちが一つになるのはとても困難である。だけども唯一「黒」だけはどんな色であろうと自身と同じ色へまとめることができる。さらには、この世界だけでなく、彼岸に広がる「あちらの世界」とも私たちをつなげてくれる。だから寂しさなんてどこからも消し去ってくれる。
実際に、「暗在系」という、目に見える世界以外のもう1つの世界が存在するという科学理論もある。ここではありとあらゆるものは「素粒子の霧」のような状態のエネルギーとなって、太陽も地球も月も渾然一体となって、区別はなくなっているという。そして、人は死後、この世界へ入っていくのだと言う意見も聞く。[2]
あらゆる孤独に耐え切れなくなったとき、私たちはもう「埋葬された皇帝よりも生きている乞食のほうがよい」[3]というほど、「生きる」ことへの執着を喪うのかもしれない。了
[1] ジンメル『橋と扉』白水社1998参照
[2] 玄侑宗久『死んだらどうなるの?』筑摩書房2005参照
[3] ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌの寓話』沖積舎1996参照
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