2008年9月2日火曜日

ダークナイト(クリストファー・ノーラン監督2008)95点


 ハリウッドエンターテイメント大作において、本作は間違いなく近年の最高傑作である。映像技術、脚本、編集、演出、演技どれもが比類なき完成度を誇る。最大の見せ場のアクションシーンは、もはや『マトリックス』を凌ぐクオリティは有り得ないと考えられている現在でも同作に並ぶとも劣らないスタイリッシュでエキサイティングなものに仕上がっている。
 本作を、娯楽作品に否定的な批評家の面々までも称賛せざるを得ない稀代の傑作足らしめたものは、『スパイダーマン』、『マトリックス』、『ハリーポッター』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』等の他のメガヒット作品とは明白に異なるスタンスのためであろう。
 それは、この物語を貫く「リアリズム」と「ペシミズム」だ。他のアメコミヒーローと違い、正体は生身の人間にすぎないバットマンは街を脅かす悪と戦う中で日々、人並みに体は傷つき、心も苦悶する。血を流す二の腕を見ながら「バットマンを続けることで本当にゴッサムシティからいつか悪を根絶できるのだろうか」と。その一方では叶わぬ恋にも苦闘している。
 そんな思い通りにいかないばかりの日常の中、最大最強の敵が彼の前に出現する。それが「ジョーカー」だ。
「世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・名誉をえようと思って悪をなす。」[1]ある名高い思想家はこのように「悪」を分析した。しかし、ジョーカーにはそんな目的はどこにもない。仲間や手下でさえ平気で殺害し、病院を爆破し、街中の銀行から強奪して積み上げた巨大な札束の山にはガソリンをまいて躊躇無く火をつける。彼はまさに「悪のためにのみ悪をなす」常軌を逸した存在に他ならない。
 ジョーカーが持つ猟奇と狂気は実在した殺人鬼の姿を強く連想させる。ゾディアック、都井睦雄、宮崎勤、ウ・ポムゴンetc。彼らは突然、幾人もの人々を次々に殺し始めた。その動機はいまだにはっきりと分からない。
かつてキリストは「心の貧しきものは幸いである」と語り、親鸞は「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と述べて、自ら犯した罪を悔い改める人間こそが天国に行けるのであると説いた。だが、21世紀の現在、こうした悪人像はもはやあまりに牧歌的なのかもしれない。『羅生門』[2]の主人公の下人は平安時代、貧困ゆえ、生きるために盗賊になる決意をした。しかし、現在の凶悪犯にはそういった合理的な理由は見当たらないのだ。ジョーカーはしたがって、間違いなく現代を象徴する「悪」の姿だと言えよう。
ジョーカーは「正義」のシンボルであるバットマンを心底憎悪している。彼に対する恨みだけが、ジョーカーの生きる糧となり、彼に次々と悪事を働かせるのだ。
「バットマンがいるから私がいる」
この言葉が、2人の関係を端的に示す。古代中国の「陰陽思想」によれば、世界は陰と陽の2つの要素から構成されているという。その中には、陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つとする「陰陽互根」という考えがある。この世における「正義」と「悪」の関係はまさに大極図のように深く絡み合ったものであり、相互依存的であり共依存的であるのだ。
だからこそ、例えばアンパンマンもウルトラマンも決して「悪」に対して止めを差すことはいつであれ出来ないし、「世界の警察」を標榜するかの国アメリカも常に新しい「脅威」を探し続けているのだろう。「敵こそ、わが友」という皮肉でやり切れない真実がここにはある。余談だが現在上映中の同名ドキュメンタリー映画では、ナチスの超大物高官であったクラウス・バルビーを戦後、アメリカがファシストの戦犯として裁く代わりに新たな敵である共産主義勢力との戦いに利用した事実が丹念に暴かれている。
バットマンの「落とし子」であるジョーカーは、「正義」ゆえに決して法を犯すことができないというバットマンの弱点を容赦なく突いてくるのであった。ジョーカーはバットマンが正体を明かさない限り毎日1人ずつ罪の無い一般市民を殺害すると宣言し、街を恐怖に陥れた。そして実際に犠牲者が出てしまう。もはやジョーカーの蛮行を止めるにはジョーカーを殺してしまう以外に方法はなかった。ジョーカーは狂人のため、逮捕したところで精神病院送致にされるだけですぐに釈放されてしまうからだ。「法で裁けぬ悪」に対して「法に基づいて」立ち向かうことは勝ち目のない戦いでしかないことはバットマン自身も無論十分に承知していた。バットマンはジョーカーの前に完全な敗北を喫したかに見えた。
「フェアプレーを守るつもりのない者に臨む時はこちらもまた、フェアプレーを守る必要はないのである。さもなければ道理と正義のある側が常に負けることになる。」という文章を文豪・魯迅が生前残していたことを自分は思い出した。[3]無法を当然とするナチスの台頭に対して自由と民主主義を旨とする憲法と法律の範囲内であくまで対処しようとしたワイマール共和国が無残に粉砕され、ヒトラーやバルビーたちに乗っ取られてしまったという歴史上の逸話は彼の警句が極めて現実的であることを表していたといえる。
だが、バットマンは「正義のバットマン」であるがゆえ「フェアプレー」を投げ捨てることが決してできないのだ。彼は、自分もまた法を犯してしまうようになればそれは「悪」と同義であり、ジョーカーの前に屈することになると考えていた。だが一方、バットマンと共にジョーカーと果敢に戦ってきた熱血漢の検事は彼の挑発に乗ってしまう。
最凶の悪の前に激しく葛藤し、それぞれの異なる「決断」を行う主人公2人の姿が描かれることで、本作は単純な娯楽作とは一線を隔てた奥行きある作品に成立している。
最後にもう一度述べよう。バットマンは二重の意味でジョーカーを倒せない。
1つは「正義と悪はコインの裏表である」がゆえに。もう1つは「正義はアンフェアに対してもフェアプレーでしか臨むことができない」ゆえに。
本作のタイトルである「ダークナイト」という言葉はこのジレンマを解くヒントだったことに観る者は最後に気づく。それは、光り輝くヒーローから「暗黒の騎士」(dark knight)へと変わることであり、闇夜を照らす光から己自身が闇夜(dark night)へ成ることである。
ゴッサムシティの唯一の希望は、これからどこへ向かうのだろうか。それは誰にも分からない。物語は明けない夜のまま幕を閉じる。けれども私たちはまた、誰もがある1つの疑いなき真実を知っている。
「夜明け前が一番暗い」ということを。了
[1] フランシス・ベーコン『ベーコン随筆集』一穂社2005参照
[2] 芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫2000
[3] 佐高信『魯迅烈読』2007岩波書店「フェアプレーはまだ時期尚早である」参照

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匿名 さんのコメント...
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