2007年11月28日水曜日
ベティ・ブルー(ジャン=ジャック・ベネックス監督)95点
「There’s someone in this crazy world for me」、こんな歌詞をかつて聞いたことがある。[1]当時、中学生だった僕は素直にこの言葉を信じていた。「世界はいつでも狂っているけど、きっと愛だけは信じられるものなのだろう」。と。
けれどもそんな考えは、「サンタクロースは実在する」。というのと同じ位、稚拙で空虚な妄想だったと気づくのにそう時間は掛からなかった。
見栄や嫉妬や打算や欲情、「愛」ほどにギトギトした人間の行為は他にない。
いや、そもそも、それ以前に「愛」などというもの自体が、実はどこにもないのかもしれない。目には見えないし、耳にも聞こえない。手で触ることもできない。
「言うまでもなく、恋愛は幻想である。膀胱にたまった尿が個人を便所へと駆り立てるような具合に、個人を恋愛へと駆り立てる実体的なものは何もない。普遍的人間性なるものが存在しているかどうかは知らないが、もし存在するとしても、そのようなものに恋愛の基盤があるわけではない」。[2]ある心理学者はこう喝破する。
先日の「純愛」ブームで一儲けした面々もきっと誰一人こんなものを信じていないだろう。彼らは間違いなく「金」の方を信じているはずだ。ただし、上述した心理学者によれば「拝金主義」もまた一つの幻想に過ぎないとされる。
ようするに彼に言わせれば、人間は本能の壊れた動物であり、それぞれが様々勝手な私的幻想を抱いて生きているのである。俗にいうところの「価値観の違い」云々であろう。
「恋愛至上主義」などという言葉もあるように、世の中には「恋」や「愛」というものに無二の価値を求める人たちも多い。では、具体的にそれはどんな人々なのだろうか。
身もふたもなく核心を突いた名言がある。
「恋愛は仕事のない人々の仕事である」。[3]
頭脳や才能、美貌などによって他者から称揚され、尊敬されたことが残念ながらほとんど無い大多数の人々にとっては「恋愛」だけが唯一最後に残された、「自己承認願望」を満たしうる可能性を秘めた存在なのである。
たとえそれが、霞や蜃気楼のような、実体のない幻だとしても。
試験や仕事でいくら評価されなくとも、「恋人」だけは「自分」という存在を肯定し、受容してくれる。軽蔑などしない。マザーテレサもかつて「人間にとって最も辛いことは、誰にも必要とされないことだ」。と語っていた。
したがって、たとえば「デートDV」問題について、「結婚しているわけではないのだから、そんなにイヤならすぐ別れればいい」。と外野の者は切り捨てがちだ。が、当事者からすれば、そこには「誰でも良いから私を必要としてほしい」。という極めて強いパトス(情念)があるために容易に別れる決意が出来ず、深く苦悩するのである。
また、DV(ドメスティック・バイオレンス)という現象も、一方的な加害者と一方的な被害者という単純な図式ではないといわれる。実は、夫と妻が暴力を通じて互いに精神的に寄りかかっている病的な人間関係がそこにはあるという。これは「共依存」と呼ばれる心理メカニズムだ。この場合、共依存者は妻の方である。自己犠牲的に他人の世話を焼き続けることで自分の存在意義を実感しているのだ。[4]
かくもこのように私たちが持つ「承認願望」の強さは計り知れない。たとえ人間が幻想によってのみ生きているとしてもこの願望は極めて原始的で本能的なリビドーに見える。
こうした「承認願望」・「共依存」というタームから、本作は明瞭に解釈できるであろう。
塗装工の青年ゾルグと流れ者のベティという、社会の底辺に暮らし、誰からも疎んじられている二人。そんな彼らが出会い、惹かれ合ったなら、その愛が加速度的に激情化してゆくのは至極当然である。
なおかつ、ベティという女性が深刻なヒステリーを患い借家には火を放ち、仕事先のレストランでは気に入らない客をフォークで刺す等始終トラブルを起こすのならばゾルグが「共依存者」として破滅的に彼女にのめりこんでいくのは火を見るよりも明らかであった。
ハイウェイを疾走する車の窓から顔を突き出して運転席のゾルグへ「Je l’aime!!」(愛してる)と大声で叫ぶベティの姿は、余りにも無垢で無邪気な、澄んだ心そのものだ。
けれども、そのような純心さを持つが故にこそベティは、激しいヒステリーを通すことでしか外の世界と関係できない。彼女は、傷付いては攻撃し、攻撃しては傷付くという不毛な行為を繰り返す。けれどもゾルグだけはそんな彼女を決して見捨てはしない。
この展開は『「死の棘」日記』[5]という名著を連想させる。自らの不倫が原因で狂気に陥った妻の止まることのない責めに、ただひたすら毎日耐え続ける男の話である。
ゾルグも敏雄も、痛々しいまでにベティやミホに静かに寄り添い、堪え、忍ぶ。
余りにも不器用で朴訥な形で、彼ら二人は彼女たちへの「気持ち」を表現している。だがそれは外から見たら単なる「共依存」であり愛情というより「同情」なのかもしれない。
ベティのヒステリーはエスカレートの一途をたどり、遂には出産できないショックから自らの片目をえぐり、精神病院で拘禁されるまでに至る。
だがそれでもなお、否、ますますゾルグは彼女のために自分を捧げる。妊娠したと聞いては、費用を稼ぐために銀行強盗まで行ってしまう。
人々が生きる「世界」は、自分たち二人のためだけに存在している、という境地にまで彼と彼女の「共依存」が到達した時、二人はまさに、この世をもぎ取る。
最後にゾルグは、病院に忍び込み、錯乱したベティを自らの手で殺めるという挙に出る。
もはやここには、既成の法規や倫理や通念が及ぶ余地などない。「承認への欲求」以外の全てのものはことごとく失効している。世界は彼にひざまずくのだ。
こうした破滅的な恋の逸話を聞くたび、僕は常々こう思う。
「愛す男が馬鹿なのか、愛した女が馬鹿なのか」。
実のところは、どちらも同じくらいに哀しい愚かな生き物なのだろう。在りもしない「愛」などという錯覚を信じ、騙され、裏切られ、傷付け合うことを繰り返す私たち。
だが、「自己承認」を求める欲動が人間に存在する限り、虚構の「愛」は決して消えない。
そして、「愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる」。[6]のである。 了
[1] カーペンターズ『I NEED TO BE IN LOVE』
[2] 岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫 174頁
[3] モンテスキュー
[4] あさみ・まな『いつか愛せる-DV・共依存からの回復』 朱鳥社参照
[5] 島尾敏雄『「死の棘」日記』新潮社
[6] ニーチェ『善悪の彼岸』新潮文庫
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