2007年12月10日月曜日

リリイ・シュシュのすべて(岩井俊二監督)

 いまだに絶え間なく疼く、心の古傷のことを昨今では「トラウマ」と呼ぶ。だが、その呼び方は「傷」の「リアリティ」を薄めてはいまいか。身体のケガと同じようにはっきりと「傷」と呼んで、その存在に向き合うことから逃避しないことこそ、自己の魂の回復につながるのではないか。この作品は、観る者皆が抱えるそんな過去の古傷をひどく疼かせてやまない。ただ、それが「魂の回復」にはつながらないかもしれない。ここに、この映画だけが持つ「やるせなさ」や「わり切れなさ」がある。
 本作は「どこまでも明るく爽やかで前向き」という従来の青春映画の全く逆をゆく。とにかく陰惨で暗くて「痛い」。誰もに必ずあるであろう、思春期の悪い記憶、悲しい出来事ばかりを詳細に再現していく。「中学生」という、大人と子供の狭間に置かれた不安定な存在が集う「中学校」というある種異様な空間の実像を、まるで中学生が撮っているかのごとく機微までを巧みに描き出す。
 作品の舞台は、大都市の郊外と化した地方都市である。郊外化した地方の街は大都市以上に荒んでいるといわれる。コミュニティや伝統が急激な都市化により破壊され、家族のあり方までも変貌している。少年の犯罪は大都市よりずっと多い。郊外化した地方には距離を超えて都会の悪意ばかりが流れ込んでいるのだ。善いものが模倣されることはない。[1]
そんな場所に生きる主人公達の心も例外なく荒れている。万引きや援助交際、いじめの日常化。純化され増幅された都会の欲望のみが支配する彼らの街は、ひどく哀れだ。主人公達にとって、そんな暮らしの中で純粋さと汚れなさをかろうじて保っているものは澄んだリリイの歌声と緑の田園だけである。
制服のままの主人公が田圃の真ん中で、ヘッドフォンを付けてリリイの曲に聞き入る美しいシーンはその象徴だ。
映像について述べれば岩井は非常に独創的と言えよう。スクリーンには常に淡い光が差し、全体が白っぽくぼやけている。このスタイルはデビュー作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』以来変わっていない。この光が映像を幻想的にし、かつ観る者に切ない感情を与えることに成功している。「キタノブルー」と北野武の映画を形容するが、岩井の特徴はこの「イワイライトニング」だと言える。また、演出もかなり抑制され演技も北野作品のようにぶっきらぼうで素人ぽい。これがまた映像にドキュメントのようなリアリティをもたらす。時々主人公達がハンディカメラで撮る映像に変わるがそれもまたドキュメント性を生んでいる。「演出を極力抑える」という演出手法が多用されている。
作品を貫くのは「イワイライトニング」とこの演出手法によるであろう「静謐な空気」だ。この映画の中では、行使される暴力も大きな音では主張しない。血は流れるし人は死ぬのにかまびすしさはなく、全ては静けさの調和へと帰ってゆく。それは、優等生だったが一家離散のせいで一気にぐれた星野とその仲間によって暴行された少女が、頭を丸坊主にして無言で学校に復帰するという場面に典型的に表されている。
藤沢周は『オレンジアンドタール』[2]において「授業中に抜け出した校舎の廊下はいつも何かが用意されている気がする、よく分からないけれど何かが隠れている」と書いていた。本作からもこのような思春期の繊細な感性を非常に強く感じることができる。
それでは、主人公達にとって「リリイ・シュシュ」とは一体なんであったのだろうか。彼女について頻繁に彼らがつぶやくのは、「感性の触媒」という意味らしい「エーテル」という言葉だ。彼らにとっては彼女こそ、荒んだ街と荒れた日常の中での唯一の「聖性」だったのかもしれない。非行に走った星野と主人公をつなぐのは「リリイへの思い」だけだった。けれども二人とも、結局自身のエーテルを、犯した罪によって汚してしまった。だからもう彼らの耳には彼女の歌声は聞こえない。彼らが崇め続けたリリイの旋律は、傷つき傷つけあい、心の汚れた彼らにはもう2度と届かないのである。    了
[1] 三浦展『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』洋泉社2004参照
[2] 藤沢周『オレンジ・アンド・タール』朝日新聞社2000 11~12頁

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